Ep.11: 第4章 僅かな静寂Silence ユグドラシルYggdrasil
視界が明るくなる。
そこは、緑が広がる丘陵地と白い家並みの街だった。
まるで、ヨーロッパ郊外の小さな村のような穏やかな風景。
蒼は、ベンチに腰掛けていた。
隣には祐が座り、楓が静かに彼らに紅茶を差し出す。
「……なんだよこの違和感。あんな戦闘の後に、これか?」
「仮想世界の“自動修復領域”。仮にここがプログラムされた楽園だとしても……」
蒼は空を見上げた。
「あっちの俺は、ただの肉の塊みたいにベッドに沈んでる。でも、ここでは──俺は、ちゃんと俺なんだ。」
蒼は、差し出されたティーカップを手に取った。
琥珀色の液体から立ちのぼる香りが、ふいに時間を巻き戻す。
ひと口、静かにすする。
ほんのわずかに甘く、すっと抜けるようなミントの清涼感。
その奥に、ベルガモットの落ち着いたシトラスの影。
「……これ、『カサブランカ』だろ。マリアージュ・フレールの。
モロッコミントとベルガモット……間違いない。
君が昔、日曜の午後に──決まって、陽が傾く頃に淹れてくれたやつだ。」
そう言いながら、蒼は目を細め、ふた口、み口と静かに味わった。
五年という歳月が、まるで霞のように溶けていく。
「まいったな……五年ぶりだってのに、舌はちゃんと覚えてた。
俺は、まだ俺だったらしい」
カップをそっと受け皿に戻し、ふぅ……と静かに息を吐く。
その表情に滲むのは、戸惑いと安堵と、少しの悔しさ。
「……それにしても、これが作りものだなんてな。
味も、香りも、記憶と寸分違わない。
神の奇跡なのか、それとも“神を真似た、誰か”の仕業なのか……。
本物の神ってやつは、こんな現実を黙って見てるのか?それとも笑って見物してんのか??……そう思うよ」
そして、ゆっくりと視線を楓に戻した。
「──でも、ありがとう。君がここで、これを淹れてくれたことだけは……間違いなく、本物だ」
楓が言う。
「あなた、まだ神様に怒ってるの?」
蒼はふっと笑った。
「信じたいけど、答えてくれない。医学にも、VRにも、奇跡にも……俺は何度も賭けてきた。でも祈っても、現実は冷たかった」
祐がつぶやく。
「でもお前は今、生きてる。しかも、動いてる。銃握って、運転して、笑ってるじゃねえか」
蒼は目を伏せる。
「……仮想の中で..........だがなっ!!」
彼の手には、現実には握れないはずのWilson combatが静かに光を宿していた。冷たい鉄の感触を蒼に味わえと訴えるように。
楓が微笑む。
「でもこの世界で、あなたは「本当の」“外科医”でもあるのよ」
蒼は驚いたように楓を見た。
「外科医……? そうか!?」
「記録データから、あなたの手技と判断を再構成してる。仮想世界であっても、あなたは“執刀できる”」
彼の心に、微かに灯がともった。
「なら……もう一度、外科医として生きられるのか?」
楓と祐は、黙って頷いた。
蒼は天を仰ぎ、空に浮かぶ雲を見た。本物ではない。データの演算が作り出したもの。
だが、その中に――温もり、そして希望を感じていた。
記憶のなかの祖父母との出会い Memories of his grandparents
蒼はカップの最後の一滴を飲み干すと、無意識に立ち上がっていた。
どこかに行きたいという衝動ではなく――ただ、少し歩いてみたくなったのだ。
テラスを抜け、小径へと続く石畳に足を踏み出す。
朝露の名残が小石に光り、木々の隙間から注ぐ光が、水面を金色に揺らしていた。
せせらぎの音が耳に心地よく、風が頬をなでる。
しばらく歩いた先に、それはあった。
懐かしい白い軽井沢の教会。聖パウロ教会だったか?
石造りの外壁、尖塔のてっぺんには小さな十字架。新緑からこぼれた日差しが少し眩い。
かつて夏の終わりに、祖父母と訪れた記憶の中のまま――いや、それよりも、少しだけ美しい気がした。
その前のベンチに、ふたりの人影。
白い開襟シャツを着て麻の中折れ棒をかぶった、少し猫背の老人。
その隣には、優しげな微笑みを浮かべた上品な老女。
蒼の足が止まった。息をのむように声が漏れる。