三十五話、登華殿女御として
私が恒仁を生んでから半年が過ぎた。
季節は十月の下旬だ。もう秋も終わりに近づいてきている。後宮に戻ってきてからは穏やかな日々を送っていた。棐宮様と千萱宮様は相変わらず遊びにいらしている。初めての弟宮という事で珍しいようだ。恒仁は生後半年が経ち、這い這いができるようになっていた。そろそろ寝返りも打てるようになるはずだと香屋子姉さんの文にはあったが。どうだろうと思う。そんなこんなで私はほうと息をついたのだった。
夫である春仁様は以前よりも寵愛も深く過保護になっていた。今日も恒仁の様子を見に来ては頬を突いたり抱っこをしてあやしたりしている。今では抱っこをするのも上手くなったように思う。
「……恒仁。大きくなったな」
「……あうー」
春仁様が父君だとわかるのだろうか。しっかり顔を見て言うので微笑ましくはあった。私はくすりと笑いながら詩を書いた。
<我が子は天使よ。
マジでエンジェル。ハル様と並ぶと神々しい。
ああ。神よ。感謝します>
詩というよりただの感想だ。というか、これくらいしか浮かばない。阿呆じゃん。そう思いながらもこっそり紙をくしゃりと丸めた。屑箱に捨てる。今日はただの檀紙という現代の半紙に近いものだから罪悪感は少なくて済んでいた。
「女御。何をしているのだ?」
「……え。ちょっと歌を詠んでいたのですけど。気に入らなくて破ったのです」
「へえ。そうか。なら仕方ないな」
春仁様はすぐに興味を無くして恒仁の相手を続ける。私はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
翌日も棐宮様と千萱宮様はお越しになった。けどお二方の他にいかにも高貴な隴たけた女人がいる。周防や小式部も呆気に取られて驚いていた。何方だろう。そう思っていたらその女人がこちらに笑いかける。
「……初めてお目もじします。わたくしは名を肇子と申します。世間では宣耀殿女御と呼ばれていますわ」
「……あ。初めてお目もじ致します。私は名を風香と申します。登華殿女御と呼ばれています」
合わせて言うと肇子様--宣耀殿様は笑みを深めた。凄く私なんかよりも気品があって奥床しい。高雅というか。宣耀殿様に初めて会うけど負けたと思った。格が違い過ぎるわ。
「ふふっ。宮様方がどうしても登華殿様と会わせたいとおっしゃるので。それで参ったのですけど」
「そうだったのですか。棐宮様や千萱宮様とは仲良くさせていただいています」
「それでしたら良かったですわ。登華殿様は明るい方だと伺いまして。これからも仲良くさせていただけると嬉しいです」
宣耀殿様の言葉に私は棐宮様を見る。にっと笑われたけど。私、頼んでないからね!
「……私はこの通り新参者です。宣耀殿様と仲良くさせていただけるだけでも身に余る光栄です」
「あら。お嫌でしたか?」
「そんな事はないですけど」
私が言うと宣耀殿様は笑顔から真剣な顔に変わった。じっと私を見つめてくる。
「……登華殿様。でしたらお世辞などは無しで言いますわね」
「……わかりました」
「伊勢。それから他の者達も。わたくしと登華殿様以外は退がりなさい」
宣耀殿様が言うと伊勢と呼ばれた女房や他の者達も静かに退出していく。もちろん、宮様方もだ。少し経って二人きりになった。
「……風香様とお呼びしてもいいでしょうか?」
「ええ。構いません」
「風香様。わたくしはあなたを新参者だと馬鹿にする気は微塵もありませんわ。むしろ、後宮にいらして窮屈な思いをなさっているだろうと同情していた程です」
宣耀殿様--肇子様はそう言うと持っていた衵扇をぱらりと広げた。口元を隠してほうと息をつく。
「……あの。宣耀殿様。いえ、肇子様でいいでしょうか。私は後宮には来たくありませんでした。むしろ、破談になっても構わなかったんです」
「……それを外で聞かれたら下手をすると常識を疑われます。けど。それが風香様の本音ですのね」
「そうですね。肇子様はどう思っているんですか?」
「わたくしは。元は内大臣家の出身でしたの。父に勧められて入内しましたけど。あの通り、東宮様は女人にあまり興味がないお方。男御子をと強く求められてもわたくしはなかなか答えられなかった。生まれてくるのは姫宮ばかり。若宮は望めないとわかると父も東宮様も冷たくなりました」
「……肇子様」
私は何と言って慰めたらいいのかと逡巡する。肇子様は泣きそうな顔になった。
「……今は諦めもついて東宮様とは折り合いがつきました。けどできるなら。わたくし、仏門に帰依したいと思っています」
「あの。私が言うのも何ですけど。あまり思い詰め過ぎないでくださいね」
「そうですわね。ありがとう。風香様」
肇子様はにっこりと笑った。後宮に入るのも大変だな。素直にそう思った。
「……風香様。歌を歌うのがお好きだと伺いました。もし良ければ。聴かせていただけますか?」
「……いいですよ」
私は初対面の方ではあるが。肇子様に合う歌を考えてみた。すぐに閃いたのがキリスト教の聖母様を讃えた歌だ。歌詞はないバージョンでメロディーを紡ぐ。肇子様は黙って聴いてくれたのだった。