第2話:ガール
入国ゲートは、先程到着したフランス−日本便から降りてきた人々で、ごった返していた。
日本人と外国人、各々分かれて列を作り、自分達の順番の訪れを待っている。
それにしても、祖国または異国に足を踏み入れる、希望への一歩だというのに、彼らの表情は、皆一様に沈んでいた。
原因ははっきりしている。
昨今の入国審査の強化のおかげで、列が全くもって進まないのだ。
特に外国人の列で、それは顕著だった。
十数時間に及ぶ飛行から解放されたと思ったら、これだ。
誰かが発した溜息が、周囲の空気にさらに重苦しいものを加えた。
「Next,please」
声に促され、列の先頭にいた一人が、前へと歩み出る。
疲れているのは入国審査官も同じだろうに、仕事への責任感がそうさせるのだろう、その声ははきはきと気持ちの良いものだった。
「Are you…Ms.Arzly・D・Landhait?」
パリッとした制服に身を包んだ入国審査官の女性が、流暢な英語を口にした。
パスポートの情報を確認し、顔を上げる。
入国者の緊張を和らげ、また自身の疲労を隠すため、その顔には柔和な笑みが乗っていた。
「そうダ。……デス」
それにやや変わったイントネーションの日本語で答えたのは、白人の少女。
敬語に慣れていないのか、一度言葉を切った後、慌てて付け加える。
年の頃は14、5歳といったところか。
手荷物は小さな手提げ鞄一つのみで、その身をスーツで包んでいる。
少女の小柄な体と幼い顔に、やや不釣り合いな格好だ。
その顔は周りの者同様沈み、またその目は、早く終わらせて、と審査官へ訴えかけていた。
しかし、そうしたところで規則が簡単に覆るわけもない。
少女はまだしばらくの間、空港で過ごすこととなる。
◆
「あぁ……疲れタ……」
アーズリィは、小さなトランクを転がしながら、一人ごちた。
フランスから日本まで飛行機で来るのは、長かった。
しかし飛ぶこと自体は慣れているし、機内では食事に睡眠、映画鑑賞と暇を潰せて、苦痛は全く感じなかった。
なにが疲れたかといえば…とんでもなく時間がかかった、入国審査だ。
まず自分の順番が回ってくるのが遅かった。
ゆっくりと飛行機を降りてきてしまったのも原因だろう。
自分が列に並ぶ頃には、すでに長い蛇状態になっていた。
順番を待つ間、特にすることも無く、話し相手もおらず、実に……実に暇だった。
そして、入国審査自体も長かった。
パスポートを見せるところから始まり、指紋認証、顔写真撮影、そしていくらか簡単な質問を受けた。
それだけで済むなら良かったが、入国目的が留学であることを伝えた後が、また大変だった。
別室に通され、入学許可証を始めとする様々な書類を見せまくり、質問を受けまくった。
それが終わって、預けていたトランクを受取り、やっと今に至る。
飛行機で日本の地に降り立ってから、今まででどれくらい経っているかなんて、考えたくもない。
それから、疲れた理由はもう一つあった。
審査官の女性が、質問を終えた後、
「日本語が上手だね。お勉強頑張ってね!」
そう言って、笑顔で自分に手を振ってくれたのだ。
初めは反応出来なかったが、一呼吸おいて笑顔で手を振り返すことが出来た。
満面の笑みが出来たかどうかは、おいておいて。
(ワタシって……そんなに幼く見えルのか……?)
審査官は、実に気の良い親切なヒトだった。
子供…に見えた自分に対して、笑顔で丁寧に対応してくれた。
しかし、彼女は自分のパスポートの年齢の項を、あまり見なかったのだろう。
審査官の女性は察するに、20代半ばというところだ。
自分よりも年下であろう娘に子供扱いをされるというのは…悪気は全く無いのだろうが、若干不本意だ。
「今度から大学院生だっていうのニ……何かと不便しそうダ」
小さなため息をひとつ、アーズリィは上方の看板を見やった。
何はともあれ、無事入国出来たのだ。これからやるべきことはたくさんある。
まずは、これから住むことになる、アパートを探し出さねば。
借りる手続きは、日本に来る前にしておいたので、今日のところは直接アパートに行けばよい。
距離もそう遠くないので、タクシーで行ってもそこまで高くはならないし、一応地図も持っている。完璧だ。
タクシー乗り場、という文字を見つけ、その矢印の方に向き直る。
とりあえず、この空港から早く抜け出そう。そう思った。
しかしその方向へと進み始めた足は、すぐに止まることとなる。
――匂いだ。
鼻腔をくすぐる、小麦粉と砂糖が混ざりあったような香ばしいこれは――
(……パン? ドーナツ?)
瞬時にアーズリィの腹が反応し、ぐぐ、とくぐもった音を発する。
数時間前に機内食は食べた。食べたのだが、そんなものはとっくに消化してしまった。
甘い甘いその誘惑に、アーズリィの足が、匂いのする方向へと向き……かける。
(冷静に、冷静になれワタシ!)
入国審査に思っていた以上の時間がかかってしまい、日暮れまであまり間がない。
万が一ということがある。暗い中、未知の場所を歩きまわるような状況にはなりたくない。
そのためには早いところタクシーに乗り、アパートに行ってしまうのが正解だろう。
それに、もっと切実な問題もある。
アーズリィは、手提げ鞄から小さな財布を取り出し、中を確認する。
元々持ち合わせは少なかった。
その上飛行機代とアパートの初期費用が思った以上に高くつき、その残金、日本円にして、約10万円。
ひとまずは生活できるだろうが、あっという間になくなってしまう額だろう。無駄遣いは一切できない。
家を勢いで飛び出してきたことをほんの少しだけ後悔しつつ、財布を上着のポケットに突っ込む。
そして、アーズリィの足が、再びタクシー乗り場の方向へ向きかけ……た。
(でモ……)
今度はぐぐ、なんて可愛いものでなく、ごぎゅるごっという重低音が腹から発された。
(でモ……!)
葛藤につぐ葛藤。アーズリィの足はタクシー乗り場と、匂いの元の二方向を行ったり来たりしている。
横を通り過ぎて行った日本人の親子連れが、不審そうにアーズリィの方を見ていた。
しかし今、そんなことは関係ない。何故か?今が究極の選択の時だからだ。
――1分程度の葛藤を経て。ついにアーズリィは答えに行きついた。
腹が減っては、戦は出来ぬと。
ちょっと位いいだろう、とか、お金は心優しい妹から借りようだとか、言い訳を考えながら、アーズリィは誘われるがままに歩き出した。
その唇は涎を垂らさないべく固く閉じられていたが、蒼い瞳のきらきらとした輝きが、少女の至上の喜びを表していた。
しかしそれが、後に大いなる後悔の色に飲み込まれることを、今の彼女には知る由も無い。