第二十三話 勾引の剣 三好小文太
京の街の喧騒がここまで伝わる。
こことは三条大橋、江戸の日本橋から始まる東海道の終点である。
一行は草津の温泉を満喫して身も心も晴れやかになっていた。
「凄いな。沼津とは大違いだ」と佐々木琴は感心した。
「沼津宿と比べるな。城下町といっても田舎だろう」と日影兵衛が呆れて言った。
「しょうがないだろ。沼津からこんなに旅したのは初めてなんだ」佐々木琴はそう言いながら辺りを見回している。
「こんな所で足を止めてないで、まずは私のうちに行きましょうよ」とたけが促す。
たけの店は中山屋といって、その界隈でも大きな呉服屋であり両替商も営んでいる。江戸にも店を出せるほど繁盛しているようだ。
「迷惑ではないか」と日影兵衛はたけに聞いた。自分や前田主水が出入りするような店ではないのである。
「四人くらいなんとでもなりますし、裏口もありますよ。頻繁に出入りしなければ目立ちませんし」
「五人ではないか」と前田主水。
「ひとりは既に私のうちの者ですから」
「既に……」そう言って残りの四人は永山宗之介の方を見た。
「ま、まだ口約束だけですよ。おたけ殿のご両親に反対されましたら、日影殿とご一緒させていただきます」
「反対なんてさせないから」
婿入り決定だな、と四人は思った。
たけの店に邪魔すると客間へ通された。今後京でどうするか確認しなければならない。
「おたけ、暫くおりんを預って貰えるか。俺は何処かに拠点を作るつもりなのだが、おりんを連れて行くわけにはいかん」
「構わないわよ。何だったらうちを使えばいいのに」
「それは駄目だ。おたけの店を巻き込んでしまうかもしれん」
「私が一緒ににいようか。流石に閉じこもりきりでは可哀想であろう。用心棒とでも思ってもらえばいい」
佐々木琴が提案する。
「いいのか。京観光もしたかろう」
「それは事が落ち着いてからでも構わん」
「幾日かかるかわからんぞ」
「山名殿の言う土産がまだわからん。それが何かわかるまで時間がかかりそうだ」
「まだわからんのか……まあそれはそれで有り難い」日影兵衛のひとつ目の問題が片付いた。
「儂もその拠点とやらに行ってもいいか。何でも手伝うぞ」前田主水も直ぐに言葉を繋いだ。
「実際の所、手を貸してもらう当てはお前しかいないのだが。なんの得にもならん上に、やばい目に合うかもしれんが構わないのか」
「この旅で既に得難いものを見つける事ができただけでも十分だ。それに弟子にして貰う為に日影殿に恩を売っておかんとな」
「これと弟子の話はまた別だ。しかしすまん。手を借りたい」
「私も手伝いたいのですが、この店を離れる事ができないようです。申し訳ありません」と永山宗之介がたけをちらりと見て言った。
「いや、おりんを預って貰えるだけで十分有難い。それに永山殿はもういない。其方は既に中山殿であろう」
永山宗之介は酷いことを言うという顔をした。
「そうすると自由に動けるのは日影殿と儂だけか。日影殿、おりん殿の姉と黒錦党とどう片付ける」
「おりんの姉を探すのが優先だが、問題は黒錦党だ。何とか大村右近と連絡が取れれは良いのだが。あいつのほうが黒錦党に詳しいし、手も組めるだろう。しかし居所がわからん。あまり期待はできんな」
日影兵衛はそう言うと暫く考え込んだ。
「まず拠点と情報屋を探す。これでは動きようがない」
「あの、ご迷惑ばかりおかけしてすみません」とりんは申し訳なさそうに言った。
「気にするな。お前の姉にも黒錦党が絡んでいるのだ。今ここに長居をしているだけでもまずい。先に目立たなくて落ち着いて話ができる場所を探す。おたけ、裏口を教えてくれ」
日影兵衛がそう言って立ち上がると、前田主水も「ほいきた」と言って腰を上げた。たけも立ち上がると「こっちよ」とふたりを連れて行く。
「おたけ、着いてそうそう迷惑をかけてすまぬ」日影兵衛はそう言うと、前田主水を連れて裏口から出た。
りんと佐々木琴は部屋を用意して貰い、まずはそこで落一息ついた。
そうして初日は何事も起こらなかった。
しかし彼らは大失態をおかしていた事に気がついていなかった。
関宿からここまで既につけられていたのである。
関宿の事件のあと、皆気が緩んでいた。それでも道中で気が付かない訳が無いはずであったが、相手は尾行に関して一流といっていい奴であったのだ。
その男、勾引の三好小文太と呼ばれる男は日影兵衛と前田主水が出てきたのを確認すると、手下に尾行するよう指示を出す。勾引とは拐かしの事である。
そして自分と残りの者はたけの店を見張った。りんが出てきて隙を見せるのを待つのだ。
数日経っても、まだ日影兵衛達から連絡は無かった。
「永山殿、おたけ。おりんが気疲れしている。この店の周囲だけでも外に出して良いかな」
佐々木琴はふたりに尋ねた。
「宗之介様、どうします」
「私も篭りっきりでこの辺りの様子がどうなっているのかまだよくわからないのですが……」
「そうか。店から離れぬ程度にするよ。昼前には戻る」
ふたりが了解すると、佐々木琴はりんを連れて外に出た。店からあまり離れないよう気をつけてぶらりと歩く。
「どうだおりん。少しは気が楽になったか」佐々木琴はりんに尋ねた。
「あの、別に大丈夫です。返って皆さんに迷惑をかけてしまうので、無理に外に出なくても」
「いや、それは気にするな。気ばかり張っては体に毒だ」佐々木琴は周囲に目を配りながら答えた。
暫く歩き回ると、一件の店に目を留めた。女性の飾り物を扱っている店である。
「あの店を覗いて見ようか。京で流行りの物を見てみたいしな。一応私も女だからな、多少はお洒落しているつもりだぞ」と佐々木琴は長い髪を纏めている髪留めを見せて、りんを誘ってみた。
「わ、私も少し気を使って見ようかな」
「なんだ、日影殿に見てもらいたいのか」
りんは佐々木琴にからかわれながら、その店に入っていった。
日影兵衛と前田主水はおたけの店から離れた裏通りを歩いていた。
京の外れに良さげな旅籠を見つけ、取り敢えずの拠点は確保していた。
「やはりその辺りに詳しい者を探すしかないが、情報屋自体簡単に見つかるものでは無いし、一見の客を扱う事などあるまい。大村右近がどの辺りにいるのかも見当がつかんし、八方塞がりだ」そう言う日影兵衛はかなり焦っている様にみえた。
「一旦お琴と永山殿に連絡を入れておくか」日影兵衛は前田主水をつれてたけの店の裏口へと向かった。
たけの店、中山屋の裏口の前まで日影兵衛と前田主水はやって来ると様子がおかしいのに気がついた。
「裏口の木戸が空いたままになっている。それに中が騒がしい」
「日影殿、これはきな臭いですぞ。儂にでも解る」
ふたりは顔を見合わせると、裏口から中へと入っていった。
「なんだ、この騒ぎは」たけの家屋の中から人がばたばたしている音が聞こえる。
ふたりは急いて家に入った。そこで走り回っているたけと鉢合わせする。
「どうした。何かあったのか」
「ああ日影様、おりんちゃんがお琴さんと出かけてからまだ戻って来ないのです」青い顔をしたたけが狼狽えながら言う。
「外に出たのか。いつ出かけた」
「まだそれほど時は立っていないのですが……お琴さんが昼前には戻ってくると言って散歩に出かけたのですけど、お昼を過ぎても今だ戻って来ないのです。心配なのでうちの者に探がすよう様に言いつけている所なのですが」
「それでこの騒ぎか」と前田主水。彼の顔も心なしか青ざめている。
「どこに行くと言っていた」
「どこに行くも何もこの店からあまり離れぬと言って」
そこへ「おたけ様、すぐそこの飾り物屋の者全員が意識を失っていると……」と店のものが知らせに来た。
日影兵衛はそこまで聞くと、裏口から店を飛び出した。前田主水ももそれに続く。しかしいきなり大村右近と鉢合わせした。
「どうした、そんなに慌てて。話があるのだが、出かけるのか」
「右近、おりんが攫われたかもしれんのだ。この店から遠くにまで出かけてはいないらしい。佐々木琴が連れ添っているはずなのだが」
「なんだと。この辺りには怪しげな連中は見当たらなかったのだが」
「ここの近くにある飾り物屋を知っているか。そこの店の者がすべて意識を失っているそうだ」
日影兵衛はそこまで言うと飾り物屋へ向かって走り出した。それに前田主水と大村右近も続く。飾り物屋の店先は大騒ぎである。
彼らが野次馬を掻き分けて店に入ると、丁度番頭らしき男が意識を取り戻した所であった。
「おい、何があったのだ」いきなり日影兵衛はその男に詰め寄る。
「え、あ、ちょっと待ってくれ。まだ頭がはっきりとしない……そ、そうだ。裏口から黒覆面の男どもがいきなり押し入って来て、客の女性のひとりを無理やり連れ出して行った所までは覚えているのだが」
「ひとりだと。佐々木のと一緒ではないのか。しかし白昼堂々手際が良すぎる」大村右近が辺りを見回して言った。何処にも争った形跡がない。
「なんの手がかりも見つからん。裏口の外にもだ」前田主水が上がり込んだ家の中から出て来る。
ふたりの言葉を聞いて日影兵衛は裏口の方へ駆け出そうとした。
「兵衛、待て。闇雲に探しても見つかるまい。奴らが寄り付くところはいくつか見当がつく」
「見当がつくだと」
「京に俺の仲間がいるのだ。狙った奴が現れるのを待つ為にな。この辺りからだというと……ついて来い」
そう言って大村右近が店の外に出て走り出すと、日影兵衛と前田主水もそれに続いた。
古びた寺の境内で、佐々木琴は焦っていた。敵の数はそう多くない。だがりんが人質にされているのだ。
りんは既に猿ぐつわをされて後ろ手に縛られている。手際が良すぎる。人攫いは一度や二度ではあるまい。
「私がついていながらなんてことだ。これでは切腹しても申し訳が立たぬ」
佐々木琴は店の中で背後から頭をいきなり棒のような物で殴りつけられて、一瞬意識が飛んだのだ。まさかこんな所で襲われまいと注意を怠ってしまった。しかし何とかりんを攫った者たちに追いつくことが出来たのである。
だが、りんが連れ去られる前に助ける事ができるのか。
「おりんに取り付いている男はひとり、その仲間が八人か……」
佐々木琴はすぐさま確認したが、ひとりでりんを助けるにはどうしたらいいか考えあぐねた。
雑魚は無視してあの男を倒すしかあるまい。私にできるか。そう思いながら男がりんを連れて逃げそうな方向を確認する。
しかし手下どもは佐々木琴に向かっては来ず、前をかためて動かない。そいつらは既に抜刀していた。
「くそ、腕の一本はくれてやる」
そこに声が響いた。
「待て、早まるなお琴」日影兵衛の声である。
敵が逃げると思われる辺りの三ヶ所から、日影兵衛と前田主水、大村右近が既に抜刀して現れた。
「矢張り居たか。急ぐならここに違いないと思った」と大村右近。
りんを捉えていた男を見ると「貴様は三好小文太だな。最も許せん奴のひとりだ」大村右近は冷静に話しながらも、その顔は怒りに満ちていた。
「ちっ」と舌打ちする三好小文太。
手下は三好小文太を守るように動いた。
「貴様は自分が何を仕出かしたか分かっているのか。俺に取って最もしてはならぬ事をした」
日影兵衛はそう言い放った。
りんは彼を見つめている。まだ囚われたままなのに、その目には信頼の表情が浮かんでいた。
「お琴、解るな」と前田主水。うなずく佐々木琴。
「その女は俺の大事な女だ。なぶり殺されるのが分かっているのに逃がすわけにはいかん」
「あの様な真似は二度と御免だ。貴様はここで死ね。楽にに死ねると思うなよ」
日影兵衛と大村右近は同時に言った。
それが合図になったのか、前田主水と佐々木琴はいきなり飛び出した。
その向かって来るふたりに手下どもは身構えた。
「釣られるな、俺を守れ」三好小文太が叫ぶ。
その瞬間、三好小文太のりんを捕まえていた腕が斬り飛んだ。横にいた筈のりんも居なくなっている。
「右近、そいつはお前の好きなようにしろ。おりん、怪我はないか。大丈夫か」
りんを抱きかかえた日影兵衛は元の位置にいた。違うのはりんを抱きかかえいる所だけである。
りんは日影兵衛の言葉に頷いた。
手下の八人は前田主水と佐々木琴、二人相手にかなうはずもない。またたく間にひとりを残して切り倒された。
「お琴、そいつは残せ」と前田主水は佐々木琴に声をかける。佐々木琴は最後のひとりに容赦ない峰打ちを打ち込んだ。その口はぎりぎりと歯ぎしりを立てている。
片腕と仲間を失って青ざめた三好小文太の横に大村右近が近づくと、冷たい声を放った。
「貴様、以前何をしたか覚えているか」
そしていきなり三好小文太の右足首を切り飛ばす。
「くおおおう、やめろお、なんの事だあ」
「俺の名は大村右近だ。それでも思い出せぬか」
三好小文太は「あっ、あああ」と声を出した。
「思い出したか。聞きたい事を吐くまで苦しんで貰おうか。容赦はせん」
そう言った大村右近の顔には慈悲のひとかけらも浮かんでいなかった。
日影兵衛はりんの縛めを解くと、自分の胸に彼女の顔を押しつけ「見るな」と言いながらもと来た道へ下がっていく。
佐々木琴は肩で息をし、前田主水はひとりの手下を縛りあげていた。
中山屋の裏手の庭。
日影兵衛とたけ、永山宗之介が正座して頭を地面に擦り付けている佐々木琴の周りに集まっていた。
大村右近と前田主水はそこにはいなかった。
りんは部屋で気を失ったように眠っている。
「すまぬ、護ると言ったのにあんな目に合わせてしまった」と顔も上げずに佐々木琴が言った。
「日影殿、好きにしてくれ。甘んじて受ける」
たけはその言葉を聞いて日影兵衛と永山宗之介の顔を代わる代わる見ながらおろおろしていた。
永山宗之介は日影兵衛の顔を見つめている。
日影兵衛は佐々木琴の前に片膝をつくと優しく彼女の肩をぽんぽんと叩き「お琴、もういい。顔を上げろ」と言った。顔を上げた佐々木琴は半泣きになっている。
「あれは奴らの方が一枚上手だった。仕方あるまい。お琴、お前が足止めしてくれたおかげでおりんは攫われずに済んだ。そんな格好をするな、誰も責めない。いい加減立ち上がれ」
そう言う日影兵衛の顔を佐々木琴は見つめた。
「右近の言うとおりなら、おりんを狙う最も厄介な相手を倒したのだ。もう一度俺の頼みを聞いてくれるか」
「あ、ああ」と佐々木琴はそれ以外の言葉が出て来ないかの様に返事した。
「永山殿と共におりんを頼む」
「わ、わたしはおりんを護れなかったのだぞ」
「お前も二度はないだろう。違うか」
それを聞いた佐々木琴の目から涙が溢れ落ちた。