第四話 魍魎の剣 小柳現示
「も、もう堪忍してくださいまし」
りんはそう言うと両手を膝につき、立ち止まってしまった。ここは丁度小田原宿の入り口、東海道の九番目の宿場町である。宿場とは言っても小田原城を擁する城下町である。
日影兵衛は厄介な荷物を見るようにりんの方を見た。
彼としては大磯で時間を取った分、早く箱根の関を抜けたかったのだ。
「この小娘、拾ってくるのでは無かった」などと無慈悲な事を言う。今までとは変わってりんの呼び方が「女」から「小娘」「娘」というように変わっていた。それぞれ別の意味があるので、もしかしたら格下げになったのかもしれない。
何故日影兵衛は京へ急ぐのか。京にはかなり腕の良い鍛冶屋があると耳にしていたのだ。もしかしたら自分の望む刀を打って貰えるかもしれないと。己が京につく前に死んでもらっては困るというような勢いである。
「いちいち宿場町で泊まってどうする気だ。休むなら箱根の関を通る前に箱根湯本で温泉に連れて行ってやる。それまで我慢しろ」と更に言う。
すると、突然りんの背後から「温泉、それは良いな」という馬鹿でかい声がした。前田主水である。
しかし「お前は勝手に行け。ついてくるな」と日影兵衛に一蹴される。
「あの、温泉で釣ろうとしても無理です。身体が動きません」
「口答えするようになったなこの小娘は」
そう言って日影兵衛はりんを睨みつける。
「言い忘れておったが、小娘、お前は俺の下女だ。身分をわきまえろ」あくまで日影兵衛は譲ろうとしない。下女とは言ってみれば召使いの事である。
「でも無理なものは無理ですよ」と前田主水か助け舟を出す。日影兵衛はその言葉を聞きながらりんを見つめた。「主が下女を甘やかすなど聞いたことがないが、仕方あるまい」とうとう日影兵衛は折れた。
なんだかんだと言っても彼はりんには甘くなってしまうようだ。
小田原宿は旅籠が多い。なので日影兵衛は適当な所にさっさと決めてしまった。今度は一階の部屋である。
そこで番頭が声をかけた。「近頃辻斬りが出ているので、夜は出かけない方がいいですよ」
その言葉に「ふむ」と頷く日影兵衛。
そして彼はりんを引張ってその部屋に落ち着いた。
りんは本当に限界なのか、そのまま床に倒れ込むように伏せってしまった。
「小娘、せめて旅装を解いてからにしろ」
日影兵衛は荷物を降ろし、さっさと楽な姿になるとあぐらををかいてそういった。
りんは力を振り戻してよろよろと立ち上がると、旅装を投げ捨てるように外し、まだ倒れ込んでしまう。
「主の前だというのに、そのざまはなんだ」と、日影兵衛はりんに言った。しかしりんはそのまま寝込んでしまったようだ。「少し急ぎ過ぎたか」と彼は呟く。どうやら自覚はある様だ。
前田主水は自分が泊まられる所を探しに行っていた。本人としてはあまり日影兵衛から離れたく無かったのだが日影兵衛は同じ宿に入れてくれず、しょうがなしに木賃宿を探しに行ったのである。
午後になり、なんとかりんが起き上がると「その散らかした物を片付けろ」と日影兵衛は何の労りもなく言った。りんは自分の周りを見て顔を赤らめると「は、はい。申し訳ありません」と言って片付け始める。
りんが片付け終えると「手持ちが少なくなった。買い物に行ってこい」と人使いも荒く彼は言った。まだ日が高く、往来も多い。辻斬りなど心配しなくても良いだろうと、日影兵衛は思っていた。
お使いは明日にして欲しいとりんは思いつつも、手わされた紙と金を受け取り、頭陀袋を肩にかけるとぱたぱたと出ていった。
りんが買い物を終える頃、日が落ちてきていた。所謂逢魔時である。町に不慣れなので、買い物に時間がかかってしまったのだ。
両脇が高い塀で囲われている道を急ぐ。辺りには全く人気が無かった。
しかしりんは突然、背後に妙な気配を感じた。振り返ると、そこには顔色の悪い浪人が抜き身の刀を引きずるようにりんに近づいていた。その男はりんを見つめながら、口元を歪めるように笑った。
りんは誰かいないかと辺りをみ回すも、左右は高い塀で逃げ道は後ろしかない。
その男はにやにやとしながら刀を振りかぶった。
運が良かったのか、りんが後ずさりすると転んでしまった。りんが立っていた場所を刀が空を斬る。
それでもりんは避け切れずに右腕を掠めるように切り裂かれた。りんは思わず「いやぁぁぁ!」と叫ぶ。傷は深く無かったようだが、二の腕から手首まで斬られて小袖を赤く血に染めた。その血が止まらない。
すると、その背後から怒気を含む声が発せられた。
「貴様、俺の下女に何をする」
そう言ったのは日影兵衛である。りんが迷子にならないようにつけてきたのか、帰りが遅いので様子を見に来たのか。
日影兵衛はその場に立ち尽くしていたと思うと、次の瞬間、りんの目の前に現れた。そして「なんと」と呟く。
その男を両断出来ずに、袖だけしか切る事ができなかったのだ。日影兵衛はこの技を身に着けて以来、避けられたのは二度目であった。一度目は彼の師匠である。
するとりんのの叫び声を聞きつけたのか、遠くから多くの提灯が迫ってきた。
その男は高い塀にひらりと登る。人間業とは思えない長脚力だ。そしてそのまま姿を消した。
迫ってくる提灯、その方向から「御用だ御用だ」「小柳現示、もう面は割れているぞ」という与力や岡っ引き、下っ引きの声が聞こえてくる。
日影兵衛はりんを抱きかかえると揉め事は勘弁だとばかりに走り出し、曲がり角に入ると彼も姿を消した。
残されたのは、りんの垂らした血痕のみであった。
日影兵衛は町医者の所へ辿りつき、いきなり押し入った。その医者は日影兵衛を見知っているのか、彼とりんを見ると「こちらに上がれ」と何も聞かずに言った。その医者は村上源内と言う。最近小柳現示と呼ばれた男を真似た辻斬りが多くなり、怪我人がよく運ばれて来るため起きていたようだ。
村上源内はりんの小袖を破りとると、傷の具合を見、傷口を拭う。「あいっ」という声がりんの口から漏れた。
彼は棚から道具箱を持ち出し蓋を開けた。日影兵衛は村上源内が蘭学を修めているのを知っていた。この頃の医者は殆ど薬を出す程度なのである。
村上源内はりんに薬を飲ませると暫様子を伺った。痛そうにしていたりんは気を失った様に眠り込む。村上源内は「華岡青洲の通仙散じゃ」と言った。今で言うところの全身麻酔薬である。
彼は手際よく傷口を縫い付けると、その傷口にさらしを巻きつける。
「二、三日は起きられぬかもねしれぬ。起きたらこの薬を飲ませて、もう一度連れてこい。抜糸をする。傷は見たほど深くはないのでな、それで済むじゃろう」と日影兵衛に言った。
彼は金を払うとりんを抱えて旅籠に戻った。日影兵衛はりんのそばに座り込んだが、その目は看病しているというような目付きではなかった。
二日も経たないうちに、りんは目を覚した。村上源内はあまり強い薬を使わなかった様だ。思ったより傷が浅かった為でもあろう。日影兵衛はそれを見て内心ほっとしたようである。顔つきはいつもと変わりがなかったのだが。既に宿には自分の連れが怪我をしたと伝えてあった。
「具合はどうだ」と日影兵衛はりんに聞く。
「ひたひふぁなひのれすか、ぽーろひへひょふわはりはへん」とりんはろれつが回らないのか、よくわからない返事をする。
「薬が抜けるのを待つしかないか」そう日影兵衛が言うとりんが「ふひはへん」と答えて眠ってしまった。
その日、午後も遅くになると日影兵衛は刀を携えて宿の女にりんの事を頼むと表に出た。
「同じ場所には現れまいが、女ばかりを斬る訳でも無いようだ。どうしたものか」と彼は呟く。
無影剣を破られた為か、りんを傷つけた意趣返しか、日影兵衛は小柳現示を探し出すつもりである。無論、斬るためだ。辺りの噂話を聞くと、出現場所は小田原城下全域ではなくりんが斬られた場所の辺りに偏っている事がわかった。そして狙われたものは必ず命を落とすことも。
「必ず殺す、か。ならば」と彼は言って歩み始めた。
そしてまた逢魔が時、小柳現示が出没するという辺りを日影兵衛があてもなく歩いていた。人通りは全く無い。
奴は自分とおりんを殺し損ねたのだ。日をおかずして現れるに違いない、というのが日影兵衛の考えである。
彼は道の様子を確認するようにゆっくりと進む。
すると強烈な邪気が彼を襲った。
日影兵衛の向かう先からひとりの男が近づいてくる。そいつは日影兵衛の間合いに入る直前で、刀を頭上に大きく振りかぶった。そして「お、女の方はどうしたぁ。死んだかえ」と言葉を発した。背筋が凍るような声である。
「小柳現示とかいったか。昨晩は命を取れずにさぞ飢えているであろう」
日影兵衛はそう言うと刀をすらりと抜き、姿勢を低くして横構えの型を取った。そしてふうっと息を吐く。彼は初めて最初から剣を抜き放ったのである。
小柳現示は薄ら笑いを浮かべ目の焦点が合っていない様な顔をしたまま「ひぇい」と叫んで、いきなり斬り込んできた。
そこで日影兵衛の姿が消えた。
ゆらりゆらりと身体を動かしながら後退する小柳現示。
しかし、最初は着物の腹の布地を、次に腹にかすり傷を、更に脇腹から血を吹き出し、次に腹をざくりと斬られると、最後に胴が切り飛ばされた。
そして倒れた小柳現示の背後に、刀を振り切った日影兵衛が姿を表した。そしてふうっと息を吐き出す。小柳現示は斬られても悲鳴一つ上げなかった。
「無影剣、一度に五度も振るうものではないな」と彼は言うと、肩で息をし始めた。そして振り返り小柳現示の亡骸を見る。
「こやつは薬でもやっていたのか。いったい何なのだ。まさか物の怪の類ではあるまい」そう言いつつ近づくと、死んだはずの小柳現示から妖気が立ち昇る。
「なんだこれは」と言って目を凝らすと、妖気を発していたのは小柳現示の刀であった。それは見事な拵えをしている。日影兵衛はふらふらとその刀に近づき、その刀を取り上げようと手を伸ばした。しかしそこで彼の脳裏に何者かの姿が浮かんだ。
日影兵衛は我にかえると、いきなり自分の刀を小柳現示の刀に叩きつけた。真っ二つに折れる日影兵衛の刀と小柳現示の刀。
「……まさかな」と彼は言うと、自分の折れ残った刀を捨て、脇道をふらふらと歩きさって行った。
日影兵衛は宿に戻って部屋に入ると、身体を起こしたりんがなんとも言えない渋い顔をしていた。
「何だその顔は」と言いつつりんの手元を見る。どうやら処方してもらった薬を飲んだらしい。
彼はかなり疲れた様な顔をすると、窓際まで行きあぐらをかいて煙管をふかし始めた。
そしてりんの方を見ずに「それなりに動けるようになったら医者に行くぞ」と言った。
そして翌日の午後。
りんは立ち上がり、自分の腕に巻かれたさらしを見ていた。「どうだ。もう歩けるか」と日影兵衛は聞く。
「歩くのは大丈夫なようです。ただ、この傷がつっぱって……」と腕を擦りながら答えた。日影兵衛はそれを見ると、風呂敷包みを開き「おりん、お前の小袖や帯はもうどうにもならん。これに着替えろ」と言う。りんは驚いて、彼と風呂敷包みを代わる代わるに目をやった。聞き間違えでなければ「おりん」と呼ばれた気がする。そして広げられた風呂敷には薄紅色の小袖と、帯に半襦袢が畳まれていた。「それと似たような桃色の小袖が見つからなくてな」と顔をそむけながら日影兵衛は言った。
思わず吹き出しそうになるりん。彼が女物の着物を選ぶ姿を思い浮かべてしまったのだ。日影兵衛は振り向くと、苦い顔をして「さっさと着替えんか」と言う。
「そ、それがその……右手が上手く動かなくて」とまるで格闘をするような姿をしながらりんは言った。
「ええい。煩わしい」と日影兵衛が立ち上がると、いきなりりんの帯を解き小袖と半襦袢をはぎ取る。「や、やめてください、せめてお宿の人にでも」りんは慌てて半襦袢を拾い、身体を隠す。
日影兵衛は「お前の様な子供の何処に隠すようなところがあるのだ。出るところが出てから恥じらえ」などと無茶苦茶な事を言い出した。大人より育ち盛りの娘のほうが恥ずかしいであろうに。
彼は「ほれ、それもよこせ」と言ってりんが身体を隠している半襦袢を無理やり奪い取ると、それなりに優しくりんに着付けを始めた。「帯の結び方はこれしか知らん」と角出しに結う。
何故日影兵衛が女の着付けを知っているのかは謎である。
りんは顔を真っ赤にしながら、着せてもらった小袖を見た。袖口と裾の辺りに白い花模様が散らされている、なんとなく可愛らしい薄紅色の小袖であった。そして日影兵衛を見やる。彼は微妙な顔をすると「歩けるならば医者に行くぞ」と言った。
傷のぐあいもそれなりに良くなると、彼らは宿を引き払った。
日影兵衛はりんの腕のさらしを見ると「傷がすっかり良くなるまでここに留まって、里に帰った方がいいのではないか。送り届けてやるぞ」とりんに言う。何故か急いでいるとせかした癖に妙に優しい。
「いえ、大丈夫です。お願いですから連れて行ってください」とすがるように答えるりん。
「それは跡が残ってしまうな。おりん、辛くはないか」
今度ははっきりと「おりん」と読んだのを聞き逃さなかった。
りんは顔を赤くしながら「こ、これくらいなら大丈夫です。飲み薬の方が辛いです。この傷でもきっとお嫁には貰っていただけると思います」と答えた。
「嫁か」と彼は言うと、ふたり並んで歩き始めた。
小田原宿を出ると前田主水が待っていた。
「急ぐと言っていたのは日影殿ではないか。一体どこをうろついていたのだ。やや、おりん殿、その腕と新しい着物はどうしたのだ」文句を言おうと待ち構えていた彼はりんの姿に驚いた。日影兵衛は彼に何も伝えていなかったのだ。
前田主水は宿の前まで様子を見に行くくたびに日影兵衛と入れ違い、まだ泊まっている事しか確認しなかったのだった。無論、日影兵衛が前田主水を探しに行くわけがない。弟子にしてやると言ったのは口だけの様である。
日影兵衛は「五月蝿い黙れ」と言うと、りんの手を取り歩き始めた。
そこには手を握られて恥ずかしそうにしたりんと、口をへの字にした日影兵衛、そして釈然としない顔をした前田主水の姿があった。