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「眠れる英雄Regenesis」 現実への帰還   作者: しゅんたろう a.k.a. Ἀσκληπιός (Asklēpiós)
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Ep.15 : 第5章(前半)魂の居場所 The place his soul lives 仮想世界《ユグドラシル》VR《Yggdrasil》


丘のふもと、小さな診療所のテラス。

午後の光は柔らかく、風に乗って草と薬草の香りがほのかに漂っていた。


蒼は、診察室脇の木の長椅子に腰かけていた。

隣には、同じく白衣を脱いだ祐が座っている。二人はしばらく、何も言わず空を見上げていた。


やがて、蒼がぽつりとつぶやく。


「なあ、祐……俺、今どうなってる?」


その問いは静かだったが、重みを帯びていた。


祐は一瞬だけ、目を伏せる。

その視線がわずかに揺れたのを、蒼は見逃さなかった。


「リアルの話か?」


「他にあるかよ、馬鹿野郎。俺に気を遣うなって」


蒼は笑ったが、その笑みに影が差していた。

医師である自分が、いまや仮想空間に意識を移した“患者”であるという事実。

彼は、己の状態を、自分の目で知りたかった。


祐は答えなかった。代わりに白衣の内ポケットから一本の細い葉巻を取り出し、火もつけずに指でくるくると転がした。


「……生体反応は、週単位で下降傾向だ。

今のところは高度統合型ライフカプセルなしで自律循環は保ってる。

人工呼吸器は、従来のBiPAPじゃ維持できなくなって、2日前に神経応答補正付きの従量換気モードに切り替えた。脳幹の呼吸中枢の反応も、鈍い感じだな。」


蒼は、静かにうなずく。祐の語る言葉を、まるで自身のカルテの読み上げのように受け止める。


「今は、侵襲感応センサ付きのナノファイバーチューブを用いた内視鏡経鼻栄養モードに切り替えてる。


アルブミンは2.9、ヘモグロビン フェリチンも落ちてきてるけど、今のところ静脈経由での補充は回避してる。

腸の蠕動はまだ保たれてる。PEGへの移行は……様子見だな。生体模倣AIが、“まだ胃の反応閾値は超えてない”と判断してる」


「褥瘡は?」


「左臀部。レベルI。表層部の温度変化をモニターする感圧ゲルで常時監視してる。

ナノ粒子スプレーの局所再生治療を併用中。抗菌コートマットと除圧ベッドは週2回更新してる。でも、身体が痩せてきてる。あの“カプセル”に移行する準備も……すんでのところまできてる」


蒼は目を閉じた。

頭の中に、その“ライフカプセル”の構造が浮かんでくる――

自律神経を模倣した神経電位制御ネットワーク。

常時モニターされる皮膚下センサー群。

必要に応じて臓器ごとのAIシミュレーションによる介入判断。

一度入れば、意識は完全に外界から切り離される。

VR空間へのダイブも一方向となり、戻る方法は限りなく“ない”に近い。


「まだ……そこまでは行ってないんだな?」


「いや、俺が止めてる。ギリギリのバッファーでな。お前が“まだ”帰れるって、そう思ってる......いや信じているからだ。信仰の話じゃないぜ(笑)」


蒼はふっと目を開けた。


「ありがとう……で、俺の意識の五感ルート、どうなってる?」


「侵害受容系の一部は、まだダイレクト接続だ。疼痛・熱覚・内臓不快感――完全遮断じゃない。

いざってときに、現実の“苦しみ”がダイブ先に漏れ出す可能性はある。

だが、今のところ大きなスパイクは観測されてない。

感覚伝達フィルタがぎりぎり働いてる。……でも、限界は近い」


蒼は、息を吸った。どこか遠い場所の空気のように。


「……じゃあ、感染が始まれば、俺はこの世界にいながら、“それ”を感じるかもな」


祐は口元に葉巻をくわえたまま、天を仰ぐ。


「まったく……お前みたいな医者が患者になると、一番やっかいなんだよな。病態を正確に予測して、回避策も予想するし、主治医としちゃ面目なしだぜ、はた迷惑な話だよな」


「でも、俺はまだギリギリで踏みとどまってるってことでいいんだよな。……祐。お前が支えてくれていること、ちゃんと理解してるつもりだがな」


テラスの先、ガラス越しの診療所の室内では、

壁一面に未来的なモニター群が並び、バイタルをモザイク状に映し出していた。

AIアバターが一体、黙って待機している。

蒼自身の意識転送用デバイスが接続された、生体維持ユニットが奥の個室に鎮座していた。


音はない。ただ、ひとつの命の“鼓動”を守るために、膨大な技術がそこに静かに機能していた。


そして蒼と祐は、テラスの陽だまりの中、しばらく言葉を交わさず、

草の香りと、風の音だけを聴いていた。


――それだけで、いまは十分だった。



彼の声がわずかに震えていた。


「痛みは怖くない。医者だから、ある程度予測できる。でも――無力感が、怖い。」


しばしの沈黙。


祐は、吸えない葉巻を外して言った。


「それにな――ほかのチームのみんなも、ずっとそばにいるんだぜ」

祐は蒼の横顔をちらりと見て、笑った。


「お前がこの仮想世界で命を懸けてる間、現実でも、あいつらはお前の血圧波形の変化一つ、体温の0.1度の差にだって神経を張り詰めてる。ぴりぴりだぜ!

……“生体護衛チーム”、ってな。医者も、ナースも、工学エンジニアもな。お前一人のために、本気だよ」


(わかってる!)

蒼は、小さく肩を揺らした。

けれどその顔には、わずかな安堵の色がにじんでいた。


「……たとえ、お前の意思じゃなくたってさ。

この身体が保たれてるのは、誰かの手と意思があるからだ。

“他人に命を預ける”ってのは、お前がいつも患者に言ってた言葉だろ?」


祐はわざとらしく笑って、また吸えない葉巻を軽くくわえ直した。


蒼は目を伏せる。


「誰かの負担になってまで、生きる意味はあるのか」


「あるさ」


祐の声が、かすかに鋼のように響いた。


それは、たしかにお前の意思じゃなくても……誰かの手で保たれてる命だがよ。負い目を感じているなら、そう思うのはやめにしてくれ。

誰かさんが一番悲しむと思うぜ。

お前がもう一度、手術する日を、俺は見たい。彼女もそうだろうよ。ロボットでも、再生医療でもいい。お前が“患者を救う”日を、また現実で見せてくれよ」


蒼はその言葉に、何も言えなかった。

だが、静かに頷いた。


その頷きが、祐にとっては何よりの返事だった。


 


彼らの間を風が通り抜ける。

仮想の風かもしれない。それでも、心には確かに届いた。


やがて、香坂が診療所から顔を出す。


「時間。訓練プログラム第7段階、準備できてるわ」


蒼は立ち上がる。


「……行こう。今の俺にできることを、全部やる」


そして彼は歩き出した。


意識がここにあっても、身体がどこかで死にかけていても――

“自分”が生きる理由を、まだ捨てたくなかった。





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