Ep3. 第1章続き リニアスフィア VR接続
それでも、楓は通ってきた。事故の後も、蒼の病室に。毎日。診療の合間に暇を見つけては。
顔に無理やり笑顔をはりつけ、他愛のない話をしてくれた。
うれしかった。
「ねぇ、蒼……。今日、ICUの子たちがみんなで折り鶴折ってくれてね。なんか、そういうの見ると、ちょっと泣きそうになっちゃうよね。……でも泣かないよ? 」
楓はそう言って、ぎこちなく笑った。けれどその瞳の奥には、言いようのない疲れと痛みが滲んでいた。
蒼は声を出せず、ただ天井の隅を見つめたまま動けなかった。
「……本当はね、こわかったの。電話が鳴った時。あの瞬間、心臓が止まりそうだった。蒼が、蒼じゃなくなるんじゃないかって……」
しばらく沈黙が落ちたあと、彼女はふと、ベッドのそばに身をかがめ、ささやくように言った。
「それでも、ここにいるからね。あなたが私を忘れても、怒っても、泣いても。ぜんぶ、受け止めるから」
でも蒼は、そのたびに、彼女の手を握れない自分に苛立ち、彼女の涙を止められない自分に、絶望した。
そしてある日、楓はついに彼のもとに来なくなった。
「もう、俺のことはいいから自由になってくれ」そう告げたのは、自分だった。
だが、その言葉が一番自分を傷つけることになるとは、気づかなかった。
それから、いくつもの朝と夜が、静かに折り重なるように過ぎていった。
いつしか、時間という輪郭はぼやけ、何日なのか、何か月が経ったのかも、もう記憶の奥に溶けてしまった。
面会謝絶のはずの病室に、看護師でも、ましてや医師でもない白衣の見慣れぬ男が現れた。
「青木さん。青木蒼さん......ですね。あなたのような“失わぬ知性”を、私たちは必要としています。お時間は取らせませんので聞いて.........いや見て、いただけませんか?」
「VRでの医療環境の実証実験というか、いわゆる治験なのですが.....ぜひ、あなたに被検者としてエントリーをしていただけないかと思いまして。」
「これをご覧ください。」慇懃無礼にしかも、意味ありげに、いやらしい笑みをうかべながら。
男は、持参した携帯端末のモニターを操作した。
そこに映ったのは、――走る自分。泳ぐ自分。誰かの命を救う自分。
「これは、まさか俺?!夢じゃないのか……?」
そう心のなかで、誰へ、というわけでなく呟いた蒼に、また意味ありげに男は微笑んだ。
「これは、“もうひとつの現実”なのです。リニアスフィアへようこそ!」
リニアメディカルラボという新興のAI事業を手がけるメーカーのMR(Medical Representatives)であった。
「これは、夢じゃないのか……?」
タブレットの映像を見つめたまま、蒼はうまくうごかないくちびるで呟いた。
そこに映る“自分”は、確かに生きているように見えた。手術着に身を包み、スタッフに指示を出しながら、執刀の準備をしている。
その手の動き、その立ち姿――間違いなくかつての自分だ。
「これは、あなたの脳から抽出した運動記憶と外科的スキルをもとに、仮想空間内で再構成し第3者視点で映像化したものです。」
説明を続けたのは、しばらく音信不通となっていたかつての同僚であり恋人であった香坂楓その人であった。リニア・メディカルラボの研究員となっていたのだ。
蒼も認める秀才で努力家の楓は、仮想現実における神経接続と意識投影技術の専門家となり、この“リニアスフィア”と呼ばれるVR医療治験のコーディネータ兼責任者となっていたのであった。
(おれのために......だろうな)
「意識が完全に健全であるならば、それを切り離して“この世界”に移すことができる。
蒼、あなたはもう一度――医師に、外科医になれるのよ」
蒼は口をつぐんだ。
心の奥で、抑え込んでいたものがゆっくりと頭をもたげてくる。
失望、怒り、希望、疑念、そして、渇望。
「……たとえ、それが偽物の世界であったとしても.......か?」
楓は少し笑った。
「人が痛みや苦しみを感じ、誰かに助けを求める限り、そこに医師がいる世界はどんな形であれ“本物”なのだ、と私は思うわ」
数日後、治験の同意書、契約書に電子署名をし、すべての準備が整った。
が、楓は最後に他人行儀な物言いでわざわざ付け加えてこう言った。
「蒼、ひとつだけ忠告しておきます。リニアスフィアは、ただの仮想環境ではありません。あなたの記憶、直観、欲望の奥底までが反映される、“拡張現実意識圏”です。
そこでは、あなた自身がもっとも信じる“蒼の姿”が――きっと世界を作り変えていくのです」
【接続開始】
蒼の意識は、電気信号となってGrand blueを潜るように沈んでいく。
身体の感覚は失われ、やがて完全な暗闇の中を漂い始める。
――次の瞬間、風の音がした。
目を開けた瞬間、眩い光とともに世界が押し寄せてきた。
ここは……どこだ? 見知らぬ病院の屋上。けれど、恐怖よりも先に胸を打ったのは、その美しさだった。
(これが、これが仮想現実だというのか?.......)
西の空には、夕陽が燃えるように広がり、東京新第3都市のスカイラインを黄金色に染めていた。
東の空には、信じがたいほどくっきりと、剣岳の稜線が蒼い光を返していた。
まるで夢のような光景――いや、夢ではない。
風が頬をなでる。髪が揺れる。
足元から確かな感覚が昇ってくる。立っている――自分の足で、今、ここに。
蒼はそっと手を広げた。指が、ゆっくりと、けれど確かに動いた。
「……動く。感じる。俺は……」
言葉は喉の奥で震え、歓喜にも似た息が漏れた。
その瞬間、彼の中にあふれたのは、ただ一つ――生きている、という圧倒的な実感だった。