二十八話、風音の君
私は妊娠してからというものの、歌を思い出しては口ずさんでいた。
童謡で季節を感じさせるものが多い。今は七月でもう秋だ。なので学生時代--前世で習った童謡を歌った。
「……秋の夕日に〜♪」
結構有名な歌を口ずさむ。二番目まで歌う。部屋の隅に控えていた周防は不思議そうな顔をしている。それはそうだろう。全く聞いた事がないだろうしこの時代には存在しないものだから。次に某関西圏で作られた歌を口ずさんだ。赤トンボを題材にした歌だが。高音部分はかなり難しい。それでも頑張ってやってみた。残暑はまだまだ厳しいが。こうやって私は毎日を過ごしていたのだった。
妊娠五カ月目くらいにはなっていた。お腹もふっくらとしてきた。姉さんが文で教えてくれた事によると今が安定期らしい。姉さんの場合、もう九カ月だと聞いた。既にお腹が結構張り出していて立ったり座ったりも一苦労だと言っていた。まあ、香屋子姉さんは前世でも妊娠や出産の経験がある。詳しい事を文でよく教えてくれていた。悪阻がひどい時は柑子をたくさん贈ってくれた事もある。柑子は現代の蜜柑より小さく酸味もちょっと強めだ。それでも有り難かった。国によって違ったらしいが。日本の場合、妊婦さんは酸っぱい食べ物を好む傾向が強い。この時代でもそのようだと思った。
「……女御様。歌いっぱなしだと疲れたでしょう。白湯を召し上がりますか?」
「そうするわ。後、柑子もお願いね」
「わかりました。少々お待ちくださいませ」
周防が立ち上がると静かに部屋を出ていく。私は一旦休憩する事にしたのだった。
その後、白湯を飲んで柑子を食べた。小腹がすいていたのでちょうどいい。不意に小式部が慌てた様子でやってくる。
「……女御様。お客様がお越しになりました」
「……え。どなたなの?」
「それが。滝瀬宮様でして」
私は意外な方の名前を聞いて驚いた。滝瀬宮様が私に一体どういう用だろう。不思議に思いながらも返答する。
「……わかった。お通しして」
「……わかりました」
小式部に言うと手をついて立ち上がった。私はさてと居ずまいを正したのだった。
庇の間に行き、御簾の奥に座った。まだ滝瀬宮様は来ていない。助かったと思う。ふと良い香りが鼻腔に届く。衣擦れの音と共に小式部と一人の男性が入ってきた。男性は二藍色の直衣と薄い藍色の指貫という落ち着いた感じの衣装を着ている。顔立ちを見て香屋子姉さんと一緒に行った別邸の男性を思い出した。一回だけじかに対面した事があった。ちょっと垂れ気味の目とぽってりとした唇。確かに滝瀬宮様だと確信した。
宮様は小式部が用意した御座に落ち着くとお辞儀をしてくれる。それも優雅な感じで目を引く。
「……初めてお目にかかります。登華殿女御様」
「……ええ。よく来てくださいました」
「もうお聞き及びとは思いますが。私は滝瀬宮と世間では言われていまして。女御様にもそう呼んでいただければと思います」
「では。そう呼ばせていただきますね」
「そうですね。後、北の方から文を預かってきています。お読みいただきたいのですが」
そう言うと滝瀬宮様は持っていた文箱を床にそっと置いた。御簾の前に控えていた小式部が膝立ちをして取りに行く。文箱を両手で持つと小式部は私のいる所に近づいて御簾の隙間から差しこんだ。受け取ると中に引き入れる。自分の前にまで引き寄せた。
「……わざわざ、ありがとうございます。宮様」
「……それでなんですが。ちょっと人払いをお願いできますか?」
「わかりました。皆、私と宮様以外は退がりなさい」
はっきり言うと小式部や他に控えていた女房達が静かに退出していく。足音も聞こえないくらいになった頃に私は衵扇を閉じた。宮様も足を崩してふうと息をつく。
「あー。かったるい。やっと二人っきりになれたな。史華ちゃん」
「……そうですね。祐介さん」
宮様もとい、祐介さんはニヤッと笑った。そうだった。滝瀬宮様は前世での香屋子姉さん--裕子さんの元旦那さんだったよ。
「史華ちゃん。あの浮気性の捻くれ者をよく射止めたよなあ。感心したぜ」
「え。もしかして。春仁様のことかな?」
「そうだ。しかもお子さんまで授かったんだから。大したもんだ」
私は祐介さんの言葉にすぐには返答ができなかった。驚いていたからだが。祐介さんはどうやら褒めているらしい。
「……褒められるような事は何にもしてないよ」
「……それでもだ。俺からしたら今東宮を骨抜きにしちまっただけでも驚きものだよ。あの男は一筋縄じゃいかんからな」
「はあ」
「……春仁は小さい頃から裕子もとい、香屋子が好きだったんだよ。それこそ初恋だろ。あいつの生みの母親はかつて梅壷中宮と呼ばれていた女性でな。梅壷中宮は君や香屋子のいとこに当たる方だ。顔立ちや性格が香屋子とそっくりだったそうで。香屋子が梅壷中宮の再来だと周りがよく言っていたと聞く。その影響であいつは片想いをするようになった」
「じゃあ。私は姉さんの身代わりとして見なされていたの?」
「それはないだろうよ。春仁もやっとふっ切れたみたいだし」
祐介さんの話を聞いて私は驚きのあまり目を開いた。春仁様はちゃんと私の事を好きでいてくれている。不意に目からぽたりと涙が流れた。祐介さんはすぐに気づいたようだが。黙って好きなだけ泣かせてくれたのだった。