Ep.4: VR初手術1st. Operation in VR world ― 再びメスを握る時 Scalpel again―
「……これは……俺の身体……?」
恐る恐る確認するかのように慎重に歩き出す。数歩、そして数十歩。歩けるぞ!!その後思わず駆け出す。ジャンプする。回転する。
全身の筋肉が喜びの声を上げるように反応し、関節が事故の前のようにしなやかに動く。
心臓が、久しく感じなかった高揚で脈打っていた。
「ようこそ、リニアスフィアへ」
振り返ると、そこにはかつての恋人香坂楓がいた。だが現実の彼女とは違う、VR世界のアバターだった。
彼女は見慣れた白衣ではなく、淡い青の未来的なロングコートを羽織り、目元には情報インターフェースが光っている。
「ここでは、医療行為のトレーニングだけではなく、“治癒そのもの”を追体験できる空間です。あなたがかつて救った患者たちの記録もここにあなたの経験した通りに再現されます」
「再現?」
(やけに他人行儀なしゃべりかただ。だが、楓にしたことを考えたら....まあ、そうなるわな)
「はい。ただし、彼らはプログラムではありません。あなたの記憶、そして意志から生成された“仮想存在”であり、現実なのです。」
蒼の中で、かつて救えなかった患者の顔が浮かんだ。
手術中に亡くなった少年。
脳腫瘍に蝕まれた少女。悔しさと無力感だけが残ったあの時間。
2052年現在、祖父の時代よりも医学は格段に進歩した。学問、研究、創薬、外科領域においても新たな デバイスやトレーニングシステムも発展。助かる命は30年前より格段に増え続け、医学は全能、全知の、神の領域まで進歩したかにみえた。
それでも蒼にとっては、助けた多くの人の笑顔より、ごく少数の救えなかった命に思いを馳せてしまうのだ。
「あなたには、まだ終わっていない“症例”があるのではないかしら?」
その瞬間、蒼の背後に、手術室の扉が出現した。
彼がまだ執刀することのなかった“未来のオペ”が、そこに待っていた。
「やれるのか、俺に……」
蒼は自分の手を見る。
血管が浮き、骨、筋が震え、手のひらに汗がにじんでいた。
「やるしかない。ここでは、まだ俺は“医者”なのだ」
彼は扉を開けた。
光の中へ、再び、進み始めた。
・VR初手術1st. Operation in VR world ― 再びメスを握る時 Scalpel again―
「術前スキャン、立体表示完了しました」
香坂のアバターが言うと、目の前の空間に少年の脳のホログラムが浮かび上がる。
巨大なシミュレーションテーブルに拡張されたその像は、静脈・動脈・神経束まで精緻に再現されていた。
「この患者は、8年前にあなたが担当したケースをもとに構成されています」
「当時の映像、カルテ、MRIデータをもとに。そして――あなたの“記憶”より」
蒼は喉を鳴らした。
その少年の顔は、記憶の中のままだった。
術中に急変し、出血性ショックで帰らぬ人となった。
診断も、判断も、すべて教科書通りだった。けれど助けられなかった。
「……あのとき、術前にもう一枚、立体再構成画像を撮っておけばよかったのだ」
「後頭蓋窩の腫瘍は、予想より深く、血管が巻きついていたんだ。気づいていれば、ルートを変えられた……のに」
VR空間の少年は、眠っている。
けれど、まるで本当に息をしているように胸が上下し、指先が微かに動く。
「これは、ただの訓練じゃない」
蒼はつぶやいた。
目の前の命が、仮想かどうかは関係ない。
「この世界にいる限り――俺は、医者、総合外科医、脳外科医なんだ」
香坂が手術室のインターフェースを起動する。
無影灯が空中に浮かび、無数の計器が並ぶ手術室では、火の鳥surgical system Vers.XIIの多関節アームが展開される。
火の鳥には関節すべてにエアーアクチュエータによる「力覚フィードバック」が標準で搭載される。それが臓器をつかむ感触を医師の手元に伝える。人体や患部は柔らかく繊細で、手術の際には触れたときの感覚が非常に重要となる。
驚いたことにVRの火の鳥においても外科医の指先に繊細な感覚を確かに伝えてくれるのだ。
蒼は、Surgeon consolの操作台に自然に座っていた。
VR内の彼の手が、手術用のジョイスティックに触れる。
脳の中の細い血管が、神経が、脈動をもって彼の前に現れる。
「メス、入れるよ」
誰に.......ともなく呟いたその声は、震えていなかった。むしろ力強ささえ感じさせた。
皮切、開頭、腫瘍の露出。
現実では1ミリの誤差が命取りとなる工程を、蒼は迷いなくこなしていく。
VRとは思えないほどの手応えと緊張感。流れ落ちる汗すら感じる感覚。
少年の腫瘍が視野に現れた瞬間、蒼の動きが止まる。
「……やっぱり、ここだ」
右側頭葉の静脈叢。その陰に、微細な異常血管。
かつて見逃した“死の芽”が、そこにあった。
蒼は静かに息を吐き、慎重にルートを変えた。
「鉗子、もうひとつ。出血リスクを先に潰す」
アシスタントに言うと、香坂が目配せで頷いた。
次の瞬間――
腫瘍が、するりと剥離され、出血はほとんどなかった。
「……摘出完了。閉創に入る」
香坂がリモートで操作盤に触れ、術野が自動的に縮小された。
手術は、成功した。
静寂が訪れた手術室。
やがて、目を覚ました少年のアバターが微笑んだ。