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神曲(全)  作者: 名倉マミ


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第九章(全十二章)

この社会はセーターを一針一針編むようにしか変わらない。

:ルース・ベイダー・ギンズバーグ(アメリカ合衆国最高裁判所の女性裁判官)


《一九三八年 ベルリン》


 通りに面した窓の磨りガラスが粉々に叩き割られた。

 続けて群衆が投げこんだ大きな石が命中し、花を活けた花瓶が木っ端微塵に砕け散った。

 部屋の隅でうずくまって震えていた八歳のインゲが泣き出した。アンナが抱きしめて頭を撫でるが、彼女自身泣き出しそうだ。

 「出てこい!ユダヤ人!」

 怒号が響き、複数名が外壁を殴りつけたり蹴飛ばしたりする振動で、さほど大きくない家全体が揺れる。

 「お父さん、出て行って『やめて下さい』って言おうよ。ちゃんと話せばわかってくれるよ」

 十一歳のウジエルが言ったが、イサクは首を振った。

 「だめだ。出て行ったら殺される」

 群衆の殺気立った叫び声は続いていた。

 「よくもドイツ人を殺したな!おまえたちも殺してやる!」

 一九三八年十一月七日、ユダヤ人青年のヘルシェル・グリュンシュパンがパリでドイツ大使館員のエルンスト・フォン・ラートを射殺した。これを口実に、ドイツ各地でナチスが市民を煽動し、九日夜から十日未明にかけて、ユダヤ人やユダヤ人の家屋、店舗、シナゴーグなどへの暴行を組織的に仕掛けた。

 「うちは窓ガラスが割られたくらいで済んでよかったよ。殺された人、家に火を付けられた人、捕まってどこかに連れて行かれた人も沢山いるんだ」

 日が高くなってから、イサクがラジオのニュースを聴いて言うと、

 「よかった、ですって!?」

 まだ部屋の中を片付ける気にもなれないアンナが金切り声を上げた。家族四人とも、一睡もできずに憔悴しきっていた。

 「神様、わたしたちが何か悪いことをしたの?」

 インゲが絨毯の上に散らばったガラスの破片を見つめて呟いた。

 この事件は、破壊された建物のガラスが夜の月明かりに照らされて、水晶のようにきらめいていたことから、「帝国水晶の夜」(ライヒスクリスタルナハト)、または単に「水晶の夜」(クリスタルナハト)と呼ばれる。



《一九三九年 ベルリン》


 「奥さん!ローゼンシュテルンの奥さん!」

 秋晴れの午後、エルスベットが買いものの帰りに広場を通りかかると、聞いたことのある声に呼び止められた。振り向くと、隣人のルーマン夫人を含めた顔見知りの三人が立ち話をしている。

 「お喋りしてかない?」

 と誘われ、あまりそういう気分ではなかったが、仕方なく輪に加わった。戦争が始まってからというもの、心なしか皆、身なりが質素になった。店にも品物が少なくなった。

 「昨日、ネッケさんが親衛隊の人に連れて行かれたんですって」

 とルーマン。

 「ネッケって誰だっけ」

 ストゥッツマン夫人が首を傾げる。

 「ザンダーさんちの裏に昔から一人で住んでるユダヤ人のお婆さんよ」

 ルーマンに話を振られたザンダー夫人が訳知り顔で頷く。

 「ああ、あの方!昔、うちの子にお菓子を作って持ってきてくれたわ」

 「うちの子にも。洋服を作ってくれたわ」

 パウラが小さい時にも、とエルスベットは心の中で呟いたが、口には出さなかった。

 彼女が黙っている間にも、近所の夫人たちは口々に言った。

 「どこに連れてかれたの?」

 「よくわからないけど、難民キャンプか何かよ」

 「『水晶の夜』から、あの人たちに対する取り締まりが厳しくなったわね」

 エルスベットは思わず口を挟んだ。

 「なぜ取り締まられないといけないのかしら」

 三人は一瞬、口を噤んでエルスベットを見たが、ストゥッツマンが言った。

 「何か悪いことしてるんじゃないの?ポーランドでドイツ人を殺してるって新聞にも書いてあるし、ローゼンシュテルンさんのご主人、軍にお勤めだからよくご存じでしょう」

 「うちの主人はそんなこと言ってないわ」

 エルスベットはやや強く言った。また一瞬静かになったが、

 「元々この国の人じゃないのに、勝手に住み着いてるんだから仕方ないわね」

 ルーマンが話を切り上げるように言って、話題は子供のことや戦争のこと、物価のことなどに移っていった。

 ネッケが先祖代々この国に住んでいて、ドイツ語しか話せず、ドイツ国籍も持っていることはその場にいる誰もが知っていた。



《二〇一八年 東京》


 「在チョンは元々日本人じゃないのに勝手に住み着いてるんだから仕方ない。税金も払ってないんだから選挙権なくて当たり前だ。払っていてもゴキブリ以下の存在に選挙権を与えるの反対。〇されないだけ有難く思え」

 六万いいね。ネトウヨインフルエンサーのツイートだ。

 リプライ欄も引用リツイート欄も賛否両論のコメントで溢れ返っているが、わたしはいちいちコメントしたりはしない。黙々とツイッター運営への通報ボタンを押すだけだ。「理由を聞かせて下さい」の設問に対しては「特定の人種・国籍・民族や民族的ルーツに対する差別、ヘイト」。

 でも、通報しても「殺」を伏字にしていたりすれば削除されないことも多いし、平気で差別用語を使い、「税金払ってない」なんてデマを拡散するアカウントがなかなか凍結されないのはどうしてなんだろう。

 次の日曜の午後、わたしは新宿区立大久保公園で、プラカードを持ち、定住外国人に参政権を求める活動家で舞台役者の金田守信(かねだもりのぶ)金守信(キムスシン)の演説に耳を傾けている。

 「私は二〇〇九年に韓国籍から日本籍に変更した四十三歳の在日コリアン四世です。国籍変更の主な理由は参政権を得ることでした。外国籍住民は日本に長く住んでも自分たちのことを自分で決められず、選挙も国政・地方合わせて七回しか参加していません。国籍変更は簡単ではなく、多くの条件をクリアする必要があり、アイデンティティの一部を捨てる感覚を持つ人もいます。日本社会は国籍取得者に『日本人的になること』を求めますが、多様な文化と『日本人であること』は両立すべきです」

 オレンジユニオンはLGBTや在日コリアンをはじめとする外国人など、少数被差別者、この社会で特に弱い立場にある人々の労働相談や人権問題に積極的に取り組んでおり、内外からこうした集会やデモなどの催しに動員がかかることもあった。中には「労働組合としての活動を逸脱している」とよく思わない組合員もあったが、何人かの有志に集まってもらえば充分だった。

 「在チョンしーーね、在チョン出て行け」

 「チョンコはそんなに日本が嫌なら早く半島に帰りましょう」

 日の丸や旭日旗を掲げて集結したヘイト隊が金田に向かってトラメガで喚き散らす。中高年の男性が中心だが、若い男も少なくない。娘からおばさんまで、女もちらほらいる。おととし、ヘイトスピーチ解消法が施行されたのに、あまり効果は上がっていない。

 「私は在日コリアンのエンパワメントを目指し、近年、在日韓国・朝鮮籍者の高い自殺死亡率を背景にメンタルヘルス問題を探究しています。この自殺率は『日本全体』や他の国籍者より高く、私のように日本国籍を取得した在日コリアンを含めると更に上昇する可能性があります。一九八〇から九〇年代、指紋押捺拒否運動など在日コリアンは元気で社会を変える気概がありました。しかし、二〇一〇年前後の地方参政権の期待が萎み、権利獲得は停滞しています。特に参政権問題は、百年経っても在日コリアンが日本社会の構成員になれない象徴です。在日外国人やマイノリティが安心して暮らせない社会は、誰もが生きにくい社会です。この国に未来を作るには、全ての人が健やかに暮らせる社会が必要です。

 私も名前と姿はこんなですが、ひいじいちゃんばあちゃんの代から日本に住み、日本語しか話せません。生まれ育った日本という国が、日本の伝統や文化が大好きです。趣味は盆栽です」

 金田はヘイト隊に対して笑顔さえ向けながら、ファンに人気のある天使のような声で、毅然として演説を続ける。在日大韓基督教会の信徒でもあるこの人のこれがスタイルだ。百八十四センチの長身とコリアンらしい面立ちに、風に靡く紺とピンクのパジチョゴリが実によく似合う。

 「あっ、インチキ通名コスプレ金田、本名キムスシンに洗脳された反日カルトの生意気な朝鮮人たちがデモに出発するようです。ついて行って正義を実行しましょう」

 わたしたちが隊列を作って公園を出、通りを歩き出すと、ヘイト隊も一緒に移動してきて、歩道から罵詈雑言を浴びせてくる。それだけなら我慢していればいいが、迷彩服に身を包んだ伝統右翼というか武闘派右翼みたいな奴は平気で隊列に突進してくる、先導車両を蹴飛ばすなど、物理的攻撃を仕掛けてくる。一応警察も警備しているのだが、あまりデモの参加者を助けてくれないし、暴力を振るった者を現行犯逮捕したりもしない。

 白杖をついた青年がわたしの横で右翼に蹴りを入れられ、よろめいた。

 「あっ」

 その光景に気を取られた隙に、目の前に来たサングラスの男に持っていたプラカードを奪い取られた。「国籍を変えずに投票したい」という文言と、笑顔で投票用紙を手にしているかわいい二人の人形(ひとがた)をデザインしたプラカードは、歩道の縁石に叩きつけられて破壊されてしまった。背中がしわしわと痛んだ。

 わたしは泣きそうになりながら歩いた。何回目かの右翼のアタックで隊列から押し出され、転んで腕を擦り剝いた。嘲笑と「反日」「ブス」「クソ朝鮮人」「日本から出て行け」といった罵声がどっとわたしに浴びせられる。

 「十朱さん、大丈夫ですか」

 井内が差し出した手に掴まって立ち上がる。靴が片方脱げてどこかへ行ってしまい、靴下履きのまま歩いた。

 「金田、てめぇ、殺してやる!」

 ヘイト隊の頭を剃り上げた初老の男が金田を指さし、目を血走らせて突進してくる。

 「また来るぞ!スクラム組め!キムさんを守れ!」

 白髪の老人がアタックへの警戒を促し、号令をかけた。徒歩でシュプレヒコールの音頭を取る金田の周りに、わたしたちはがっちりと腕を組み、半円陣を張った。知っている者も、知らない者どうしも。また右翼に揉みくちゃにされる。

 「くっそぉぉぉ、負けるもんか!」

 わたしは見開いた目に力を込める。



《一九四〇年 ロストック港》


 オスカーは見開いた目に力を込める。

 「商人の家族だ。そこの備考欄に書いてある通り、仕事のため一家でスウェーデンに移住する。何か問題でも?」

 検問所の若い親衛隊員は疑わしげな目をオスカーに、続いてオスカーが同伴してきた四人の家族連れに注いだ。両親と娘が二人。緊張した面持ちで座っている。

 奥から顔を出したやや年嵩の親衛隊員が、母親をじろじろと見て声を張り上げた。

 「奥さん、あなた、髪の毛染めてませんかね?金髪は地毛ですか?」

 母親が答えようとする前に、オスカーが横柄に言った。

 「だからどうした。べつに染めたって自由だろうが」

 年嵩の男は応対を代わるように若い男に手振りで示した。

 「いや、戦時下の物資に乏しい時節であるから、贅沢は控えるように、というつもりで言ったのだ」

 言い訳がましく言って、オスカーが提出したビザと身分証をちらっと見やった。

 「よろしい。第三帝国軍情報部大尉殿のお墨付きですからな。お通り下さい」

 男は書類を返してそう言った。

 「船までお送りします」

 オスカーは言って、家族連れを促し、検問所を通り過ぎた。

 家族が船に乗りこむ際、オスカーは周囲に聞こえない声で言った。

 「いいですね、ストックホルムに着いたらまっすぐ、スティッグマイヤーの店に行くんですよ」

 一家の主人も、オスカーにだけ聞こえる声で囁いた。

 「イスラエルの神の祝福があなたにありますように」

 一家四人が全員乗船するのを見届けた後、オスカーは無線で連絡を取る。

 「タウベルト一家、無事、出国しました」



《二〇一八年 東京》


 【一九四〇年、カナリスの義理の甥であるハンス・フォン・ドホナーニが中心となり、「オペレーション7」を通じてユダヤ人を国外に脱出させる活動を開始した。アブヴェーアの海外任務を隠れ蓑に、ユダヤ人に偽装書類を提供した。ディートリヒ・ボンヘッファーもこの活動に協力した。】

 わたしは茶色の革製の栞を挟んで本を閉じる。ルーテル新宿教会のバザーで買ったもので、葡萄の絵と共に、ヨハネ福音書十一章二十五節の文言が刻まれている。「我を信ずる者は死すとも生きん」

 「その方の魂は、地上を離れてからも、あなたの中に生きている。あなたとして生きていますよ」

 という堂本あやかの言葉と、「『魂の不滅』を信じる」と壇九浄に語った自分の言葉が心の中で激しく結びつき、明々と火花を散らした。

 昼間、デモで右翼に突き飛ばされて道に転んだ時の怪我はまだ痛むが、その晩、わたしの心は明るく燃えていた。

 脱げた靴は誰かが拾って持っていてくれて、デモが終了した後で届けてくれた。

 「暴力に負けず、よくパレードを最後まで歩きましたね。尊敬します」

 「金田さんも心強かったでしょう。お疲れ!」

 「でも、危ない時は無理をしてはだめだよ」

 ツイッターのリプライ欄に、知っている人や知らない人が書きこんでくれたメッセージを読み、文京区のマンションの部屋で温かい生姜湯を飲みながら、金田が教えてくれた讃美歌をYouTubeで聴く。旋律は「歓喜の頌歌」、ベートーヴェン作・交響曲第九番だ。


(よろず)国民(くにたみ)急ぎ来りて

争いあえりし昔を忘れ

(まこと)の御国の基定めし

一人の御子をば君とし仰げ

【新韓日讃頌歌「기뻐하며 경배하세(ギポハミョ ギョンベハセ)/(あめ)には御使い」在日大韓基督教会】

参考文献

金泰泳(キムテヨン)「定住外国籍住民に、日本でも地方参政権を!」

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