祖母の言葉に思う
「髪は女の命だから」
だから丁寧に、綺麗にしておくんだよ。
両親と家に訪ねる度に、祖母がそう言い聞かせてくれたことを、よく覚えている。いつ会いに行ったとしても、必ず祖母は私にそれを教えた。小さな私を自らの膝上に乗せて髪を櫛で梳きながら何度も、さながら版画をバレンで紙に刷るように。当時の私はといえば、自分の髪を整えてもらって、普段はしないような髪型にしてもらうことを無邪気に喜んでいただけだったけれど。
孫に言い聞かせるだけのことはあってか、祖母の髪は綺麗だった。きちんと日頃から手入れをしていたのだろうし、事実その光景を見たことも何度かある。幼い私には分からない道具や薬の類いが、いつも祖母の化粧台には整然と並べられていたし、会った際に祖母の髪が乱れていたことは一度だってなかった。
だから瞼を閉じて冷たくなった祖母の髪もまた、美しいままだった。身体は生を失って、木の壁で囲まれた薄暗い棺の中に横たえられてなお、その命が損なわれることはなかった。それどころか遺影に映るものよりも輝きを増しているとさえ私は思った。喪服に身を包んだ黒の集団が、隣に座る実の親が、誰もが祖母という存在が永遠に奪われた事実を胸に抱いて涙しているのに、ただ私一人がそこに命を見ていた。
棺が炎に包まれて、灰となって姿を現したとき、私は祖母の死を知った。そこにはもう彼女が私に教えてくれた命はなかった。
だからこそ、戸惑いが強かった。
「美玲ってさ、髪長くて綺麗だよね」
「まあ、そうですね。綺麗だと思います」
「あ、自分でいっちゃうんだ」
「他人より気を遣っている自覚はありますから」
少し狭いベッドの上。カーテンの向こうから少し透けている月明りが、私と亜希を照らしている。明日も仕事だからと私が告げた日は、いつもこうして寝る前に少し話す。どちらからともなく、特になにか決めたわけでもなく、そういうことになっていた。顔を向き合わせるかはその時々の気分で違うけれど、今日は私だけ顔を背けている。
「いいよねえ。あたし、癖毛だからなあ」
「亜希さんの髪も、可愛らしくて好きですよ」
「ほんとぉ?」
そういいながら亜希は私の髪に触れた。指先で優しく、傷つけないように。まるで宝石でも扱っているみたいだと、それだけ亜希が大切にしてくれていることが分かる反面、なんだかくすぐったい。そんな私の気を知ってか知らずか、彼女が髪に触れることをやめる気配はなかった。
さわさわ、と。風に吹かれるよりもよほど弱く、でも自分で揺らすのとは違う。そんな動きを背中で感じながら、顔を背けて寝転がった数分前に自分に感謝した。とてもじゃないけど、亜希には見せられない顔をしている。褒められたのは嬉しいけど夜更かしできないのはたしかだった。
「……ねえ、美玲」
「なんですか」
「キスして、いいかな」
「もう眠たいので、今日は……」
「違う、そうじゃなくて」と続けた亜希の言葉を聞いて、私も彼女がしようとしていることを理解する。静かに持ち上げられる後ろ髪。きっと、その隙間から覗いてしまう私のうなじも、亜希の目には映っていない。
彼女の息が、近づけられた髪にかかる。待っているんだ。ふと、そう感じた。言葉はなかったけれど、たしかに亜希は待っていた。私の言葉を、律儀に。
嫌な気分はまるでしなかった。そうやって求められるのは、なんだか小さなものを積み上げているようで、普段の行為とはまた違ったものだから。そういうことをしてくれる亜希のことを、多分私は好きになったのだと思う。
ただ、それだけではなかった。欲しかったものを誕生日プレゼントで親に買ってもらった子どものような、そんな無邪気な喜びだけを噛み締めていたわけでは、なかったのだ。
命を握られている。今、私の命は亜希の手の中にある。
私の命が、撫ぜられ、梳かれ、揺らされ、触れられている。無遠慮に、無作法に、無礼に、無様に、もてあそばれている。
心の底が静まるようだった。泡立ち、沸騰する表層と裏腹に、そこはただただ冷えて動きを止めていく。亡くなった祖母と、彼女の言葉を考えた。祖母もまたこのような気持ちを抱えたのだろうか。あの棺の中にきらめいていた、祖母の命も。燃え尽き失われたそれは。
「——いいですよ」
そう告げた途端に、亜希の手が動いた。ゆっくりと彼女の顔に近づけられた私の命。あまり明確な感触というのはなかった。亜希は私の髪からあっさりと手を放して、おやすみなんて小さく呟く。いっそ、なにもなかったみたいだった。
けれど、知っている。亜希が私の命に触れたこと。彼女の唇に、彼女のからだに、私が命を捧げたこと。うるさい心臓が冷えた血液をばかみたいに送り出している。祖母はこうやって灰になったのだと覚えながら、私はおやすみなさいと返した。
髪にキスする百合っていいよね、という思いだけで書きました