10話 移住
三日後の朝。
智香は二階の自分の部屋で、リュックを前に正座して待っていた。
移住の荷造りは既に済ませており、いつでも出発できる状態である。
迎えを待つ智香であるが、その面持は若干緊張した様子であった。
(どんな生活になるんだろ。友達できるかな……)
新生活への期待と不安で、胸が一杯だった。
それと、もう一つ。
智香はチラリと横に置いてある紙を見る。
心の隅に、移住の話自体が夢なのではと思う気持ちがあった。
貰った紙が証拠ではあったが、後から考えてみれば、あまりにも現実離れした出来事である為、心配になってきていたのだ。
新生活への期待と不安、そしてそれが嘘だったかもしれないという不安で、智香は落ち着かない気持ちで待っていた。
智香がそわそわしながら待っていると、不意に外の窓が叩かれる音がした。
振り向いた智香は、ガラス越しに映るヴァルサの姿を見て、安堵と喜びが混じった表情になる。
ヴァルサは窓のフレームの隙間から細いコードを差し込み、自分で内鍵を開けて中に入ってくる。
「迎えに来ました。お心は変わっていませんか?」
「はいっ」
ヴァルサは印鑑のような円柱状の物体を智香に差し出す。
「では、これをどうぞ。先日、言っていた遺伝子欠損の修復を行う薬です」
受け取った智香は興味深そうにその薬を見る。
「向かう前に投与してもらいますが、その前に簡単に説明させていただきます。その薬を投与すると、遺伝子の欠損が治って人間として完璧な状態となります。具体的な効果としては持病やアレルギーの完治、体力の上昇、精神の安定などです」
遺伝子欠損の薬自体は嘘ではなく、本当のことであった。
薬で修復させることで欠陥がなくなり、極めて健康的な身体になる。
未来人は欠損の進行が進んでいた為、手遅れであったが、この時代の人間なら完治可能なのだ。
ヴァルサと共にやって来た未来人の男がこの時代を選んだのも、それが理由であった。
「また、寿命も飛躍的に伸びますが、それに応じて成長の仕方も大きく変わります。大体十二歳程度までは普通に成長し、以降は極めて緩やかになり、寿命となる四百歳では中高生程の見た目となります」
「へー、何だかエルフみたい」
智香は特段驚きもせず、話を受け入れる。
漫画やアニメなどによって、空想上の長寿生物が知れ渡っていたので、受け入れが容易かったのだ。
その効果は欠損修復の薬ではなく、優奈が趣味の為に混入した延命薬によるものである。
未来人は生き長らえる為、様々な延命手段を研究していた。
その結果、作られたものの一つが成長の鈍化であった。
欠損状態の酷い未来人には効果が薄かったその薬も、現代の人間に使えば効果覿面である。
ほぼ一生を少女の姿のままでいられるだろう。
無論、未来人はそんなつもりで作成したのではなかったが、優奈の楽園を作るにあたり、非常に都合がいいものであった。
「他にも細かな効果が沢山ありますが、全てを説明していると時間がなくなってしまいますので割合します。
もし気になるようでしたら移動中にでも説明しましょう。
では最後に。成長速度があからさまに違う為、その薬を使うと、現代社会で生きることはできなくなります。
元に戻せないこともありませんが、それは遺伝子を傷つけるということですので、シェルターから去る時くらいにしかできないと思ってください。
つまり、この薬はシェルターの入場権であり、移住の最終確認をするものとなります。
承知していただけますか?」
「……はい。もう決めてます」
智香は決意を現すように力強く答えた。
「でしたら決意表明を兼ねて、智香さん自らの手で薬を打ってください。使用方法はキャップを外して、判子のように腕に押すだけです」
自分で打つことを促された智香は今一度、手に持つ薬を見る。
そして薬のキャップを外すと、躊躇うことなく腕に押した。
判子のような形をした器は注射器であるが、針はなく、痛みもない。
ただ押し付けているだけの感触の為、智香はちゃんとできているか疑問であったが、ヴァルサは特に何も言わないので、様子を伺いながら腕から注射を離した。
「はい、できましたね。劇的な変化はありませんが、効果はそのうち実感できるでしょう。これで智香さんは正式な住民になりました。それでは早速シェルターへ向かいましょうか。準備はできてますね?」
「あ、はい。できてます」
「では玄関から出ましょう」
そう言いながら、ヴァルサは体内から封筒とディスクの入ったケースを取り出し、智香の机の上に置く。
「あの、それは?」
「ご両親へのお手紙です。突然いなくなってしまったら、騒ぎになってしまいますからね」
「なるほど」
手紙には智香の筆跡で家出をする旨が書かれており、ディスクには昨日智香に見せた映像が記録されていた。
たとえ騒ぎになっても、警察の手が優奈に届くことはない。
しかしニュースなどになった場合、後発で勧誘した子から本人に話が伝わると、好ましくない事態になる恐れがある為、極力騒ぎは起こしたくなかった。
日本では年間で千単位もの児童が毎年行方不明になっているが、警察は事件性が高いとみられなければ真面に捜査もされない。
ニュースとなって騒がれるのは、ごく一部の事件だけであった。
だから置手紙をすれば事件性が薄いとみられ、騒ぎになることを防ぐことができるのである。
智香はヴァルサと共に部屋を出て、階段を降りる。
一階には母親がいたが、光学迷彩とノイズキャンセラーによって感知することはできない。
そのまま玄関で靴を履き、外に出る。
家の前には一台のミニバンが停まっていた。
「これで向かいます。どうぞ乗ってください」
ミニバンの扉が自動で開いた。
智香は乗り込む前に、ヴァルサを引き留める。
「ちょっとだけ、いいですか?」
ヴァルサに待ってもらうよう言った智香は後ろを振り向いいて、自分の家へ向かって頭を下げる。
「お世話になりました」
丁寧にお辞儀をし、礼を述べてからミニバンへと乗り込んだ。
ミニバンを走らせること小一時間。
智香を乗せたミニバンは、シェルターがある山へと辿り着いた。
一見、何の変哲もない山であるが、ここがシェルターの入り口がある場所であった。
山道を進んでいると中腹に近づいてきた辺りで、急に車は壁にハンドルを切る。
だが壁にぶつかることはなく、すり抜けてトンネルへと入って行った。
入口は光学迷彩で巧妙に隠されていた。
ロボットが制御する車が近づいてきた時以外は、物理的にも扉が閉じている為、偶然などで部外者に見つかることはない。
整備されたトンネルを進むと、開けた駐車場に出た。
駐車場には、既に何台か同じミニバンが停まっていた。
智香を乗せたミニバンもそこに駐車し、ヴァルサと智香は車から降りる。
そのままヴァルサの案内で、壁際にあるエレベーターに乗り込み、下へと降りて行く。
揺れはないものの、智香は凄まじい速度で下に降りていく感覚を受けた。
降りていく途中、エレベーター内にミストが充満する。
この霧は殺菌消毒の効果があり、智香の全身と持ち込んだ物の殺菌消毒を行っていた。
何分も下り続けていると、やがてエレベーターの勢いが止まる。
「到着しました。未来の技術の粋を集めて作った悠久の楽園・悠楽町です」
ヴァルサがそう言うと、エレベーターの扉が開く。
開き始めた隙間から、新鮮な風が智香の顔に吹きかかる。
そして開いたその先には、広大な町の風景が広がっていた。
前方にはホテルのような大きなビル。
その横には小学校が。
奥では数多の建物が建設されている途中であった。
そして特筆すべきは天井である。
地下であるにも拘らず、町の上には真っ青に広がる空が存在していた。
「まだ開発途中でご不便をおかけしますが、現在急ピッチで作業を進めていますので、それほどかからず不自由なく過ごせるようになると思います」
ヴァルサが説明をするが、智香は空が気になるようで、ちらちらと空を見上げていた。
「空が気になりますか? この空は映像による疑似的なものです。地下の圧迫感を解消させる為、シェルターの天井に張り付けられているパネルによって、空の映像を映し出しています。奥の方をご覧ください。あちらはまだパネルが張り付けてないので、分かり易いと思います」
蒼く広がる空であるが、まだ開発が進んでいない奥の方へ行くと、切り取られたようになくなっていた。
「気象システムによって、天気や季節の移り変わりも再現していますので、地上と同じと思ってもらって構いません」
「へー」
温度調整や送風、放水によって、様々な季節や天候を再現できるのである。
雨水や温度変化で、町の整備に余計な手間がかかるようになってしまうが、季節や天気の情緒は必要であると優奈は判断して、取り入れることにした。
智香が空から地上に視線を戻すと、その先に黒い球体を見つける。
「え? あれ?」
それはコードの手で荷物を持ち、寮へと入ろうとしているヴァルサであった。
智香が驚いて隣を見ると、そこにも変わらずヴァルサがいた。
ヴァルサがもう一体居たことに、智香は混乱した様子で、その二体を交互に見る。
「あれも私ですよ」
隣のヴァルサがそう言うと、前方のヴァルサがコードの手を伸ばして、智香の方へと手を振る。
「この身体はただの端末で、本体は別のところにあります。どれに話しかけても同じですので、特に気にしなくて結構です」
智香の横にいるヴァルサも複製であった。
管理者として女の子達を多く迎え入れる必要があった為、一部機能を削った量産型をいくつか作っていたのだ。
オリジナルのヴァルサは町の奥で、全てのロボットの制御を行っている。
「ここで立ち話するのも何ですので、そろそろ行きましょうか。新しく住民となった皆さんは、小学校の教室に集まってもらっています。詳しいお話はそこで」
智香はヴァルサに連れられ、小学校へと向かった。