第4話:そして、朝
午前6時30分。静かな朝は、いつものように鳴り響くベルの音で壊された。
手を伸ばし、枕元の目覚まし時計を叩き止める。
しばらく眠りの余韻を楽しんだ後、孝介は布団から這い出した。
低血圧の自分にとっては毎朝が地獄だが、起きない訳にはいかない。目を半眼に開き、眼鏡をかけじりじりと立ち上がる。
昨日は疲れていたため、部屋に入るなり寝てしまった。とりあえずシャワーを浴びよう。
寝ぐせ頭で、ふらふらと風呂場へと向かう。その途中で、右足で何かを蹴ってしまった。
未だぼうっとした頭は、この生温い物体が何か判断出来ない。孝介はゆっくりと視線を下げる。
するとそこにあったのは、床に丸まって眠る少女の姿。
蹴られた衝撃に対してか、一度小さく身じろぎをした。
「……」
眠い。眠すぎて頭が働かない。
(……とりあえず、シャワーだ)
孝介はその障害物を乗り越えて、再び風呂場へと向かわんとする。
その際、つま先がそれに引っ掛かって、少しだけよろめいた。
頭から温い湯を浴びると、ようやく頭が冴えてきた。
部屋に転がっていた少女について、少しずつ思い出していく。
昨夜突然出会い、食べ物をくれとせがんできた、厚かましいガキ。
全くもって気は進まなかった。
しかしその声があまりにも弱々しすぎて、つい仏心を起こしてしまった――非常に珍しい事だが。
断ったら、ぐずられたりしてさらに面倒臭くなりそうだ、と思ったのも大きかった。
「カップラーメンならある、湯沸かして食え。用が済んだら出て行ってくれ」
六畳一間に連れて行きそう告げた後、自分はさっさと布団を敷いて眠る態勢に入った。
晩飯は食べるつもりだったが、それも億劫だったし、何より精神的に疲れていた。
無防備に寝ていても、盗られるようなものは何も無いので別に構わない。
盗られるとしたら命ぐらいだが、命を狙われる覚えも無い。
ガキは、この恩は一生忘れナイ、だとか大それた事を抜かしていた。
たかだかカップラーメン1つで。
明かりを遮るため布団を頭まで被り、眠るまでの間、思考する。
そもそも、なんでガキが1人で腹をすかしてこんな寂れたアパートを探していたのか。
暗闇では声と背丈くらいしか分からなかったが、おそらく中学生ぐらいだ。
しかも言葉遣いからいって、おそらく外国人、もしくは帰国子女だろう。
そんなやつが、今後このボロアパートに住む、という訳でもあるまい。
家出してここに住む親類にでも頼りにきたか? まさかな。
そういうことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまって、朝がきた。
今の論点は、なぜまだあのガキが部屋に居座っているのか、だ。
面倒事には巻き込まれたくない。早く叩き起こして、追い出そう。
そう考えて、孝介は蛇口をひねった。
用意していたバスタオルで全身の水気をとり、それを体に巻きつける。
風呂場から出てくると、少女は床に転がっておらず、かわりに部屋の真ん中に位置するちゃぶ台に突っ伏していた。
一度は起きようとしたが、襲い来る眠気に負けてしまった、というところか。
「……おい、起きろ」
言いながら、孝介は背後からその小さい頭をわし掴み、前後左右に激しく揺らした。
蹴られても起きなかった奴だ、これぐらいはしないと駄目だろう。
「んうう……」
しばらく揺らしていると、小さい呻き声が聞こえた。あと一歩だ。
目覚めを助けてやるべく、耳元で叫んでやる。
「――起ーきーろッ!」
今日は9時に原田研究室へ行かなければならない。そのために8時には家を出る必要がある。
ゆっくりとこんなガキに構っている暇などないのだ。
それに、見知らぬ輩を黙って部屋においておくような親切心は、あいにく持ち合わせていない。
やっとのことで、少女は頭を上げた。
その動きに合わせて、艶のあるプラチナブロンドの髪が流れる。
長い髪の隙間から、うなじがほんの少しだけのぞいていた。その透き通るような白い肌から察するに、どうやら白人らしい。
外では暗がりで全く見えなかったし、部屋に入れた後も一度も目を合わせることなく床に就いたので、分からなかった。
…というより、全く気にしていなかった。
少女はゆっくりとした動作で首を回し、孝介の方へと顔を向ける。
少し間を空けて、その半開きの目がかっと開かれた。
「ご……ごメん少年! 寝ちゃってたようデス!」
少女が、勢いづいて謝る。心底慌てている様子だった。
――しかし、その必死の謝罪が孝介の耳に入ってくることは無かった。
瞬間、孝介は大きく一歩後ろへ下がり、少女と距離をとった。
心臓が、突然全力疾走を始める。
シャワーを浴びて温まっていた体が、急速に温度を失っていく。
映像が頭の中を激しく飛び交い、それはある時点で急に止まった。
蒼。抗うことは許されない、絶対的な力。
孝介は怯えていた。少女にではなく、16年前のあの事件に、だ。
少女の持つ青い目が、孝介の忌まわしき記憶を、容易に解き放ってしまったのだ。
上手く呼吸が出来ない。体が強張って、言うことを聞かない。
――馬鹿馬鹿しい!
孝介は記憶の奔流を断ち切ろうと、心の中で自らを一喝する。
(冷静になれ。ただの目が青いだけのガキだ。……"あいつ"じゃ、ない)
少女はというと、きょとんとした顔で、孝介の方を見ていた。
一度限界まで息を吐き、それと同時に頭に上った血を鎮めていく。
そうすることで、表面上落着きを取り戻した孝介は、口を開いた。
「……俺は、早いところ着替えて家を出たいんだ。……さっさとどっか行ってくれ」
努めて冷静に、言葉を絞り出す。
孝介が葛藤している間に、少女は目がはっきり覚めたようだ。
昨日のしおらしい声はどこへやら、元気よく言葉を返してきた。
「うン。世話になりまシタ、有難ウ少年!」
幼いながらも目鼻立ちの整った顔に、大きな花が開いた。
それを見て、孝介の心は、いつもの冷静さを取り戻した。
こんなに取り乱すなんて、全く自分らしく無い。
孝介は、安心と自嘲の意味を込めて、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
このガキが魔女な訳など無いのだ。
なぜなら、"あいつ"は、こんな風には笑わない。