三十三話、風香と春仁
私がお産を終えてから二ヶ月が過ぎた。
姉さんの娘の馨子ちゃんは生後半年を迎えた。恒仁も生後二ヶ月ですくすくと育っている。後一ヶ月もしたら後宮に戻る予定だ。姉さんとは馨子ちゃんが五歳になるまでは待っていて欲しいと言われたが。後五年かと気が遠くなる。現在は三月の下旬で春真っ盛りだ。馨子ちゃんは元気で姉さんに抱っこされて今日も私の部屋に来ている。
「……馨子ちゃんも大きくなったわねえ。もう生後半年かあ」
「本当にねえ。早いわ」
姉さんと話しながらも馨子ちゃんの頭を撫でた。馨子ちゃんはにっこりと笑う。やっぱりお母さん似だと思った。顔立ちが赤ちゃんながらにも綺麗だし。
「姉さん。恒仁と馨子ちゃん、同い年だったわね」
「そうね。確かにそうだったわ」
「……て事は。春仁様と姉さんもそうなの?」
「ええ。あたしと東宮様は同い年よ。といってもあたしの方が四カ月早いのだけど」
「へえ。そうだったんだ」
頷くと姉さんは苦笑いする。ちょっと困らせてしまったみたいだ。昼間は暖かいせいか、馨子ちゃんが欠伸をした。姉さんはそれに気づく。
「……あら。馨子も眠たいようね。悪いけど。もう退出させてもらうわ」
「うん。わかった。来てくれてありがとう」
「ええ。じゃあね」
姉さんは小さく手を振ってくれた。私も同じようにすると乳母を伴って姉さんは自室に戻っていったのだった。
今は姪っ子にも自由に会えるが。一ヶ月もしたらそれもできなくなる。うう。馨子ちゃんがだいぶ懐いてきてくれるようになったのに!
ていうか、叔母馬鹿街道まっしぐらね。ついでに親馬鹿街道も。だって本当に赤ちゃんって可愛いんだもの。恒仁も起きて泣いている時は憎ったらしくなるけど。寝ている時や笑っている時はマジで天使なのよ。けど姉さんは言っていた。天使な時は今だけだと。すぐにギャングにジョブチェンジするわよと。まあ、恒仁の場合は凄く腕白坊主になる事は間違いないわね。うん。と考えながらも脇息に寄りかかる。ほうと息をついたのだった。
「……風香。どうしたんだ?」
春仁様が声をかけてきた。私はこの日も俳句を作っていた。もう三句程は詠んだろうか。春仁様は興味津々という表情だ。また、以前みたいに取り上げられたら困る。警戒しながらも春仁様の方を向く。
「……どうかしたの。春仁様」
「どうかしたのって。体調は大丈夫そうかと思って来たんだが」
「あ。そうなんだ。恒仁は今は寝ていると乳母の君が言っていたわ」
そう言うと春仁様はふうんと唸る。そして私のすぐ側までやってきた。
「風香。恒仁が寝ているんだったら丁度いい。話があるんだ」
「え。話って?」
「……もしかしたら父上が退位なさるかもしれない。まあ、まだ確かではないんだが」
いきなりの事に私は二の句が継げない。今上様が退位なさるだって?! 嘘でしょ。
「……父上は俺にやっと若宮が誕生したから安堵なさってな。もう潮時だろうとおっしゃっていた」
「……そうなの。今上様はそう仰せだったのね」
「ああ。来年辺りには俺が新しい帝として位に就くだろうな。そうなると空位になっている中宮が誰になるかで揉める事になりそうだ」
中宮という言葉に私は驚きを隠せない。確か、春仁様の母君の梅壺様が中宮でいらしたはずだが。
「あの。中宮は梅壺様がなっておられたはずよね?」
「……梅壺--母上は十年前に儚くなられてな。今は空位になっている」
「……そうなのね。ごめんなさい」
謝ると春仁様は苦笑いした。私の頭を撫でる。もう息子も生まれたのに子供扱いはどうかと思う。仕方なくちょっと胡乱げな眼差しで見つめた。
「ああ。悪い。つい癖でな」
「春仁様。じゃあ、次の中宮は宣耀殿様が選ばれるのかしら」
「……いや。宣耀殿は姫宮しか生まれていない。選ばれる事はないだろう」
春仁様は首を横に振った。だとすると。次の中宮は本当にどなたがなるのか。私は考え込んだ。すると春仁様は頭から手を離した。
「たぶん。風香が選ばれるだろうな」
「え。私が?」
「そうだ。お前は若宮を生んだからな。次期東宮の生母になるわけだし」
当然だとばかりに言われて唖然となった。中宮の座に私が就くって。ちょっと信じられない。
「……風香。今後もお前には頑張ってもらわないといけない。俺の隣にいてくれるな?」
「……そ、それは。隣にはいるけど」
「成る程。ならいい。お前は有力な後ろ盾を持っているし。次期東宮の母にはぴったりだ」
それを言われて複雑になる。春仁様は私の頬を撫でた。甘い雰囲気なんだろうけど。私自身は甘い気分になれない。
「風香。俺はお前を気に入っている。香屋子姫だとちょっと気が強すぎるしな」
「姉さんの悪口は言わないで」
「……わかったよ。そう怒るな」
春仁様って一言多いのよ。姉さん本人が聞いたら怒ると思う。ケンカになる事間違いないわね。
「春仁様。それよりも。恒仁は次期東宮とみなされているのね」
「……ああ。唯一の男御子だしな」
「……春仁様のお妃様って。宣耀殿様と藤壷様もいらしたわね」
「風香と合わせたら三人はいる。後は更衣もな」
「へえ。改めて聞いたら。私は一番新参者ね」
まあそうなるなと春仁様は言った。私はちょっとアンニュイな気分になる。春仁様は私の額に接吻をした。お返しにと抱きついたのだった。