第3話:ボーイミーツガール、ガールミーツボーイ
先程までの高揚感はどこへやら、孝介は体の芯に鉛が入っているような気持ちで、通いなれた道を歩いていた。
原因は、原田教授の言葉。
『魔女……か。そうくると思っていた。むしろそれ以外に君がこの大学に入り、この研究室の門戸を叩く理由が思いつかない。
しかし――僕は全くそれを君にお勧めしないな。なぜなら、君にとってそれは非常につらいことだと思うからだ。
知って過去のトラウマに向き合うのがつらい、とかそういう温いことじゃない。
知らないこともつらいかもしれないけど、何より僕が危惧するのは、知っても何も出来ない自分に、君が耐えられなくなるだろうことだ。
君は確かに頭が良い、そしてプライドも他の人より高めに持っているだろうね。
しかし君の知りたいことは、そういう次元じゃないのは容易に想像できるだろう?
君がそれを知り、そして何も出来ずに深みにはまっていく様を、僕は見たくない。……それでも君は知るのか?』
はっきりとした、いわば死刑宣告だった。
いつものだらだらとした喋りが嘘のように、澱みなくきっぱりと、原田教授は言い切った。
その目に厳しいものが宿り、先程までの穏やかな様相は跡形もなく消え去っていた。
――原田教授の言葉を、自分で予想出来ないはずが無かった。
ではなぜこんなにも、気持ちが沈むか。簡単だ。
予想が出来ても、それに対する良い手だてが無いことが分かっているからだ。
教授の言葉に対しても、16年前のことに対しても。
何度も何度も考えてきた。しかし自分が抱えてきた問題は、いかんせん大きすぎる。
いくら考えても行き着くところは、常に同じだ。
(事実を知ったところで、脆弱な自分に出来ることとは、何だ?)
自分はちっぽけで、自己中心的な人間だ。気が狂いそうな位分かっている。
しかし、どんなに自分に言い聞かせても、理性ではない本能の部分で、それを拒むのだ。
だから。
『僕は、停滞を望みません』
そう、答えるしかなかった。
その言葉を聞いた教授の目は、角度を緩めて穏やかなものに戻った。
そしてこう加えた。若さってのは、いいねぇ〜、と。
すでに日が落ちてしばらくたった道を、行く。
まだ4月の初めだ。いくら春といえど、夜風はやや冷たい。
考介は上着のポケットに手を突っ込み、暖をとる。
そのまま数分真っ直ぐに歩いていくと、いつもの分岐点に辿り着いた。
右に行くとアパート、左に行けば……病院だ。
面会時間の過ぎた病院に、用は無い。右へと歩を進める。
そのままあと5分程度歩けば、アパートだ。
街灯が点滅して、不定期なリズムを打っている。
電球が変えられないか、接触が悪いのか、おかげで辺りはほとんど視界は利かない。
しかし、3年間この道を通っているので、もう慣れた。
人通りも、車通りもほとんど無い、暗く静かな通り。考介はここを、考え事をしながら一人行く時間が好きだった。
アパートがあと20mに迫る。向かいの一家の電気が漏れ、ぼんやりとアパートの全貌が浮かんでいる。
相変わらず、昭和初期の香りしかしてこない、ボロいアパートだ。
家賃が破壊的に安い分、文句は言えないし、経済状況が切迫している自分としては有り難いのだが、しかし……ボロい。ボロすぎる。
今日は現実を直視したくなくて、孝介は何気なく空を仰いだ。
空は曇っていて、星も月も、何も見えなかった。
「……つまらない」
一人ぼやき、無駄に装飾がついた、古ぼけた門を押し開ける。
静かな空間を、錆びた金属の絶叫が支配する。
その時だった。
「すいませン!」
すぐ近くから女の声がした。まだ成長途上の若い声だ。
孝介は門から手を離し、声の方向――右後ろを振り返る。
そこには声の主であろう小さな影がひとつ、立っていた。
(ガキ? こんな場所で、こんな時間に?)
しかも、一寸前までこの通りには人っ子一人いなかったはずだ。
突然降って湧いたように現れた少女に、孝介は表情を変えないながらも、内心驚いていた。
その驚きをよそに、小さな影が孝介に話しかける。
「道に迷ったんデス。少年、この辺にシティハイツってアパートないカ?」
少し敬語が混ざった変なイントネーションの日本語で、少女が尋ねる。
その加減からいって、少女は日本人ではないようだった。
それにしても、こんなガキに少年と言われる筋合いはない。意味がよく分かっていないだけなんだろうが。
「シティハイツなら、これだ」
孝介はぶっきらぼうに、今まさに開かんとしていた門の奥を指し示した。
昭和初期生まれのくせに、名前だけは時代に追いつこうとする我が仮宿、シティハイツ。
それを聞いた少女は一時おいて、わっ、と歓喜の声を上げた。
周りはほとんど暗闇で、その表情は見ることは出来ない。
「やっト……ついニ……ああ長かっタ……。アリガトウ! 本当にアリガトウ!」
少女はそう言いながら孝介の手を握り、ぶんぶんと上下に振った。
小さいその手は、冷え切って氷のようだった。
孝介は無抵抗の振りをしながら、何気ない動作でその手から逃れる。
たまたま出くわしただけのガキと、慣れ合う必要は無い。
よかったな、とだけ告げ、孝介は踵を返した。
今日は特に人と関わりたくない。さっさと部屋に入って、カップラーメン食って、寝よう。
そう考えてまた門を押し開けようと力を込めた矢先、今度は背部のTシャツが引っ張られる感触がした。
内心で軽く毒づきながら、目線だけを右後ろへやる。
「……何だ?」
相手はガキだ。適当にあしらえばいい。
抑えたつもりだったが、自分の声には怒気が含まれてしまっていた。
少女はそれに怯んだのか、しばらく逡巡したが、めげはしなかった。
弱々しく、懇願する。
「少年……本当に申し訳ないんですガ……食べ物、くれないカ……」
「……は?」
予想していなかった少女の言葉に、孝介の思考と動作は一気に停止した。
それはコンマ数秒後、街灯に虫が当たる音によって呼び戻されるまで続いた。