十八話、後朝(きぬぎぬ)
私は自室に戻ると周防達に手伝われながら水干や袴を脱いだ。
女物の衣装に着替えて髢をつけた。しばらくは後宮に戻れそうにない。父上と要相談ではあるわね。とりあえず、三、四ヶ月は実家にいないと。病に罹っているのでとでも理由付けをしてもらおう。そう考えつつも薄くお化粧もしてもらった。
「……女御様。髪がせめて腰の丈になるまでは外出禁止だと殿が仰せです」
「え。だったら東宮様にお会いするのも控えた方がいいかしら」
「それは殿とお話しください。北の方様もひどくお怒りでした」
あちゃあと私は頭を抱えた。これはお説教決定ね。しかも母上も怒っているとは。大きなため息が出た。
あれから姉さんはすぐに滝瀬宮様にお返事を送ったらしい。そういえば、後朝の歌というのは男側の誠意が試されると聞いた。送るのが早ければ早い程良いらしいが。私の場合、東宮様から贈られるはずだったが。手をつけられていないから贈られたことはない。仕方ないといえばそうだけど。ちょっと姉さんが羨ましいと思う。私はごろんと寝転がる。気がついたら眠っていたのだった。
「……女御様。起きてください」
「……ううん。もうちょっと寝かせて」
「何をおっしゃいますやら。姉君から御文が届いていますよ」
「……姉様から?」
「ええ。だから起こしに来たのです」
そう言ったのは周防だ。私は慌てて飛び起きた。今は何時だろう。もう灯明がついていて宵の口くらいにはなっているだろうか。
「……ちょっと。持ってきてくれるかしら」
「わかりました」
周防はそう言って部屋を出ていく。少し経ってから戻ってくる。手には一通の文が握られていた。今の季節らしい萩の花に括り付けられている。ご料紙の色は薄紫色だ。周防から受け取るとご領紙を開く。こう書いてあった。
<秋が来て風に揺れにし萩の花
心はいかにあらざることか>
歌が一首だけ書かれてある。意味は「秋がやって来て風に萩の花は揺れている。それを見る私の心はいかにあるべきか迷っている」という感じだ。私はどうしたものやらと考え込む。正直、和歌は苦手だ。仕方がないので周防に声をかけた。
「……周防。私が詠んでもいいのだけど。代筆を頼んでもいいかしら?」
「……わかりました。わたくしが代わりに歌を御詠みしますね」
「お願いね」
念を押すと周防は苦笑いしながらも頷いてくれた。そして文を書く用意をしてから周防がさらさらと流麗に綴っていった。文を書き終えると私が最終チェックをする。内容はこうだ。
<風が吹き君の訪い知らせると
秋がくるらむ花すすきかな>
姉さんと同じように歌が一首だけ散らし書きしてある。意味としては「風が吹いてあの方の訪いを知らせている。秋が来たようだ。花すすきが見事な事よ」という感じだろうか。裏の意味は「姉様の元に宮様がいらっしゃると聞きました。飽きがこないようにお気をつけくださいませ」となる。おいおいと思った。これでは姉さんに対してのイヤミではないか。でも代筆を頼んだのは私だし。ふうとため息をつく。明日あたりに時間があったら謝りに行こうか。私は何も言わず、ご領紙を折り畳むと紫苑の花を手折らせて送ったのだった。
その後、姉さんからはお返事は来なかった。代わりに滝瀬宮様が鹿ケ谷からわざわざいらしたと聞いた。周防達は大層な美男だと騒いでいたが。私は興味がないので手習いをしている。けどすぐに飽きてしまう。次は何をしようか。思いついたのは絵を描くことだった。絵筆に墨、紙を用意してもらい、部屋に花瓶を置いてと頼んだ。奇妙な顔をされたが。気にせずに持ってきてもらった。じっと見つめながらちょっとずつスケッチをしていく。生けてあるお花も同じようにした。黙々と描いていたらいつの間にか薄暗くなっていた。周防がやってきて灯明をともして部屋を手際よく片付けてくれた。スケッチしていた紙には花瓶らしき物とお花がよれよれの線で描いてある。これは要練習だ。
「……女御様。絵を描くのは良いことですけど。こんを詰め過ぎるのは褒められたことではありません」
「……そうよね。ちょっと描いていたら楽しくて。ついね」
「あら。花瓶とお花をお描きになったのですね。色をつけたら良いかもしれません」
周防はそう言いながら私に微笑んだ。珍しいこともあるなあ。アドバイスをしてくれるとは。普段はこんなことはしないのに。そう思いつつもスケッチ用の紙をくるくると丸めた。周防は紐で括ると棚にしまい込む。
「では。夕餉をお持ちしますね」
「わかった」
「それでは一旦失礼します」
周防が出て行くと私は腕を回した。こきこきと関節が鳴る。やっぱり肩がちょっと凝っているわね。うーんと背伸びもした。するとかなりグキグキと肘などが鳴った。運動しないとダメだわ。そう思って足を前方に伸ばして座る。勢いをつけて上半身を伸ばしてみた。いわゆる柔軟運動だ。両足をおおよそ百八十度開いた。開いた足の方向に上半身を倒してぐっぐっと伸ばしたりもする。胡座をかいて両腕で押したりもしてみた。後はラジオ体操もどきも簡単にする。
「……ふう。だいぶ解れたわ」
一人で呟くともう一回、ぐるぐると腕を回した。やっと凝り固まった筋肉が柔らかくなったようなのでほっとした。すると周防が目を見開いて突っ立っている。どうやら見られたらしい。私は誤魔化すようにほほっとらしくなく笑った。周防はぎこちないながらも持っていたお膳を置く。私はその前に座るとお箸を持って食事を始めた。周防がこちらをじっと見つめていたのは気にしないふりをしたのだった。