缶コーヒーいかがですか
──くさいですよ、先輩。
今日のノルマを終え、帰社する最中、ふと脳裏をよぎる。後輩の南見から、いつか唐突に放たれた言葉。
当所のビルに到着し、建物に入る間際、鞄からデオドラントスプレーを取りだし、首や脇を中心に塗布する。あいつのせいで、おれはやけに神経質になっている。営業マンは第一印象が要であると、毎日かかさず風呂に入り、入念なケアをこなしているのだが……。まさか、加齢臭というやつか。おいおい冗談だろう。いや考えてみれば、もうおれもそいつを否定できない年齢に……。
ああ、くそ、ただでさえ冬が立ちはじめて気温が低いのに、デオドラントの野郎が追い打ちをかけやがる。寒いのと、怖いのと、苦いのだけは、まっぴら御免なのだ!
おどおどと不安を引きずりながら、オフィスの廊下を歩く。まったく、ここじゃおれはベテランだというのに、なぜこうも肩身狭く社内を歩かなければならないのだ。もっと堂々と立ち振る舞いたいものである。そう心のなかで主張しながらも、女性社員が横を通りすぎるたび、しなびたキュウリさながら、体が縮みこんでしまうのだった。情けない。なんて情けない男なのだこいつは!
そろりと部屋に入り、席につく。じめっとした緊張が心臓をくすぐる。
おれはこんな事でへこむほどやわじゃない。大丈夫だ。それにスプレーだって、ちゃんとアムゾンで高評価だったものを選定したのだし……。
「缶コーヒーいかがですか」
「へ?」
「缶コーヒー、いかがですか」
「え、ああじゃあ」
びくびくと怯えていたものだから、へんな声が出てしまった。
隣の席の南見が差しだしたそれを受け取る。……おいおい、こいつはまだおれという人間を分かっちゃいないな。
「これブラックじゃないか。それにこんな外寒いってのにホットじゃないし」
でもなぜかあまり冷たくもない。
「……ほら、季節の変わり目でしょう? 社内の自販機、まだ衣替えしてないんですよ。だから」
南見がいっしゅん間を置いてから告げた。
「温めておいたんです。すこしでもと思って」
おれはなんだか途端に胸が苦しくなり、発作的にコーヒーを一気飲みした。ぬるい感触が、なだめるように舌を這った。
「あれ、なんかちょっと、甘いかも」
「……くさいですよ、先輩」
南見が、はにかんで言うのだった。