六話
「華狐様に関してこんな噂が広まっていることをご存知ですか? 狐姫様の婿選び」
光姫は口を挟まない。彼女自身、自分が狐姫様と呼ばれていることを認識しているのだろう。
「神獣、特に干支一族の当主は結婚していないとなれないんですよね」
「それは違う」
光姫が否定した。
「本質は、当主が急死した際の次期当主の有無じゃ。成人している兄弟や子供がいれば、当主が不在になり、仕事をやる者がいなくなる事態を防げる」
光姫の説明に千里には腑に落ちるものがあった。干支一族の当主はそれぞれ違う役割を担っている。それらは内容に差はあれど、滞れば国が立ちいかなくなるような重要なものだ。当主が不在となることはすなわち国の一つの機能の停止を意味した。
「では、訂正します。神獣、特に干支一族の当主には成人済みの家族がいなければならない。いない場合は、結婚しないとならない。それで華狐様には婚約者がいらっしゃらない。恋人も、少なくとも俺は聞いたことがありません」
そこで、千里は一息ついた。慎重に、言い間違いのないよう気を付けて言葉を紡ぐ。
「華狐様は俺を婿にしようとしているのではないですか?」
光姫の視線が千里を射抜く。冷め切った表情からは何の感情の読み取れなかった。たじろぎ、視線を逸らしかけたが、すんでのところで踏みとどまった。
「今から理由を説明します」
声が震えているのがわかった。今更ながら立場の差を実感し、怖気づく。光姫がその気になれば千里の首を飛ばすことなど造作もないことだ。
「そもそも華狐様が結婚において何に価値を置くのか。俺はそこから考えだしました」
そこまで言ったところで話を遮られる。
「話が変わって悪いが、華狐様ではない呼び方はどうじゃ? 一々そう呼ばれるとどうも他人行儀で。お主はどうじゃ? なんと呼びたい? なんと呼ばれたい?」
唐突に始まった他愛もない雑談に見えるが、千里はこの会話の意味を理解していた。他人行儀。この言葉の意味は親しい間柄であるのによそよそしく振舞うこと。
(これは俺の質問に対する遠回しな肯定。さすがは公安の最高責任者。当主の名は伊達じゃない)
千里は光姫に舌を巻いた。だが、千里とて何の考えもないわけではない。雑談に興じているよう見せかけ、自身の意図を仄めかす。
「では、狐姫様とお呼びします。俺の呼び名は何でもいいです。お好きなものをお選びください」
敢えて相手に選択させる。呼び名は大きく二種類に分けられる。苗字にさん付け、苗字の呼び捨てなどの距離を感じる呼び名。そして、名前にくんやさん付け、名前の呼び捨てなどの距離が近い呼び名。
千里から希望を述べれば、前者の場合、婿入りへの外堀を埋められ、後者の場合、発言が歪曲される可能性がある。そこまでするとは思いたくないが、用心するに越したことはない。覆すことの出来ない圧倒的な立場の差がある。
千里はどちらも選ばなかった。前者を選ぶことで婿入りに王手をかけられる事態も後者を選ぶことで光姫の面目をつぶす事態も。
(さあ、どうでるか?)
嫌味にならない程度の笑みを維持しながら千里は光姫の出方を伺う。