十九話、三日夜
私は翌日も絵に没頭していた。
今日は顔料を使って色付けだ。現代みたいに水彩絵具はない。水をちょっとずつ加えながら顔料を薄めて塗っていく。花瓶は青っぽい色なのでいいけど。お花は萎れてしまっているので想像で補足する。二時間は経ったろうか。やっと絵が描き上がった。手は汚れるし肩も凝ったが。達成感があって良い。
「……女御様。ちょっとよろしいでしょうか」
「……どうしたの?」
私が顔を上げると周防が困った顔で立っていた。どうしたのかと思うが。周防は近くまで来ると一通の文を手渡してきた。紫苑の花に括りつけられた薄紅色のご領紙だ。広げるとこう書いてあった。
<秋が来て紅葉散りてし夕暮れの
君の心は移り変わりて>
一首の歌が達筆な字で書かれている。筆跡から若い男性だとはわかった。意味は「秋が来て夕暮れ刻に紅葉が散っている。あなたの心は誰に移り変わったのだろうか」となる。裏の意味としては「あなたは私に飽きてしまわれたのか。他の誰かを好きなのですか?」となるか。どうやら東宮様のようだ。浮気を疑われているらしい。大変である。これでは不義密通をして処刑ルートまっしぐらだ。何とかして誤解を解かねば。私は仕方ないので自分でお返事を書く事にした。周防に言って用意をしてもらう。筆をとって綴った。
<紅の葉が散りてし秋の宵の刻
我の心は君にやあらむ>
拙い字で一所懸命に歌を詠む。私だけではこれが精一杯だ。意味としては「紅の葉が散っていく秋の宵の刻だが。飽きてしまったなどありえません。私の気持ちは今もあなたにありますよ」となる。東宮様がわかってくれるといいんだけど。そう思いながらご領紙を折り畳んで花の形に結んだ。周防に東宮様へ届けるように言う。彼女が出て行った後、ふうと息をついた。脇息に寄りかかってしばらくぼうっとしていたのだった。
夜になり蔀戸がほとほとと叩く音が聞こえた。周りには誰もいない。キョロキョロと見回して音が聞こえた方を向く。立ち上がって妻戸を自分で開けに行った。すると沈の強い薫衣香がふわりと鼻腔に入る。気がついたら抱きしめられていた。
「……やっと会えた。風香」
「……え」
低く掠れた声だが。私はあまりの事に驚いて動けない。何故、内裏にいるはずの方がここにいるのか。彼は私を抱きしめる力を強くした。
「風香。あなたは罪な人だ。髪を切ったのは私への当てつけか?」
「……あの。長いと動きづらくて。それで切ってしまいました」
「……出家をしたくて切ったのかと思ったが。違うのだね」
そう言うとホッとしたのか腕の力が弱まった。抜け出そうとは思えない。むしろ、久しぶりの体温に体の力が抜けていく。
「春仁様。その。ごめんなさい」
「謝らなくていい。あなたが一風変わった人なのはわかっていたつもりだ」
褒めているのかけなしているのかわからない事を春仁様は言った。でも会えて嬉しいのは確かだ。来た人が春仁様で良かった。
「……風香。香屋子姫はどうしているんだい?」
「……姉さんは滝瀬宮様と一緒にいるはずです。明日で三日夜の儀式をすると聞きました」
「え。三日夜だって?!」
春仁様は意外だったらしく驚いたように目を開いた。私は数日前に鹿ケ谷に行き、滝瀬宮様の別邸に泊まらせてもらった事や姉さんが一夜を過ごした事などを説明する。春仁様は一通り聞くと低く唸った。
「……風香。あなたは自分の立場をわかっているのかな。今は東宮妃という立場だ。もし何かあったらどうするつもりだったんだ」
「だって。後宮にずっといたら息が詰まりそうで。姉さんが前世の夫君を探したいと言ったし。だったら一緒に行こうという話になったんです」
「……そうか。すまない。あなたが肩身の狭い思いをしていたのに。気づかなかったのは私の落ち度だ」
春仁様はそう言うと私の髪を撫でた。背中の真ん中までしかない髪に名残惜しそうにしている。
「でも。春仁様。こちらにいらして大丈夫なんですか?」
「本当はいけないんだが。左の大臣に頼んで手引きしてもらった」
「……そうなんですか。けどこの状態では後宮には戻れませんね」
私が言うと春仁様は苦笑する。髪を撫で続けつつ、額に接吻をした。
「そこのあたりはうまく誤魔化すよ。あなたには早めに戻ってきてもらいたいしね」
「わかりました。せめて後四月くらいは待ってください」
「……そんなに待たないといけないのか」
春仁様はちょっと不服そうだ。私もできるなら早めに戻りたい。けど父上や母上からはしばらく実家にいるように言われているし。弱ったなあ。
「風香。じゃあ、私もしばらくはこちらにいようかな。何、父上には許可をいただいている」
「……はあ」
「とりあえず、寝所に行こうか。久しぶりだから添い寝くらいはさせておくれ」
私は顔に熱が集まるのがわかった。仕方ないので寝所に向かう。春仁様は私の唇にも接吻をすると再び強く抱きしめた。やっと自分がそれに喜んでいるのがわかる。他の男性だったら嫌なはずなのに。戸惑いつつも自分から応えたのだった。