番外編 恒仁くんの小さなぼうけん
ぼくは東宮である父上と妃である母上の長子として生まれた。
母上は実名を風香様というんだ。父上とすっごく仲良しでいつも二人が一緒にいる時、ぼくはお邪魔虫扱いでね。母上とゆっくりおしゃべりしたくてもすぐに父上が割り込んでくる。弟の篤仁も二人の仲の良さはわかっているけど。複雑そうにしていた。
ぼくは今年で十歳になる。弟達は篤仁が七歳、達仁は五歳、妹の吹子は二歳で末の待子がまだ生後半年だった。五人兄弟だけど。母上はぼくらのお世話をできる範囲で自らやってくれている。
今日も字の練習に付き合ってくれていた。
「……恒仁。伊呂波歌を練習しましょうか」
「はい。母上」
「まずは。いの文字を書いてみて」
ぼくは言われた通りにいの字を檀紙に書きつけた。太筆でだけど。文机の前で座りながら背筋を伸ばしながら大きく太筆を動かす。
「……上手にできたわね。乳母の君のお手本に感謝しないと」
「母上。それを言わない方がいいですよ」
「ふふっ。わかった。母上と恒仁だけの秘密ね」
母上は五人もの子持ちには見えないくらい、若々しいし可憐だ。吹子や待子は父上似だしなあ。あの二人にはない可愛いさがこの人にはあった。
その後、半刻程は字の練習を続けたのだった。
昼近くになってぼくは乳母の息子――乳兄弟の吉若やいとこの松若との三人で庭にて遊んでいた。不意に父上などの大人には内緒で内裏の外に出たくなる。ちなみに松若は母上の姉君で伯母の香屋子様の息子だ。父君は父上の叔父である滝瀬宮様だった。ややこしいけど滝瀬宮様はぼくの大叔父で伯父にもなる。松若は父方だとはとこ、母方だといとこと言う関係になっていた。ちなみに姉君で馨子姫がいるけど。彼女もそうだ。
「なあ。宮様。内裏の外に本当に行くの?」
「行くよ。まずは衛士達をまいて。塀をよじ登るんだ」
「松若様。宮様。もうあきらめて帰りましょうよ」
松若が訊いてきたのでぼくは答える。吉若は困ったような顔で言ってきた。
「……あきらめないよ。君たちが行かないんなら。ぼく一人だけで行く」
「宮様!?」
「……そう言うと思っていたよ」
吉若はぎょっとした表情だけど。松若はあきらめたような何かを悟ったような表情で言う。
「わかりました。宮様お一人だけで行かせられません」
「仕方ないなあ。俺も一緒に行くかな」
「……決まりだな。じゃあ、まずは衛士をまくよ」
三人でひそひそと話し合う。まず、隠れ鬼をするふりをして。ぼくと吉若が庭の茂みに行く。松若にはぼくらを探すふりをしてもらうのだ。隙を見て木によじ登る。吉若が行ったら次がぼくで最後が松若だった。この手順で行こうと決めた。
一刻程が経って吉若は木によじ登った。塀の上に降り立つとぼくや松若にそれとなく合図をする。ぼくは衛士達がいないのを見てから木の幹に足をかけた。少しずつよじ登っていく。思ったよりも大変だ。塀の上に何とかたどり着いた。吉若が意外と強い力でぼくの右手を握って引っ張る。
「……今の内に行きましょう。見つかると大変です」
「わかった」
吉若に誘導されながら慎重に塀の上を歩いていく。意外と落ちないようにするのは大変だ。身軽にひょいひょいと吉若は歩いていた。後ろから松若が急いで追いかけてくる。
「……宮様。吉若。何とか衛士をまいてきたぞ」
「……お疲れ様です。夕刻までには内裏を出ないと。危ないですからね」
「二人とも慣れているんだな」
感心して言うと吉若と松若は「まあ。そうですね」と言って苦笑いした。ぼく一人だけ、置いてけぼりみたいでちょっと悔しい。
それでも塀の上を進み続けた。
内裏の出口らしい門の近くの木をつたって地面に降りた。まずは吉若から降りて次に松若、最後にぼくが降りる。
「……ここは?」
「ここで大内裏の中くらいでしょうね。歩いて行きますよ」
吉若が先頭に立って進む。ぼくは見たことのない景色に気分が浮き立った。この時は後宮中が上から下への大騒ぎになっていたとはつゆと知らなかった。
夕刻まで歩き続けた。けど大内裏は広すぎてぼくや松若、吉若も疲れてしまう。途中で休憩するために軒下に三人で座り込んだ。そうしたら通りかかったおじさんに声をかけられる。
「……お前ら。見ない顔だな。どこぞの邸に仕える童か?」
「……ええ。ちょっとご主人様の言いつけで行っていまして。今は帰る途中なんですよ」
「ほう。そうなのか。けど。お前ら、童にしては身なりが良過ぎるな」
おじさんが言うと吉若と松若は立ち上がってぼくを背後に隠した。
「……おじさん。あなたはお役人のようですね」
「いかにも。本当にお前らが隠しているそっちの若さん。身なりが良過ぎるし顔立ちが綺麗過ぎるんだよなあ」
「……仕方ないですね。常若君、松若君。逃げてください!」
「つ、常若。行くぞ!」
「えっ?!」
松若に手を引っ張られて駆け出した。いきなりの事に頭がついていかない。しばらくは何も考える暇もないままで走り続けた。
夕刻になり吉若を父上が重用している靖忠殿が見つけ出した。側には何故か滝瀬宮様や北の方の香屋子様もいた。三人共、かんかんに怒っている。ちなみに靖忠殿はぼくの乳兄弟の吉若の父君で乳母の周防の背の君でもあった。
「……吉若。松若君。それに一宮様まで。これは一体どういう事ですか?」
「本当だ。お前ら、まさかとは思うが。家出をするつもりだったのか?」
「……ち、違います。ちょっとぼうけんをしたくなって」
父君と滝瀬宮様に問い詰められて吉若は涙目だ。ぼくは彼の前に出て両手を広げた。庇う姿勢ではあるけど。
「……あの。吉若は悪くないです。ぼくが発案したんです。だから悪いのはぼくですから!」
「……一宮様」
「だから。吉若や松若を怒らないでください!」
必死で言うと滝瀬宮様が近づいてきた。両頬を手で挟まれる。いきなりぎゅうと抓られた。地味に痛い。
「ひ、ひやひゃま?」
「……じゃあ、一番悪いのはお前だ。恒仁。皆がどれだけ心配したのかわかってるか?!」
「……ご、ごめんなひゃい」
痛いながらも謝った。滝瀬宮様は両頬から手を離した。
「わかったんならいい。けどもう二度とするなよ」
「……はい」
「……宮様。無事で良かった。風香も凄く心配していたのよ」
「ごめんなさい。靖忠殿、滝瀬宮様。それに香屋子様」
ぼくが言うと香屋子様は優しく頭を撫でてくれた。
「いいのよ。けど。せめて出かける時は行き先を言ってからにしてちょうだいね」
「……わかりました」
ぼくは頷く。吉若や松若も靖忠殿や宮様に頭を撫でられていた。三人で泣いてしまったのは仕方ない事といえた。