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第2話:ガール

入国ゲートは、先程到着したフランス−日本便から降りてきた人々で、ごった返していた。

日本人と外国人、各々分かれて列を作り、自分達の順番の訪れを待っている。


それにしても、祖国または異国に足を踏み入れる、希望への一歩だというのに、彼らの表情は、皆一様に沈んでいた。

原因ははっきりしている。

昨今の入国審査の強化のおかげで、列が全くもって進まないのだ。

特に外国人の列で、それは顕著だった。

十数時間に及ぶ飛行から解放されたと思ったら、これだ。

誰かが発した溜息が、周囲の空気にさらに重苦しいものを加えた。



「Next,please」


声に促され、列の先頭にいた一人が、前へと歩み出る。

疲れているのは入国審査官も同じだろうに、仕事への責任感がそうさせるのだろう、その声ははきはきと気持ちの良いものだった。


「Are you…Ms.Arzly・D・Landhait?」


パリッとした制服に身を包んだ入国審査官の女性が、流暢な英語を口にした。

パスポートの情報を確認し、顔を上げる。

入国者の緊張を和らげ、また自身の疲労を隠すため、その顔には柔和な笑みが乗っていた。


「そうダ。……デス」

それにやや変わったイントネーションの日本語で答えたのは、白人の少女。

敬語に慣れていないのか、一度言葉を切った後、慌てて付け加える。


年の頃は14、5歳といったところか。

手荷物は小さな手提げ鞄一つのみで、その身をスーツで包んでいる。

少女の小柄な体と幼い顔に、やや不釣り合いな格好だ。

その顔は周りの者同様沈み、またその目は、早く終わらせて、と審査官へ訴えかけていた。


しかし、そうしたところで規則が簡単に覆るわけもない。

少女はまだしばらくの間、空港で過ごすこととなる。





「あぁ……疲れタ……」


アーズリィは、小さなトランクを転がしながら、一人ごちた。

フランスから日本まで飛行機で来るのは、長かった。

しかし飛ぶこと自体は慣れているし、機内では食事に睡眠、映画鑑賞と暇を潰せて、苦痛は全く感じなかった。

なにが疲れたかといえば…とんでもなく時間がかかった、入国審査だ。


まず自分の順番が回ってくるのが遅かった。

ゆっくりと飛行機を降りてきてしまったのも原因だろう。

自分が列に並ぶ頃には、すでに長い蛇状態になっていた。

順番を待つ間、特にすることも無く、話し相手もおらず、実に……実に暇だった。


そして、入国審査自体も長かった。

パスポートを見せるところから始まり、指紋認証、顔写真撮影、そしていくらか簡単な質問を受けた。

それだけで済むなら良かったが、入国目的が留学であることを伝えた後が、また大変だった。

別室に通され、入学許可証を始めとする様々な書類を見せまくり、質問を受けまくった。

それが終わって、預けていたトランクを受取り、やっと今に至る。

飛行機で日本の地に降り立ってから、今まででどれくらい経っているかなんて、考えたくもない。



それから、疲れた理由はもう一つあった。

審査官の女性が、質問を終えた後、


「日本語が上手だね。お勉強頑張ってね!」


そう言って、笑顔で自分に手を振ってくれたのだ。

初めは反応出来なかったが、一呼吸おいて笑顔で手を振り返すことが出来た。

満面の笑みが出来たかどうかは、おいておいて。



(ワタシって……そんなに幼く見えルのか……?)


審査官は、実に気の良い親切なヒトだった。

子供…に見えた自分に対して、笑顔で丁寧に対応してくれた。

しかし、彼女は自分のパスポートの年齢の項を、あまり見なかったのだろう。

審査官の女性は察するに、20代半ばというところだ。

自分よりも年下であろう娘に子供扱いをされるというのは…悪気は全く無いのだろうが、若干不本意だ。


「今度から大学院生だっていうのニ……何かと不便しそうダ」


小さなため息をひとつ、アーズリィは上方の看板を見やった。

何はともあれ、無事入国出来たのだ。これからやるべきことはたくさんある。

まずは、これから住むことになる、アパートを探し出さねば。

借りる手続きは、日本に来る前にしておいたので、今日のところは直接アパートに行けばよい。

距離もそう遠くないので、タクシーで行ってもそこまで高くはならないし、一応地図も持っている。完璧だ。


タクシー乗り場、という文字を見つけ、その矢印の方に向き直る。

とりあえず、この空港から早く抜け出そう。そう思った。

しかしその方向へと進み始めた足は、すぐに止まることとなる。



――匂いだ。

鼻腔をくすぐる、小麦粉と砂糖が混ざりあったような香ばしいこれは――



(……パン? ドーナツ?)


瞬時にアーズリィの腹が反応し、ぐぐ、とくぐもった音を発する。


数時間前に機内食は食べた。食べたのだが、そんなものはとっくに消化してしまった。

甘い甘いその誘惑に、アーズリィの足が、匂いのする方向へと向き……かける。


(冷静に、冷静になれワタシ!)


入国審査に思っていた以上の時間がかかってしまい、日暮れまであまり間がない。

万が一ということがある。暗い中、未知の場所を歩きまわるような状況にはなりたくない。

そのためには早いところタクシーに乗り、アパートに行ってしまうのが正解だろう。


それに、もっと切実な問題もある。


アーズリィは、手提げ鞄から小さな財布を取り出し、中を確認する。

元々持ち合わせは少なかった。

その上飛行機代とアパートの初期費用が思った以上に高くつき、その残金、日本円にして、約10万円。

ひとまずは生活できるだろうが、あっという間になくなってしまう額だろう。無駄遣いは一切できない。

家を勢いで飛び出してきたことをほんの少しだけ後悔しつつ、財布を上着のポケットに突っ込む。

そして、アーズリィの足が、再びタクシー乗り場の方向へ向きかけ……た。


(でモ……)


今度はぐぐ、なんて可愛いものでなく、ごぎゅるごっという重低音が腹から発された。


(でモ……!)


葛藤につぐ葛藤。アーズリィの足はタクシー乗り場と、匂いの元の二方向を行ったり来たりしている。

横を通り過ぎて行った日本人の親子連れが、不審そうにアーズリィの方を見ていた。

しかし今、そんなことは関係ない。何故か?今が究極の選択の時だからだ。



――1分程度の葛藤を経て。ついにアーズリィは答えに行きついた。

腹が減っては、戦は出来ぬと。



ちょっと位いいだろう、とか、お金は心優しい妹から借りようだとか、言い訳を考えながら、アーズリィは誘われるがままに歩き出した。

その唇は涎を垂らさないべく固く閉じられていたが、蒼い瞳のきらきらとした輝きが、少女の至上の喜びを表していた。


しかしそれが、後に大いなる後悔の色に飲み込まれることを、今の彼女には知る由も無い。




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