第6話:酔っぱらい
午後8時、日もすっかり落ちた頃に、煌々と明かりを灯す1軒の居酒屋。
そののれんの奥には、大勢の人間がひしめき合っていた。
熱気と笑い声が空間を満たし、店員の威勢の良い声が間を飛び交っていく。
その中の小さく区切られた1室にて。
「――それじゃあ、僕の研究室に来てくれた2人に乾杯〜!」
「かんぱーイ!」「有難うございます、乾杯」
キン、とジョッキを打つ小気味よい音が響く。
それら3つは、きめ細かに泡立つ冷えたビールで満たされていた。
「今日は僕のおごりだから、2人共遠慮なく飲んで食べてね〜」
原田教授がお通しをつまみながら、陽気に言う。
それに対し、有難うございます、という男女の声が返された。
現在、大学の程近くにある居酒屋にて、孝介とアーズリィの歓迎会が開かれていた。
初めて3人が研究室に集い、自己紹介を終えた後、
「それじゃ、これから仲良くしていきましょうってことで、今晩飲みに行こう〜」
と教授が言い出したのが発端だ。
この居酒屋は低価格の割に味もなかなかで、大日本大生並びにその関係者によく利用される人気店である。
注文してそれほどたたない内に、テーブルの上にから揚げやら刺身やら焼き鳥やらが並べられていく。
久し振りのしっかりとした食事に箸をつけながら、孝介は研究室のメンバーを観察した。
教授は乾杯の後5分もたたないうちに、2つ目のコップに口を付けている。
中身は梅干しの浮いた焼酎のようで、ほんわかと湯気がたっていた。
歓迎会という名の元に、単に酒が飲みたかっただけなのかもしれない、とそれを見て孝介は思った。
それからアーズリィはというと、液面がジョッキの上端から少ししか下がっていないのに、首元まで薄っすらと赤く染めていた。
中学生にしか見えない女が、大きなジョッキを持ちあげている様は、どこか可笑しかった。
ビールを注文する際に、店員から身分証明証の提示を求められていたが、それも仕方の無いことだろう。
一方の孝介は、初めの1杯を、時間を掛けて楽しんでいた。
元来酒を飲むことは好きだし、強い方でもあるのだが、金を酒に使う余裕が無い。
どういう名目であれ、誰かのおごりというのは有り難いことだ。
孝介はこれからまたしばらくは味わえないであろう酒を、噛み締める様に飲み進めていく。
「それで君達、研究室に来る前から〜知リ合いだったみたいだけど〜、僕にも詳しく聞かせてよ〜」
「あア! 聞いてくだサイよ教授! 日本に着いてカラすごクすごく大変ダったんデスよ!」
教授は顔を赤らめて、いつも以上に言葉を間延びさせていた。見ると早々に2杯目のコップはすでに空き、3杯目に入っている。
その教授の言葉に食い付いたのはアーズリィで、こちらはすでに耳まで真赤に染めていた。
「なっがイ入国審査を終わっテ、一息ついテ何か食べよウと思ったんデスよ! いざ買おうとしたらなんト、財布が無くテ!」
すでにかなり酔っているのだろう、非常に興奮した様子で捲し立てる。
入国審査への愚痴から、日本の物価の高さ、果てはパンの香ばしい魅力にまで話が飛んで分かりづらかったが、話をまとめるとつまりこういうことらしい。
入国審査を終えたアーズリィは腹が物凄く減っていた。
もう早いところタクシーに乗ってアパートに行こう。そう考えた時、パンか何かの匂いが誘惑をかけてきた。それはそれはもう美味しそうで、食べないということは考えられなかった。
そこで、現在の手持ちを確認するため、鞄の中にしっかり閉まってあった財布を取り出し、中を確認した。
それほど余裕はないが、パンを買うぐらいはいいだろう、と財布を上着のポケットにしまい、意気揚揚と匂いの方へと向かった。
それからしばらく歩いていると、若い男に強かぶつかって素っ転んでしまった。
物珍しくて余所見しながら歩いていたアーズリィが悪かったのだが、その男は親切にも手を貸して起こしてくれ、荷物も拾ってくれた。
日本人は親切だな、そう思った。
そしてついにパン屋の前に着いた。陳列されたパンは種類も豊富でどれも美味しそうで、悩みに悩んで2つに絞りこんだ。
注文し、宝物が透明な袋に入れられる様を見送った。これがもうすぐ手に入るかと思うと――よだれを垂らすのを我慢しつつ上着のポケットをまさぐった。
しかし、あるはずの財布がそこに無い。
それから先は地獄だった。泣きそうになりながらもパンにしばしのお別れを告げ、財布を探しまわった。鞄もひっかきまわしたし、トイレに入って上着から何まで脱ぎ払ってもみた。落し物コーナーにも行った。しかし、見つからない。
その時ピンときたのは先程ぶつかった男だ。まさかあんな紳士が……と思ったが、もうそれぐらいしか思いつかない。
それからその男を必死に探したが、後の祭りで、すでに男は遠く離れてしまったらしかった。
結局財布を見つけることも敵わず、パンも諦めざるを得なかった。
「――それデワタシ、お金を全部そノ財布に入れてたんデスよ! 盗られちゃったらどうやっテアパートに行くって話ですヨ!」
「それは大変だったね〜。それで結局どうやって行ったの〜?」
怒りに満ちたアーズリィの勢いが、唐突にそこで止まった。
しばらく考える素振りを見せた後、何故かどもりつつ答える。
「……エーと、ヒッチハイク……したリ、歩きまわったリ、色々シて……とにかくアパート付近まで辿り着いたんデスよ! そこで偶然コースケに出会ったんでス。ネ? コースケ」
唐突に話を振られた孝介は、ああ、と生返事をした。
「それデ偶然コースケがワタシの住むアパートと一緒デ、早速ご近所サンになったワケですネ! そレでワタシすごくお腹減ってテ、何か食べたかったんデスよ〜」
やっとあの時アーズリィがシティハイツを探していた理由が分かった。
昨日の時点では有り得ないと思っていたが、どうやらあそこに住むらしい。
毎朝一緒にアパートを出るとか、しょっちゅう飯をたかられる、とか面倒臭いことにならなければいいが、と孝介は思った。
ところで、酔いのせいでアーズリィの話の支離滅裂さは度を過ぎていた。
首を傾げる教授に、孝介は補足説明をしてさしあげる。
「つまり……アズ、はアパートを探して長い間彷徨っていたため、もの凄くお腹が減っていたのですが、財布が無くて何も買うことが出来なかった。それで偶然出会った同じアパートに住む僕に、食べ物を求めてきた訳です」
「なるほど〜。それじゃ〜なんでまた朝まで一緒だったの〜?」
どうやら教授はこういった話が好きなようで、顔に乗っかった笑みに、やや下卑たものが隠れていた。
「いえ、教授が想像されているようなことは何も無いです。アズを部屋に上げた後、僕は疲れていたのでさっさと寝たのですが、彼女も食べた後眠ってしまったらしいです。今日の朝僕が目を覚ましたら、床に転がっていて驚きました」
「いつの間にか寝ちゃっタんだ、ゴメン!……あ、あと言い忘れてたケド、シャワーも借りちゃっタ〜」
アーズリィが真赤な顔で、へらへらと謝ってくる。
思い返せば朝、風呂場の床が濡れていたが、そういうことだったか。
どこまで厚かましい奴だと思ったが、それくらいどうぞ、と軽く流しておいた。
「……それで、朝になってアズも大学に行きたいということだったので、一緒に来たんです。――大日本大の新しい研究生で、僕より年上だなんて夢にも思いませんでしたが。それだけの話です」
それだけなのかぁ〜、と教授はややがっかりした素振りを見せた。
この人がこういう性格だとは……意外だ。
「それだけの話デス〜!」
そして、アーズリィは楽しそうに笑いながら、孝介の言葉を復唱している。
こうしていると未成年者飲酒という名の犯罪の匂いがぷんぷんするのだが、年齢確認のために店員に見せたパスポートを覗いたら、本当に29歳らしかった。
どういう育ち方をすればここまで幼く……もとい若く保てるのだろうか。
「そ〜かそ〜か〜。でも今はまだ何も無いかもしれないけど〜、アズ君可愛いし〜、孝介君もカッコいいし〜、2人共若いし〜。おじさん期待してるからね〜!」
「期待してル〜!」
気づけば、教授とアーズリィが肩を組み合い、ジョッキを掲げて楽しそうに体を揺らしていた。
いつの間にか大量の空のジョッキとグラスが、テーブルを占領している。どうやら2人共あまり酒癖が良いとは言えないらしい。
孝介もかなり飲んではいるが、体質的に強いので、気分はいいが理性を失うことは無い。
何となくこれから苦労しそうだ、と孝介は小さく溜息をついた。
しかしその溜息とは裏腹に、顔には微笑が浮かんでいることに、彼自身は気付いていなかった。