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第1話:ボーイ

春。出会いの春であり、別れの春だ。

桜舞散るこの季節、特に何という訳もなく、人々は心躍らせる。


境孝介さかいこうすけも多勢にならい、その気分を大いに高揚させていた。

ただし、眼鏡に覆われた冷めた表情には、一寸の変化も見られない。


この春、晴れて進級し、4年生となった。

近年進められつつある大学改築工事のおかげで、明るく綺麗になった廊下を、孝介は一人突き進んでいく。

窓から入ってきた穏やかな風が、髪の毛をふわりと撫ぜた。



(ついに、この時が来たか)



大日本大学。日本に住まう者の中で、その名を知らないのは、赤子か、世捨て人ぐらいであろう。

日本に数ある大学の中でも頭一つ飛びぬけているだけでなく、国際的にも確固たる地位を築く、学問の発信地。それがここだ。


"大日本"なんて大それた名前を冠するだけのことはあり、そのブランド力は半端なものではない。

おまけに学長の掲げる教育方針の一つに少数精鋭、というものがあり、入学試験の倍率は毎年驚くべき値を叩きだす。

そういう理由が相まって、ここに在籍することは、例えるに政府高官をも唸らせる位の、大それた意味を持つ。



春らしく、明るく染められた髪の毛を揺らしながら、横並びに談笑する女が3人、すれ違っていった。

甘ったるい人工的な花のにおいが鼻腔をさす。その強い刺激に、孝介は僅かに眉をひそめた。


場所柄、ここはどちらかと言えば女の比率が多い。

大日本大学文学部国際文化学科。それが今の孝介の社会的地位である。




廊下を歩き階段を上って進むにつれ、人の声が遠ざかっていき、自らの足音が響くのみとなる。

やがて研究室ゾーンと銘打たれた場所へ辿り着いた孝介は、入口の重厚なガラス扉を押し開けた。


中へ一歩進むと、同じような扉が、左右にずらりと並んで奥へと続いていた。

相変わらず静まり返ってはいたが、壁の一部のみ中が見えるようガラス張りになっていて、そこから漏れる光が、人が居ることを示していた。

孝介はその縦に細長い空間を、臆することなく突き進んでいく。


いくつものドアを通り過ぎていった足が、あるドアの前で急に止まった。

孝介はゆっくりと顔をあげ、ドアの上方に掲げられたプレートに目線をやる。

そこには「異文化理解研究室」という無機質な字が並んでいた。


ここが目的地であることと、照明で目的の人物の在室を確認し、ノックをするために右手をのばす。

その手はかすかに震えていた。



(武者震い、か)



大きく息を一つつき、孝介はそのドアを三度、手の甲で軽く叩いた。





「やっ! 君が今度僕の研究室に来る学生か〜」


どうぞ〜という間の抜けた声に促されドアを開けると、またも間の抜けた声が孝介を迎えた。


部屋の奥にあるもう一つの小部屋から、白髪に黒髪の混じった頭が、顔を出している。

それは椅子に座ったまま車輪を転がし、入口まで出てきてその全身を現した。

着崩した白衣に身を包んだ、中年と老年の中間層の男。

恰幅の良い腹が、そのゆったりとした衣服になだらかな坂を作っていた。

老眼鏡のために、穏やかに細められた目が、やや拡大されて見える。


いかにも人の良さそうなこの男が、異文化理解研究室の長、原田教授。


「境孝介です。これからご指導よろしくお願いします」


社交辞令的な挨拶をし、孝介は頭を下げた。

アルバイトで培った、営業用微笑を貼り付けておくのを忘れない。


「いいよいいよそんな堅苦しくしなくって〜。それよりここ万年人手不足でねぇ。この冬まで大学院生が1人いたんだけど、他大学に引き抜かれちゃったんだ。君が来てくれてほんと助かるよ〜」


手前の空間に並べられた4つの机は、膨大な量の書籍、機材、その他諸々に占領されており、ここの住人が教授一人であろうことを暗示していた。


「それにしても君の話は色々と聞いてるよ〜。ここの馬鹿みたいに難しい入学試験を現役で通って、以来成績も上位を保ってるとか〜。それってすごいことだよ〜」

「有難うございます。……目的が、ありますから」


教授は相変わらずの独特のペースで喋っていく。

孝介はそれに飲まれることなく、素早くそう答えた。

その言葉に、教授は目をつむり、満足そうに数回頷く。


「期待してるよ〜。卒論のテーマもぼちぼち決めていかなきゃだしね〜」

「テーマはすでに決めてあります」

「…それは?」


教授の目が、一度鋭く光った。

こんなに好々爺然としていても、根はやはり学問の鬼なのだ。

だからこそ、この大学、この地位だ。


孝介は一度小さく体を震わせた。

図らずも口角が上がる。

今までの苦労が報われる時が、ついに来たのだ、これが笑わずにいられようか。



読み取りがたい表情を崩さないまま、はっきりと答える。



「『魔女に関する一考察』、です」




孝介の視線はまっすぐに教授の目を射抜いている。

言葉を聞いたその顔が、やや険呑なものを帯びたのに気付かないふりをしながら。




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