二話
「ただいま」
帰宅した千里はすぐに机にスクールバッグを置き、手を洗った。狭いアパートの一室に水の流れる音だけが響く。
千里は一人暮らしだ。高校生になって家賃の安いこのアパートに引っ越してきた。平日、土日ともにほぼ毎日バイトに費やし、その中から家賃と生活費を捻出している。親が遺した金は大学進学のための費用なので一切手をつけていない。行政に頼ればいいとわかっているが、千里にはそれを許さない事情があった。今日は今月初めてのバイトが無い日だ。
(勉強しよう)
冷凍食品とレトルト食品、パックご飯をテーブルの上に乗せ、千里は机に向かった。教科書のページを繰り、ノートに問題の答えを書く。時々シャーペンを回すのは考えているときの彼の癖だった。
自身に課したノルマの半分を終えたところで、千里は休憩がてら掃除に取り組み始めた。申し訳程度に付いた収納スペースから箒とちりとりを取り出し、隅から掃く。ひっそりと佇む箪笥の前に来たところで一瞬彼の動きが止まる。遺影だった。
写っているのはため息が零れるほど美しいヒトの女性だった。艶やかな黒髪に柔らかい黒い瞳、儚げな印象を受ける白い肌。桜色の唇に、ほんのり色づいた頬。素朴な美しさを感じさせる顔立ちで小柄、その写真では着物を着ていることもあって和風美人という言葉がよく似合った。
彼女の名前は巽谷里保。千里が十五歳のときに死んだ千里の母親だ。
千里はしばし突っ立っていたものの、やがて、感傷に浸っていたことを恥じるように小さくかぶりを振り、掃除を再開した。部屋がきれいになったことを確認し、千里は掃除用具を仕舞った。
(今ので二十分は無駄にした。遅れを取り戻さないと)
千里が勉強に充てられる時間は微々たるものだ。学校、バイト、家事、通学などに睡眠時間を加え、さらに理想の勉強時間を足すとあっという間に二十四時間を軽く超す。学校や通学、睡眠時間をおろそかにしては元も子もない。かといって、家事をしないわけにはいかない。そこで、学生にとっては最も重要といえる勉強時間を削ることになるのだ。
試験前はバイトを控えるが、それもほんの少し。あまりに減らすと今度は生活が立ちいかなくなるからだ。
「もうこんな時間か」
時計を見、勉強を中断した。簡素な夕食を口に運びながら明日の予定を頭の中で再確認する。
(風呂から上がったらさっきのとこ、復習しよう)
千里には夢がある。権力、財産、地位。この三つ全てを手に入れることだ。これだけだとありきたりな願望に聞こえるが、千里は本気だった。
日付が変わるまで千里は教科書と向かい合った。