Ep.2: 第1章沈黙の天井Silent ceiling ―記憶の向こうBeyond his memories―
風を切る音が好きだった。
早朝、まだ眠りに包まれた新東京の街を、ロードバイクで駆け抜ける。
水滴をはじくスリックタイヤ。回転するチェーン、軽快なペダリング。身体とroad bikeが一つのリズムとなり、融合していくあの感覚。
限界まで身体をマゾヒスティックにいじめ抜き、高鳴る鼓動を感じながら、尋常とも言えないケイデンスを維持し己の限界に挑戦した日々。
青木蒼にとって、それは手術台の上に立つのと同じくらい、精神を研ぎ澄ますための、いわば日常の儀式ともいえた。
総合外科医。全身を高レベルに診療できる外科医。陳腐だがいわゆるスーパードクターというのがわかりやすいかもしれない。特に脳神経外科領域を得意とする、医療界では誰もが知る天才。そして、ロシアからようやく独立したウクライナで初めて開催されるオリンピックトライアスロンの日本代表内定。
そんな肩書きはどこか浮世離れしていたが、彼の人生は常に“ギリギリ”の線を走ることで成り立っていた。
手術とトレーニング。人の命を預かるという緊張と矜持。自分の限界に挑むという興奮と達成感。
すべてが相互に影響し合い、彼の心と身体を突き動かしていた。
「また走ってきたの? 選考会近いのは知ってるけど、ほんとタフ過ぎよね。忙しい外科医やりながらオリンピアンだなんて! "二兎を追う者はなんとか”っていうけど。どっちも何とかしちゃいそうなのがあなたなのよねぇ.......全くっ」
恋人の香坂楓は、蒼のそんな日常にあきれながらも、いつも傍にいてくれた。
伝統の”宮古島大会”にでたあと、無茶を承知で手術に飛び込む彼を、苦笑いで送り出し、サポートしたこともある。
楓自身も、ER(救急)を守る最前線の主任外科医として同じ病院に勤務している。
二人は、止まることのない病院の中で、互いの存在に気づき、自然に惹かれ合っていった。
金曜の朝。外科病棟のナースステーションの壁一面に設置されたホロディスプレイに、病棟全体のバイタルグリッドが浮かび上がっていた。患者の体温、心拍、SpO₂、睡眠深度――すべてがリアルタイムで色彩の変化として表示されている。
ナースたちは拡張現実ゴーグル越しに各患者の情報を読み取りながら、スムーズにタスクをこなしていく。手元のカートにはAI搭載のモジュール端末が装備されており、患者の問いかけに自動で対応する看護支援プログラムがバックアップしていた。
「205号室、ID-357Dの患者さん 夜間の発熱、POCT終了 膿尿あり WBC CRP上昇傾向」
「了解、AIドクターの推奨はセフトリアキソン。各種培養は終了。主治医の楠Dr.には確認済みです。」
看護師同士のやり取りも、必要最低限。データと音声認識が常時ログを取り、業務はすべて克明に記録されながら進行していく。
カプセル型の無人薬剤搬送ドローンが天井のレールを滑りながら静かに到着し、QRcodeで指定された患者の薬剤を所定のロッカーに投下していく。
その横を、臨床支援ロボットが静かにすり抜けていく――手術後の患者を移送するために自律走行しているようだ。
それでも、現場にしかない“間”がある。看護師の一人が無言で仲間にジェスチャーを送り、AIでは捉えきれない患者の不安に気づいたことを伝える。人の目と手と、わずかな空気の揺れが交差する場所。そこは依然として、人間の領域だった。
そんな高度化された動きのすべてが、短い一瞬、ぴたりと止まったかのように見えた。
引き継ぎが終わり、ナースステーションに静寂が訪れたのはほんの数秒。
そのとき、蒼がぽつりと言った。
「週末の夜、ゆっくりご飯にでも行こうか。病棟じゃなくて、ちゃんと“普通の服”で会おうか?」
楓は少し驚いたように目を見開き、すぐにふわっと笑った。
「それ、いいわね。じゃあ……久しぶりにおしゃれして行こうかな。いいとこ、予約しといてね♡」
彼女の声には、普段より少しだけ甘さが混じっていた。
「期待していいよねっ」
蒼は、いつものように曖昧な笑みで返しながら、心の中で静かに誓った。
――せめてこの週末くらいは、メスを置いて、彼女自身に戻れる時間を贈りたい。白衣の影に隠れた笑顔を、取り戻してやるんだ、と。
そんな約束をしたのは、事故のほんの2日前だった。
その日も、空気は澄んでいた。早朝ではなく珍しく早めにdutyを切り上げた夕刻であった。
城址公園の外周を周回しながら、心拍数を可能な限り高く一定に保つことを意識する。
その日は、7月の終わり。世界選手権の国内選考レースを2週間後に控えた、重要な時期だった。
行政特区に入る最初の交差点。
ふと、信号の先に母親の手を振り払い、幼い男の子が駆け出そうとするのが見えた。
蒼の身体が反応するよりも早く、本能がブレーキを握った。
夕立後の路面のせいであろう。前輪がロックしスリップし、縁石に乗り上げ、蒼の身体は宙を舞った。周りの風景がすべてスローになり、白黒の無声映画のような景色に感じた。折れたフロントフォークとくのじに曲がったフロントリム。ゆがんだリアタイヤがゆっくりゆれながらぐわんぐわんと惰性で回るのが見えた。
死の危機に瀕した際、脳が激しく活性化し演算速度が上がるためだと聞いたことがある。
哲学的領域に踏み込むなら、脳がフラッシュバックを見せるなら悪い記憶よりたぶん良い記憶だろう。しかし瀕死の際に何を脳がみせるかは”そのひと”によるのだろう。
現実の視覚がとらえた風景以外に、彼の脳が最後に見せてくれた映像は、楓との甘い日常の記憶などではなく、救うことのできなかったあの少年の笑顔だった。これが俗にいう”記憶が走馬灯のように.....”というやつなのだろう。
それが、脳が蒼にみせた最後の記憶だった。
目を覚ましたとき、全身の感覚は消えていた。
だが、彼の脳は機能していた。眼球も、聴覚も、生きていた。むしろ、音や視覚については、敏感なくらいに感じられた。
だが、首から下の神経は沈黙していた。
C4――第4頸髄の完全損傷。
脳外科医として、彼は知りすぎるほど知っていた。その事実は、「もう絶対に動かない」という厳しい現実を、宣告のように彼自身に突きつけたのであった。
自発呼吸すら不完全で、もちろん声もでない。人工呼吸器につながれるのも時間の問題であろう。
利き手はもちろん、脚も背中も、ただの重力に従う“重り”となりさがった。
トライアスロン? 手術? 恋人の手を握ることすらできない?
――なぜ自分が?
――あの子どもは無事だったのか?
――こんな結末に、何か意味があるのだろうか?
――ああ..........以前にもおんなじことがあったなあ..........子供のころ、かあさん、とうさんが亡くなった時だ。
そんな問いは日々、喉の奥でやがて腐っていった。答えは、どこにもなかった。医療にのめりこむほど、神の存在を身近に感じていたはずなのに。この時ほど神を呪ったことはなかった。