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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

殿下が婚約破棄を宣言した理由 

作者: 一般兵A

※ご都合主義全開です。

 「オルティナリ公爵家令嬢、ベアトリーチェ!今宵、この場にて君との婚約は解消させてもらおう!」



 今にして思えば、全てはこの一言から始まったのだと感じる。貴族学院主催の夜会の席、私は多くの上流階級の者が集う場にて愚かにも君との婚約破棄を宣言してしまったのだ。



 傍らに平民の出の少女を抱き、君の罪を裁くとのたまう王太子の姿に居並ぶ学友たちは皆、失望してしまったのだろう。突き刺さる周囲の視線の痛みは今でも忘れえないものだ。確か罪状は彼女に対する数々の嫌がらせ、そしてそこに端を発する傷害事件を君が先導した、というものだったはずだ。真偽も定かでない行為を非難し、糾弾する様は物語でもお馴染みの暴君にさぞ似通っていたのだろう。我ながら如何にも滑稽で、見苦しいものだったと苦笑してしまう。



 君は泣き腫らしながらも必死に己が身の潔白を訴えかけていた。普段は私情をも決して表に出さず、自分を律しているあの君がここまで思いの丈を吐露したことに、正直私は強く驚かされたものだ。



 「至らぬ点があったなら直します。心移りしてしまったならそれも受け入れます。ですがどうか、どうか私の言葉を信じて下さい!」



 そんな悲痛な君の叫びは私への愛故か、否、真に国を憂えるからこその愛国心の現れなのだろう。少なくとも私は君に愛してもらえる程の資格も無い愚かで、下らない男だ。君にはそのまま真っすぐにこの国家の行く末を案じて進んで欲しい。



 容姿端麗、頭脳明晰、おまけに人柄も慈愛に満ちたものであり、だからこそ君を敬愛こそすれども嫌悪する者などはこの学園にはいないはずだ。故にあの場に居合わせた者たちは皆いぶかしんだはずだろう。君ほどの人格者が他者を傷付けるはずがない、そんな確信が彼らの脳裏によぎったはずだ。驚愕はやがて困惑へ、そして疑惑へ変じ広がっていく。水面をなぞれば波紋が滲むのに等しく、人の心という物も容易に拡散されていくのだ。先述した通り君の無実は誰であろうと疑う余地はない。ならば真に偽りを吐いているのは私の側ではないか、そんな憶測が群衆の間に広まっていく瞬間を私は明確に肌で感じ取った。



 事実直近の私の身辺には不貞行為を示唆する噂が流れていたのだから、これもある意味当然の流れと言えるのかもしれない。ここ最近は人前に現れる機会も減少していたし、以前のように君と共に過ごす時間も減っていた。学園を休む日も今までとは反比例的に増加してしまっている。



 「殿下は巷で話題の『真実の愛』とやらに目覚め、新たな恋人に熱を上げているのだ。」



 陰でそのような噂が立ち昇っていることも私は把握していた。



 だからこそあの場で私に対する賛同を唱える者が無く、ただ冷ややかな軽蔑の注目だけを集めるに至ったのだと私は感じる。近衛兵に連行され、無理矢理引きずり出された君の姿を皆が憐れみの表情をもって見送ったのがこの所感の何よりの証拠だろう。



 しかし結局この婚約破棄が撤回されることは無く、君は贖罪の為に己が領地での謹慎処分を申し渡されてしまった。次期王位継承者の意に沿わぬなら粛清される、暗にそう伝えるこの沙汰に学友たちも皆恐れおののき、今や私は宮廷にあっても孤立しているのだ。



 嗤ってくれ。そしてどうか無様で、惨めで、愚の骨頂とも言えるこの名ばかりの王太子に最期の弁明を打ち明けさせてくれ。



 君の心をいたずらに傷付け、国政をも混乱に陥れた、その許されざる大罪をまずは詫びさせてほしい。君が幼き日よりどれだけの勉学を積み、努力を重ね、来たるべき婚姻の後に私を支える為に覚悟を固めてきたか、その心労は想像すら及ばない。その思いを踏みにじり、全てを否定したも同然の此度の騒動、その全責任は私にあるのだ。



 幼き日と言えば、私と君の出会いも丁度その頃だっただろうか。まだ年端もゆかぬ、それこそ齢5つを数えぬ頃から将来を定められ、共に成長してきた君と私。その関係に君は何を思うのだろう。あの晩、君を裏切った男が言うのも不自然な話だが、私は幼少の頃から今まで君だけを愛し続けてきた。年を経るごとに自己を抑え、未来の后妃に相応しく振舞おうと藻掻く君を最も近くで見てきたが、それでも私にとっては君は一人の可憐な少女であり、いつまでも変わらぬ永遠の乙女なのだ。



 ああ、だからこそこの婚約破棄劇を断行することがどんなに苦しく、悔しいことか。慣れ親しんだ友とも、愛しい人とも埋めれえぬ溝が生じるこの感覚は二度とは味わいたくないものだ。



 そうだ、全てはその悲しみをも甘んじて受け入れる為にあったのだ。『メメントモリの呪創』、通称『壊紋病』とも呼ばれるこの魔術の名を聞けば君もピンとくるだろう。



 誰がいつ、何処で編み出したかも判然とはしないが、この悍ましき呪いは我々の国でも古くから恐怖の象徴として名高い。天命によるのか、はたまた運命のいたずらか、私の身体も去年の暮にはすでにこの呪いに侵されており、始めは胸の辺りにのみあった痣も今では全身にどす黒い紋様となって広がってしまった。こうして筆を執る、ただそれだけの行為にすら激痛が走るこの身に苛立ちながら、しかしてこの醜い姿を旧知の者たちに見せずにすんだことに心なしか心の荷がおりた気持ちでいる自分がいることに少々驚きもする。



 もちろん私も安々とこの命をくれてやるつもりはなく、八方手を尽くしたがそれも全て徒労に終わってしまった。宮廷魔術師にも、高名な神官にも、そして聖女の力を持つ件の平民の少女にもこの呪いの解呪は果たせなかったのだ。無論彼らを努力不足と罵るつもりはない。むしろこの短期間の間によく力を尽くしてくれた、と感謝したいくらいだ。だが、ここに至って私は人生の袋小路に追い詰められることになってしまった。学園に顔を出す間も惜しみ、私はひたすらにこの呪いについての文献を調べて回った。そのどれもが絶望的な最期を、そして確約された死を示し、生き残る可能性すらない残酷な現実を突き付けてきたのだ。



 曰く、この呪いは対象の肉体を壊すことに重きを置いて作り出されたそうだ。徐々に表皮の上を這うように広がる紋様、それは初めは痛みを、やがては肉体の物理的な崩壊を招き呪殺を完遂させる。おおよそ世の人が知るのはここまでであろう。十分恐ろしいものではあることは実際に呪われた身として痛感させられているのだが、問題はそこではない。この呪いの本質はその対象の死という事象そのものにこそあるのだ。調べていくうちに判明したことだが、本来、この呪いは戦争において敵兵をより多く殺すことが開発目的であったそうだ。



 弱り果て、肉体の原型すら保てず息絶えた負傷兵。ふと彼を見やれば、その身を覆わんばかりに広がる黒い紋様はその指先から大地へ、大地から周囲の兵士へと伝搬するように展開されていったそうだ。哀れにも戦場に居合わせた同国の出兵者はその紋様に取り込まれ、皆等しく物言わぬ肉片となってしまったのだとか。古い資料を遡るほどに増していく阿鼻叫喚の記録、それは幾千幾万の命を巻き添えに昇華し、ついには国すら滅ぼす特大の魔術兵器の爪痕に他ならない。現代では術式の一部が散逸したことで威力は低下したが、それでも一瞬にして周囲の命を痛みを伴って奪い去るこの呪い自体の脅威は消えておらず、未だ人々の脳裏に恐怖としてこびり付いている理由も頷ける。



 婚約破棄を宣言した晩は辛うじて厚手の服で誤魔化せたが、今やそれすら叶わぬほど呪いは進行してしまっている。顔面にまで紋様は這いずり回り、数本の指や右足の膝から下はとっくの前に砂上の城の如く崩れ落ちていた。息するたびに伴う貫くような痛みを耐え、全身を包帯で覆い隠した姿は王族の身としては到底見せられたものではない。



 母より生み与えられたこの身は脆く砕け散り、激痛は臓腑を締め付ける。やがて訪れる肉体の終わりに私は怯え、それと同時に親しき者たちを遠ざけられたことに安堵もした。少なくとも、君の思い出にはこんな醜悪な容貌は残ることはないのだから。



 少し話は変わるが、君に尋ねておきたいことがある。私の身体を『壊紋病』が蝕んでいるように、またこの国にも病魔が巣食っているのだが、君にはそれが何を指し示しているか分かるだろうか。



 ああ、あえてここでは忌憚なく答えさせてもらおう。我が王宮に上る貴族のほとんど、それこそがまさに獅子身中の虫と言える者たちだ。



 君は知っているか?各領地からもたらされる税収に、奇妙な不釣り合いがあることを。年間で裁かれる罪人、そのおよそ三分の一が無実を叫びながら断頭されていることを。盗賊を名乗る輩に怯え、今や交易路は誰の往来もない道と化したことを。そうだ、その通りだ。全て、これら全ての悪辣極まりない所業は我が国の貴族たちに端を発するものばかりだ。



 吊り上がる年貢、対立者への不当な弾劾、強盗騎士の横行、隣国との内通、聖職売買、その他にも挙げだせばキリがない、と言うくらいにはこの国の国政は穢されてしまったのだ。病巣の根は深く、この事実を知りながらも私には覆しようのない程度には事態は進んでしまっている。



 私腹を肥やし、民を、国家を貪りながら奴らが何を成しているか想像できるだろうか?返答は単純で、ありきたりなものだ。ただひたすらに己の享楽に費やす、その一点である。贅の限りを尽くした離宮を建て、王の許しなく軍備を整え、数多の芸術家に金銭をつぎ込む、そんな私利私欲のために権力が振るわれているのだ。



 確かに奴らがパトロンとなったことで多くの芸術は発展の兆しを見せた。文化に新風が吹いた、その点については素直に喜んでもいいだろう。だが、それは所詮貴族に独占されたままの美だ。ボロ雑巾のように薄汚れるまで搾取され、虐げられた下の者たちには決して開かれない、そんな独りよがりの美しさなのだ。確かに芸術というものは素晴らしい。しかして私は絵画に描かれた女神の微笑みより、民の笑顔の方をこそ見たいのだ。



 故に私は考えてきた。如何にすればこの国を変えられるかを。



 常々聞かされる学友たる貴族子息たちの苦悶、それは親類の蛮行と、それを見ているだけしか出来ない己の無力さへの歯痒さに他ならない。その悔恨はそのまま未だ青二才の我々では大人へ太刀打ちできない事実をも示していた。奴ら曰く、私たちには「人脈と経験が足りない。」のだそうだ。もっともである。だが私から言わせれば奴らの方こそ「人徳と清廉が足りない。」のではないか。清濁併せ呑む、と言うがこれではただの汚濁した大河の有様だ。



 この大悪を滅することこそ今生の使命である、寿命の迫る近頃ではそう強く感じるようになった。



 だが彼らは尻尾を出さない。巧みに罪科の手がかりを隠し、さも忠臣であるかのように取り繕うのだ。故に正当な裁きを下すことは出来ず、かといって武力をもって処断すればそれは次期国王としてのしめしがつかない。きっとそんな王を見た国民は私を暴君と罵り、恐れ慄いてしまうのだろう。



 どうすれば、どうすれば、どうすればよいのであろうか。終わりに突き進む己の命に急かされ、一人抱え込んだ国政への憂い、その帰結は案外簡単なものだった。



 この命が間もなく尽きるなら、その瞬間をこそ利用すればよいのだ。



 このまま順当に行けば間もなく私は次期国王として即位することになる。呪いに侵され、悲惨な死を迎える我が子へ、せめて一時でも栄光を与えたい父王の親心でも作用したのだろうか。貴族学院の卒業と共に私の戴冠式の日取りは決定された。来たるべき戴冠の席、そここそが数多の汚職貴族たちが一同に介する絶好の機会となりえる場だ。もしそんな瞬間に、私が自害を果たせばどうなるだろうか?対象の死を起点に溢れ出す『メメントモリの呪創』、この呪いならきっとその場に居合わせた者を一人残さず葬ってくれるだろう。遅かれ早かれ死ぬことには変わりない。ならばせめてこの呪いすら最期に利用してやるのだ。



 しかし、この奸計には一つ困ったこともあった。ベアトリーチェ、君の在するオルティナリ公爵家をはじめとした幾つかの貴族、それらは私の調べた悪行に関わってはいなかったのだ。見境なく、善人すら殺せる程私も非情にはなれない。それに、仮に悪徳貴族全てを排せどもその後の国家運営を引き継ぐ者は必要だ。



 善悪の二元論にこだわるのは良くないことだが、決意を翻すことはさらに悪しきことだ。長い長い前置きになってしまったが今こそ明かそう。足らぬ頭から知恵を必死に振り絞り、更なる汚名をも被ることを覚悟して私が選んだ手段、それが君に対するあの愚かな婚約破棄の宣言なのだ。



 無様だろう、端的すぎるだろう、だが私に残された時間は全くもって足らなかったのだ。駄目だな、今となっては何を言っても言い訳のようになってしまう。



 オルティナリ公爵家に対する仕置き、それを契機に私は多くの貴族の粛清を行える力を得た。害悪たる高位貴族はあの一連の騒動を見て、私を扱いやすい愚かな上司と見なしてくれたのだ。忠言を嫌い、すぐさまそれを粛清したあの前例は奴らからすれば私は実に便利な駒に映ったのだろう。他者の粗探しにだけは全力をあげる奴らは、媚びへつらうことに全力を費やし、率先して私の意向に沿い、父王への讒言を繰り返した。私が敵意を示し、奴らに失脚させた者たちは皆、あの婚約破棄劇を諫める者たちだった。彼らはおおよそ真っ当な感性を持ち、尚且つ主君へも意見できる勇気ある者たちだ。ならば彼らを一時的に陥れ、戴冠式まで国政から遠ざければ、それで彼らが巻き添えを食らうことは阻止できる。



 この手紙が君に届いた頃にはきっと戴冠式は滞りなく進み始めてるはずだ。そしてその後に待ち受ける惨劇、その後始末を君に果たしてもらいたい。私の愚かな意思により領地へ押し込められた諸侯たち、その怒りの矛先を御し、王都へ導くことこそが君の果たすべき使命なのだ。名目は何でもいい。暗君の即位への反乱でも、婚約破棄に対する逆襲でも、ともかく民から支持されるような大義を掲げて進軍してくるんだ。そして叶うなら、腐敗した王国を一新し、公爵殿、もしくは君自身が新たな王朝を開いてくれ。



 父をも殺すことになる、その点については少し思うところもある。だが、彼にも非はあるのだ。佞臣の甘言に惑わされ、人を見る目すら濁った王などもはや存在価値すらないのだ。そもそもあの婚約破棄を諫めず、私を野放しにした時点でこの結末は確定していたとも言える。死にゆく我が子故にそのおいたも見逃してしまう、その気持ちも理解はできる。その優しさがあったからこそ私の計画はここまで至れたのだから、そういった意味ではやはり父を家族としては敬愛してしまう。だが、彼は父親である以前に為政者なのだ。決して私情に振り回されず、正しき道を見据えなければ国民を率いることは出来ない。だからこそ彼は王としては落第なのだ。



 心残りなら沢山ある。叶うなら君と結ばれ、子も設けたかった。学友たちと共にこの国を支えもしたかった。あり得ざるこの先に思いをはせるたび胸が痛み、目頭が熱くなるのだ。悔しい、悔しいと何度もみっともなく嗚咽を漏らしもした。だが反面、これでいいのだと感じる自分がいることにも留意しておきたい。



 きっと、私は今でこそ強い意志をもって悪政を糾弾しているが、やがて成長し、己の政治を行おうとしたところで全ては奴らに阻まれてしまっただろう。阻れ、貶され、それに慣れた頃には確実に私も利己的で、自堕落な天上人の仲間入りを果たしているはずだ。志を忘れ、賢君として名も残せず、薄汚れた権力者に成り下がってしまうのだ。それは嫌だし、君たちにもそうなっては欲しくない。だからこそ、だからこそこれでいいのだ。清いまま死ねる。清いまま君たちの役に立てる。それが嬉しくも感じるのだ。終ぞ足取りすら追えなかったが、我が身を呪った術者にはある意味感謝すらしているくらいだ。



 重ね重ね申し訳ないがもう一つ言伝がある。ことが済んだ暁にはどうかイザベル、つまり例の婚約破棄を共に画策した平民出身の聖女候補とも仲良くしてやって欲しい。呪いに対してもある程度自己防衛できるとのことで、今回の婚約破棄では一芝居打ってもらうこととしたのだ。あの晩こそ多くの学生からの顰蹙を買う非常識な振る舞いをしていたが、本来の彼女は理知的で、良識ある一人の少女だ。君のことも本心では尊敬していたんだとか。難しいかもしれないが彼女のことはどうか許してほしい。万民に指を刺され、忌み嫌われる茨の道を進むことを君の為に選んだ聖女を、どうか無下には扱わないでくれないだろうか。



 すまない、本当にすまない。最期まで私は自分勝手な男だ。何も伝えず、一方的に婚約破棄を押し付け、挙句の果てに君にとんでもない大役を押し付けようとしているのだから。先程も述べたが、君が王室へ入るにあたり、息のつまりそうな程の束縛を甘んじて受け入れていることはよく知っている。そしてその苦しみを、自由への渇望を美しい顔立ちの下にひた隠しにしてきたことも。私はそんな君をもう一度重くのしかかる重圧の世に放とうとしているのだ。なんと罪深く、業の深い行いだろうか。



 許してくれ、許してくれ。君を傷付けたことを、君に全てを押し付けてしまうことを。



 そして、君にとっては大変に不本意で不愉快であろうが、これだけは最期に言わせてほしい。



 愛していた、いや、死の足音近づく今ですら愛している、と。



 私は何とも虫のいい男だ。あんな騒動まで起こして今更、と呆れられてしまうかもしれない。だが本当だ。初めて目にした日から、あの婚約破棄の場にて断罪していた瞬間でさえも、片時も君を愛しいとは感じない時はなかった。澄んだ瞳の揺らぎに心動かされ、誇り高き愛国心に息を吞み、時たま見せるはにかんだ笑顔に私は虜になったのだ。君と歩む人生、それがどんなに素晴らしく、胸滾るものだっただろうか。

 


 ああ、いや、忘れてくれ。死を前にするとどうにも気持ちの悪い心境の吐露ばかりしてしまう。未練がましい、そんな愚か者の最期の懺悔だと思って、記憶の底にそっと仕舞っておいてくれ。



 さあ、ここからが本番だ。必要なのは自らの心の臓を貫く勇気、それだけだ。覚悟は出来ている。指先の震えなど気のせい、そうきっと気のせいなのだ。自分で受け入れ、導き出した運命など恐るるに足らず、だ。






―――――――






 殿下から我が公爵家に送られてきた手紙を読み終わり、私は直ちに行動を開始しました。お父様に話をつけ、各地で謹慎の沙汰を受け燻ぶる諸侯に使者を派遣しどうにか情勢を明確なものにしようと動き出したのです。



 その間ですら私の脳内は殿下のことで精一杯でした。確かにあの婚約破棄には失望もしました。殿下に捨てられた、その事実に激しく慟哭もしました。それでも彼を愛していた、王としてではなく一人の異性として愛していたのです。そんな矢先に飛び込んできた彼の身の危機を知らせる告解、それを読んで正気でいられる者の方が少ないでしょう。



 諸侯の軍勢が整うには少なく見積もってもあと二日、時間がありません。居ても立っても居られなくなった私は、とうとう早馬に跨り単身王都へ向かっていました。背後の公爵家の屋敷からは引き留めるかのような呼びかけが響きましたが、最早それすらも私の耳には入りません。



 休むことすら忘れ、がむしゃらに馬を走らせた末に、私は喧騒渦巻く王都に到着したのです。



 王都と言えばこの国最大の交易地でもありますから当然人口は桁外れ、そんな多くの臣民が日々の営みを送っているのが日常の風景なのでしょう。しかし、私がついた時には都市はまさに混乱の真っ只中でした。腰の立たない老爺も、親の袖を握る幼子も、老若男女皆等しく家財を持って大慌てで郊外へ逃れようとしているのです。曰く「新王陛下のご即位だと皆浮かれていたというのに、いきなり城が崩れ出したもんだから急いで逃げだしたのでございます。あれは不吉なことの前兆でございましょう。」とのこと。実際それは呪いによってもたらされた破壊であり、確かに不吉という言葉が似合うものなのでしょう。



 嫌な胸騒ぎに襲われ、私は逃げ惑う群衆の波をかき分けながら彼らとは反対に王城へと歩みを進めました。



 人の気も失せ、まるで蜘蛛の子を散らしたように静まり返った王都の中心、そこには廃墟同然と化したかつて城だったものだけが聳え立つのみでした。威圧的な城門は崩れ落ち、城壁はズタズタに引き裂かれ、美しい尖塔は跡形もなく砕け散っています。ああ、その有様の何と恐ろしいことか。かつての栄華はどこへやら、今私の目に前にあるのは虚飾と呪いに食らい尽くされ、埃を被った残骸ばかりなのです。その不気味な姿に足はすくみ、私の心は戦慄で満たされていきました。それでも気持ちを奮い立たせて一歩一歩、恐る恐ると、しかして確実に私は前に進んでいきます。殿下への思いを胸に、私は門を超えその内部へと向かったのです。そして城の内に至り、使える入口を探し始めた頃、私は彼女に出会いました。



 半壊した宮殿から落伍した瓦礫が散乱する庭園の中、そこには焦げ跡の付いたドレスを纏う少女が孤独に佇んでいたのです。呆然と宮殿を見上げながらも、こちらに気付くや否や畏まり、改まった態度をとった彼女は一言、私の名を呼びました。



 「お待ちしておりました、ベアトリーチェ様。」



 優雅なカーテシーと共に一礼した少女、彼女こそがかの聖女候補、イザベルだ。



 「事情については殿下の手紙により把握していると存じます。お察しの通り、殿下は戴冠式の場にて自ら儀礼用の剣を胸元に突き立て、『壊紋病』の呪いを解き放ちました。私自身はなんとか己の加護によって防げましたが、前王夫妻、並びに参列した27名の高位貴族が呪殺された模様です。」



 淡々と当時の状況を伝えるイザベル嬢、その姿はなんとか溢れる思いを抑えながら気丈に振舞おうとしているかつての私にひどく似通っていました。



 「衛兵や給仕、召使いの方々はなんとか先に逃げのびることが出来たそうですが、殿下をお連れすることは叶いませんでした。あと半刻の後に兵士による救助が始まる予定です。」



 告げられたる半刻というリミット、そして開け放たれた扉を指し示す彼女の無言のジェスチャー、そこで私は全てを察しました。それはつまり、今が殿下と面会できる最後の機会であるという証左なのでしょう。



 「ご苦労様です。イザベル嬢。あとはゆっくり休んで、その涙をぬぐっておいでなさい。」



 無意識に流れ出ていた涙、それに遅れて気付いた彼女ははっとした顔で首を垂れ、そそくさとその場を後にしました。「無事を祈っております。」そう聞こえたのは気のせいでしょうか。



 父に連れられ、前国王陛下への謁見を目的に登城したことはあれど、迎えも見送りも、そして隣を歩く者いないたった一人での城への入場は新鮮な感覚をもたらしました。壁や床など、所々に染み込んだ黒い紋様、それらは既に効力を失いながらもなお悍ましき殺戮の跡を物語っています。



 効力を失った、それ即ちここは災いの通り過ぎた跡である、と。言わば私が今いる場所はそんな概念に過ぎないのです。にも関わらずこれだけの強い死の気配を感じさせるあたり、それと真正面から向き合った殿下の面持ちは如何様だったか推し量ることすら叶いません。どれ程恐ろしく、不安で、悔しかったか。そして何より、そんな殿下の真意にも気付けず彼を一人追い詰めてしまった私の罪はそれこそ贖いきれないものです。彼は手紙でしきりに謝罪を述べていましたが、とんでもない、謝るべきは私の方です。



 今にして思い返せば予兆は幾らでもありました。イザベル嬢と接触する頻度が増加した際には、まずしっかり理由を尋ねればよかったのです。本来はダメ元で解呪出来ないか、そんな挑戦だったというのに、私は早合点してお二人の関係を疑い、冷たく当たってしまいました。彼が服の下に包帯を幾重にも巻いていたのも私に対する気遣いだったというのに、あの手紙を読むまで私は何も理解すらしていなかったのです。



 愚かで、偽善的で、こんな女の何が未来の王妃か、何も相応しくないじゃないですか。ああ、だからこそ私は会いたい、会ってせめて最期くらい彼の思いに応えたいと、そう思うのです。



 コツコツと響く靴の乾いた音はやがて聞こえなくなり、気付けば私は裸足で駆け出していました。淑女にあるまじき乱れっぷりなど気にする余裕もなく、私はただ殿下の命の残された時間にのみ気を取られていたのです。


 絢爛豪華、美麗荘厳、かつて王の威光のあらん限りを示した王城は今や黒き呪いの紋に塗りつぶされ、その輝きはとても手の届かぬまでに遠のいていました。かつての美しき内装に思いをはせながら、瓦礫の山を超え、廊下を抜け、壊れかかった扉を開いたその先にかつて玉座の間と呼ばれたその空間は広がっていました。



 その光景のなんと凄惨たることか。あたり一面に血吹雪が飛び散り、謀殺された貴族の面々は皆異様な欠損をしながら肉体が四散していたのです。苦悶の表情を浮かべ、何が起きたかも理解できぬまま呪いに食らい尽くされたそんな佞臣たちからやや離れた場所、栄光ある玉座の前に彼は倒れ伏していました。




――――――




 「殿下!」



 懐かしい声が聞こえる。あれ程愛した女性の、ベアトリーチェの今にも泣きだしてしまいそうな声が聞こえるのだ。そうか、これが走馬灯と言うやつなのだろう。ああ、そうだ、そうに決まっている。胸部に痛みと共に滲み出る出血、そしてそこから溢れ出る紅き大河、それらが私の命の終焉のカウントダウンを刻んでいるのだ。呪いは発露した、即ちその宿主の死は決定事項となり、逆説的に手の施しようはないことも表している。なればこれは都合の良い、今際の際の最期の幻想なのだということも容易に理解できる。



 なけなしの力を振り絞り、体を仰向けに倒し、声のする方に首を回す。確かに彼女がいるのだ。これ程に走馬灯は明確に見えるのかと思わず感心の声を上げてしまった。



 「殿下、オルティナリ公爵家令嬢、ベアトリーチェが参上いたしました。殿下、……これは紛れもない、現実です。」



 あの婚約破棄の晩に見たように、彼女は消え入りそうな声で涙ながらに言葉を返してきた。見れば彼女の全身にはかすり傷や切り傷がそこかしこに刻まれており、服装もボロボロに千切れている。ここに来るまでに、さぞ辛い道程を歩んだのだろう。



 やはり私は駄目な男だ。こうして傷付けたくないからこそ断腸の思いで君を遠ざけたというのに、結局未練がましく手紙をよこし、後味の悪い恋慕を叩きつけて君をこの場に引き寄せてしまったのだ。何と、何と詫びればいいか。悔しいかな、この内から湧き出る血の塊は言葉を紡ごうとするたび喉をせり上がり、会話すら満足にさせてもらえないのだ。何と言えば、何と言って謝ればよいか。



 「殿下、どうか、どうかお許しください!殿下の真意にも気付けず、婚約者にあるまじき醜態を晒したことをどうか詫びさせてください!」



 何故彼女が謝るのだろう。訳も分からず私は唖然とした表情を浮かべた。ああ、そんなに泣かないでくれ。何も悲しむことなどないじゃないか。諸悪の根源は絶てたのだ、むしろ喜んでもいいくらいじゃないか。無様に死する前に国家に命を捧げれたのだ、むしろ誇らしいくらいだよ。



 どうしてだ。どしてそんな思いつめた表情なんかしているんだ。君には笑顔の方がよく似合っている。私なんかの為に泣かないでくれ。



 「殿下、…どうかお願い…します。お願いだから、死なないで!私を置いていかないで!」



 私の元に縋りつき、彼女は声を荒げて嗚咽を漏らした。幼少の頃から今まで、ほとんど見たことのない本気で取り乱したその姿に驚きつつも、少しばかりはその涙の意味を理解できた。



 そうか、そうなのか。そこまで本気で私の死を惜しんでくれるというのか。ああ、それは喜ばしいことだ。君ほどの女性にそこまで愛してもらえるなど、如何な名誉にも勝る幸福だ。しかしだが、それではなおさら申し訳が立たないではないか。君がそう望むというのに、私にはそれに応える術がないのだ。ああ、許してくれ、許してくれ、許してくれ。今更になって死が恐ろしくなったと、今生に未練が生まれてしまったなどと言えるわけがあるまい。君と生きたい、ただそれを望むことすら傲慢だったというのだろうか?



 ならばせめて、今生では君と出来なかったことを最期に成し遂げたいんだ。簡単な事さ、抱擁を交わしたい、ただそれだけだ。お互い張りつめたような貴族社会に生きてきた身だ、世の恋人らしいことの一つも出来なかったはずだ。血の気も失せて、包帯がかさばって、如何にも冷たい木偶人形のようだが、それでもいいならそっと抱きしめてくれないか。



 ああ、ありがとう。心の底からの感謝を述べるよ。ああ、温かい。君の心の温もりが、優しさが身に染みる。嬉しいよ。駄目だ、駄目だ。涙が止まらない。本当はずっと前から、そしてこれから先もこうしていたかったんだ。未練は沢山だ。だが、もう十分、いい思いもさせてもらった。



 最期まで我儘ばかりで、君には迷惑をかけてばかりだった。だが、そんな無茶にも君は応えてくれると信頼もしているんだ。だからこそ君にはこの先も期待している。そこに転がっている王冠、あれこそが王位の証だ。次に戴冠を済まし、真にあの王冠に相応しき王として君臨するのは君かもしれないな。



 ああ、もう限界だ。君の体温だけしか感じれなくなってしまった。これで私の生涯も終幕か。ただ、まあ、最期は親殺しの身に余る幸福な幕切れだったかもしれないな。



 さようなら、ベアトリーチェ。心の底から愛している。




ーーーーー




 殿下の最期を看取り、私は彼の亡骸を背負って再び城の外へ戻ってきました。傍に殿下に託された王冠を抱え、全身に血みどろの染みを滲ませた私の姿は誰もが背筋の凍るような異様なものだったのでしょう。



 やっとの思いで元居た庭園に辿り着けば、そこには駆けつけた屋敷の者たちやイザベル嬢を始めとした生き残った方々もいらっしゃっており、瓦礫を退けて這い出た私を見て皆一同にこちらに駆け寄ってきました。



 良かった、無事で良かった、と口々に響く安堵の声に私も少しばかり気が緩み、思わずお父様の元に倒れ込んでしまいました。殿下のご遺体をそっと抱きしめ、私は父の腕の中で微睡みながらも言葉を紡ぎ出します。



 「お父様、私は王になることが出来るでしょうか?」

 「ああ、なれるさ。あの殿下がお認めになったのだからな。」




 今にも泣きじゃくってしまいそうな、そんな悲壮的な顔で、それでもお父様は優しく微笑みかけてきました。



 そう、きっと辛いのは誰も皆同じだ。



 殿下のその身を犠牲とした改革、重くのしかかる国家再建の使命。私たちはそれらを背負い、形にしなければならないのです。ある意味で彼から我々へ課せられた呪縛に等しく、しかしてそれはまた彼が生きた証でもあるのです。



 ふと遠くを見やれば、地平線に沈みつつある西日の煌めきが目に入りました。城壁が崩れたことで開かれたその光景、その向こうを赤々と染め上げる夕焼けの美しさのなんと素晴らしいことか。



 余計なものを取り払い、ただただ純粋な輝きを目指した殿下の求めていたものは、もしかしたらこんな美を皆と分かち合う瞬間だったのかもしれませんね。



 薄れゆく意識の中、私は殿下の今際の言葉を回想しながら眠りに落ちてゆきました。



 彼の愛を思い出に、彼の志を糧に私はこの先の覇道を歩むのです。



ここまで読んでくださったことに感謝です。



ご意見、ご感想お待ちしております。



誤字報告して下さった方、誠にありがとうございます。

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[良い点] 凄かったです 「たったひとつの冴えたやり方」 って訳ですね 切羽詰まった緊迫感が小説を支配していて のめり込んだというより、巻き込まれました [気になる点] この呪いをかけた人は逃げ切れた…
[一言] 現実のテロリストもこの王子の様に追い詰められているのかなぁ。
[良い点] ポエムっぽい、というより 物語っぽいという褒め言葉を送りたいです。 [気になる点] ある意味、覇道を進まねばならぬ新たな『呪い』を掛けられてしまった気がしますね。 数十年後に、圧政扱いさ…
感想一覧
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