三十六話、風の音は君の調べ
恒仁が生まれてから一年が過ぎようとしていた。
数えだと二歳らしいが。ややこしいので一歳と言っておく。で半年前に肇子様--宣耀殿様がいらしたが。あの後、棐宮様や千萱宮様と遊びに来るようになった。母として娘達のことが心配らしい。私が二人きりの時にキリスト教の賛美歌を聴かせてから肇子様はたまに歌を所望するようになった。そのたびに現代の曲で合いそうなものを選んでは歌っていたのだった。
今は季節は夏である。四月の下旬頃で既にもう暑い。私はまた懐妊していた。もう四カ月に入っている。悪阻が酷くて恒仁の時もそうだったなと思い出した。周防が心配して色々と気配りをしてくれる。そのおかげで助かってはいた。
「……女御様。召し上がりやすいかと思って。ほっとみるくと柑子の実をお持ちしました」
「……ありがとう。食べてみるわ」
差し出されたお椀を受け取ってホットミルクを飲んだ。甘葛のシロップ入りで美味しかった。柑子の実もあっさりしていて食べやすい。一個食べてホットミルクも飲んでしまう。意外といけたので周防も驚いていたが。
「あら。ほっとみるくは飲んでしまわれたのですね」
「うん。美味しかったから」
「まあ、良い事ではありますね。また調子が良くなかったらおっしゃってください」
頷くと周防はお椀を持って行ってしまう。私は持っていた蝙蝠で顔を扇いだのだった。
そうして半年が経ち、十一月の下旬になった。恒仁の時よりも安産でこの子は生まれてくる。名は篤仁と名付けられた。二人目の若宮誕生に両親はもとより春仁様や姉さんまで喜んでいた。ちなみに春仁様は内裏にいたが。姉さんが文で知らせたら脇息を倒してしまう程に驚いていたらしい。その後、狂喜乱舞していたと教えてくれた。姉さんも春仁様からのお返事でそれを知って呆れたという。私は分からなくもないと思ったのだった。
あれから何年が経ったろうか。私は現在中宮になっていた。夫の春仁様は正式に御位に就き帝になった。今上様は退位なさり院と呼ばれておいでだ。私は春仁様との間に三人の若宮と二人の姫宮をもうける。相変わらず、春仁様の寵愛は変わらない。
「……お母様。もう秋ですわね」
そう言ったのは一の姫宮である吹子だ。私というより春仁様に似た怜悧な子に育っている。顔立ちも凄く美人だ。側には妹で末子の待子もいた。
「そうね。吹子は紅葉を見るのが好きよね」
「うん。だって綺麗だもの」
私はにこにこ笑う吹子の艶艶した黒髪を撫でてやった。吹子は嬉しそうだ。待子も同じようにしてやるとはにかみように笑った。
息子の恒仁や篤仁、達仁もこちらにやってきた。一気に賑やかになったのだった。
春仁様が夜になってやってきた。私は所望されて歌う。春仁様は伴奏だと言って東琴を弾いてくれる。ポロロンとかき鳴らすのだが。最近は漢詩の韻律を歌う事もあった。と言っても靖忠さんに教わりながらだが。
歌い終わると春仁様は東琴を横に置く。女房が持ってきたお酒を手酌で杯に注いだ。お行儀が悪いけど私はスルーした。
「……春仁様。今日もお疲れ様でした」
「ああ。風香の歌を聴くと不思議と落ち着く。いつもすまんな」
「お礼を言われるまでもありません。夫を支えるのは妻の役目ですから」
にっこりと笑って言う。春仁様は苦笑した。
「……風香には敵わんな。今日も泊まっていくが。いいか?」
「……構わないわ。何。春仁様らしくないわね」
「たまには俺も殊勝になる時もある。ちょっと色々あってな」
私は何も聞かずに春仁様の手を取った。自分の頬に当てる。大きくて骨ばった手だ。けど温かい。
「春仁様。もう休みましょうか」
「ああ。そうしよう」
二人で寝所に行く。春仁様は黙って私を抱きしめる。必死で縋り付く様子にやはり自分の予感が当たっていた事に気づいた。
(……肇子様が儚くなられたからだわ)
ぽつりと呟いた。もちろん、胸中でだが。春仁様にとっては一番古参のお妃であった方だ。付き合いも長い。私は春仁様を強く抱き返したのだった。
そうして五年後に不意に春仁様は退位なさった。この時には東宮になっていた恒仁が次の帝になる。私は世間では風音の中宮と呼ばれていた。
「……なあ。中宮」
「何でしょうか。院」
「若い時みたいに名で呼んでくれないか?」
院御所にてのんびりと過ごしていたら。不意に院--春仁様に言われた。今は他のお妃方や皇子女様方もそれぞれの邸にて暮らしている。夫婦二人で水入らずの時間でいた。
「……春仁様」
「うん。やっぱりいいな」
春仁様はそう言うと私の髪を撫でた。手つきは優しい。すうと風が吹いた。季節は冬真っ盛りだが。
「あ。雪が降ってきましたね」
「そうだな。風香」
久しぶりに名で呼ばれて。驚いて春仁様を見た。今迄にないくらいに穏やかで優しい瞳で彼は見つめている。
「……風香。若い時は俺も傲慢だった。そのせいでお前の気持ちを見落としてしまっていた」
「……春仁様」
「今になってやっとわかった。風香、お前が本気で愛した女だ。俺にとってはな」
私は嬉しくなって気がついたら泣いていた。春仁様はにっこりと笑って涙を袖で拭ってくれた。深々と雪は降るのだった。
二人はこの後も院御所で恙無く過ごした。生涯、添い遂げたと歴史書にはある--。
--完--
この回にて終わりです。お読みいただき、ありがとうございました!