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地球人クスノキマサヒコ。  作者: アキラシンヤ
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サキュバス編

 目を覚ますと、隣に全裸の少女が眠っていた。


 夏の盛りに掛け布団など使っているはずもなく、朝日にくっきり見えるのは文字通りの全裸だ。寝顔は幼いのにやたらとグラマラスで、古い表現を使うならぼんきゅっぼんで、桃色の癖のある長い髪には羊のそれのように丸まったツノがあり、背中からはどう考えても揚力を得られそうにない黒い翼が生えていた。大きな丸いお尻を覗き込んだならきっと黒いしっぽが生えているのだろう。あとつるつるだった。


「……最悪だ」


 このあんまりな状況に思わず言葉が零れ、俺はサッと悪魔っぽい少女の逆隣へ振り返った。


 幸いにもホニャ子は眠っていた。ネコ耳も倒れているし、まだ何も察知していない様子だ。どちらにも気付かれないよう静かに身体を起こし、俺は頭を抱えた。寝汗ではない嫌な汗が早くも噴き出ていた。




 こういう状況――日曜日に知らない女の子が現れるのは、俺にとってはもう当然の現象だ。毎週毎週飽きもせず欠かす事なく女の子は必ず現れる。大学に通う今となっては遠い昔、中学二年の夏以来変えられずにいる現実だ。


 日曜日の少女達は必ずしも人間とは限らない。初めて現れたのは地縛霊だったし、今隣にいるのだっておそらく本物の悪魔だろう。原始人もいたしロシアのスパイもいた。つまり少女という括りであれば何でもありっぽく、そして彼女らにはもう一つ共通点がある。


 それは、誰しもが帰るべき場所を求めていて、俺が協力しなければ解決しないらしい事だ。


 一緒に暮らすようになったホニャ子にしたって例外ではない。ホニャ子は古代人で、こいつの生きていた世界はとっくに滅亡している。トルトポリアという古代兵器の操縦者だったホニャ子は戦争が嫌になり超長期に渡るコールドスリープに入り、例によって日曜の朝に庭から現れ、干していた布団を吹っ飛ばし、今に至る。他の子と違うのは帰るべき場所が俺の家――俺の傍だったというだけだ。


 だが、暑い夜でも同じ布団で眠るような仲なのは確かで、愛しているのも確かで、だからこそ、せくしぃな悪魔っぽい子が隣に寝ているなんて状況は、最悪という他にない。


 当然ながらホニャ子は俺の体質というか、性質を知っている。日曜日の少女達を帰るべき場所へ帰すために協力だってしてくれる。だがそれとこれとは話が別だ。ホニャ子は意外と焼きもち焼きで、また古代兵器トルトポリアは健在だ。もしホニャ子が今目を覚ましたなら。


『悪魔なら地獄に帰るのが筋ですね』


 ごごごごご、と嫉妬の炎を燃やして悪魔っぽい子を無に帰しかねない。


 さて。どうするべきか。


 とりあえず悪魔っぽい子に服を、いやホニャ子を移動させるのが先か。だが待て。ホニャ子は寝覚めがいい。悪魔っぽい子を妹の部屋にでも移したほうがいいか。


「そのほうがいいですね」


 振り向くと身体を起こしたホニャ子と目が合った。ネコ耳がピンと立っている。言い忘れていたが、ホニャ子のネコ耳は俺のこころの声が聞こえている節がある。本人は否定しているが。


「でぇーいッ!」


 かわいそうとか申し訳ないとか、そんな気持ちは一瞬だけだった。


 俺は眠れる悪魔っぽい子を持ち上げ網戸の向こう、庭へと全力で放り投げた。




「さすがに酷いと思います」


「はい、すみませんでした。反省してます」


 布団を畳み、ちゃぶ台を出し、ホニャ子が淹れてくれたお茶を前に正座した俺は、正面に座るホニャ子から説教を受けていた。テンパっていたとはいえ、全裸の少女をぶん投げた俺にホニャ子もドン引きしたらしく、幸か不幸か嫉妬の炎に焼き尽くされる事はなかった。


「謝るべき相手は私ではありません」


 居間の隅に向きを変え、そこでうずくまりシクシクと泣く悪魔っぽい少女に土下座した。


「誠に申し訳ありませんでした」


 本当に反省している。普通の女の子だったら無事では済まなかったはずだ。これは素直に幸いに、地面を数回バウンドした挙句セメントの壁に激突した悪魔っぽい少女は、しかしかすり傷一つなかった。とりあえずホニャ子のワンピースを着ているが、ホニャ子より色々と大きい上、膝を立てて裾をまくり上げるかたちで顔を覆っていて、更にパンツは穿いていないから絶対に正視してはいけない。


「この粗暴な男を許してあげてくれませんか?」


 いつものようにゆっくりと落ち着いたホニャ子の声が耳に痛い。


 もしも今この時だけを誰かに見られたら普段から尻に敷かれているように映るかもしれないが、そんな事はない、はずだ。ホニャ子は暴力をとても嫌う。そういう意味で二重に反省している。


 悪魔っぽい少女がすすっと鼻をすする音が聞こえた。


「……いえ、いいんです。わたし、考え過ぎると急に眠っちゃう癖があって。本当にごめんなさい」


 泣きながら逆に謝られるとかつら過ぎる。勘弁してくれ。ぐすっと鼻をすすり、悪魔っぽい少女は続けた。


「それにわたし、あなたを殺すつもりでしたし」


「――え?」


 俺は思わず顔を上げた。


「今なんと言いましたか」


 ホニャ子は早口に尋ねた。いや、尋ねたのではなかった。答えなど求めていなかった。それは確認で、逆鱗に触れた合図だった。


「悪魔なら地獄に帰るのが筋ですね」


「待てホニャ子早まるなーッ!」


 古代兵器のコントローラーでもあるパーカーのジップを上げようとするホニャ子に飛びかかり、覆い被さるように抑えつけた。




 物理的なダメージを受けないらしい悪魔っぽい少女がどうなるかは分からないが、とりあえず家の半壊は防げた。


 珍しく怒りを露わにし、フーッ、フーッ! と鼻息を荒げつつもホニャ子はどうにか正座を保ってくれている。


 相変わらず居間の隅でだが、ぺたんと腰をついた悪魔っぽい少女から事情を聞いた。


「わたし、サキュバスなんです。でもまだ一人前じゃなくて。今日が本試験で、あなたを……その、殺さなきゃいけないんです。でもわたし、そんな事できなくて。でもやらなきゃだめで。それでその、頭がぐるぐるしてきちゃって」


 そのまま寝てしまったという訳か。悩むと寝てしまうのは現実逃避みたいなものだろうか。おかげで命拾いしたみたいだが、果たして彼女が殺すと決断し、実行に移したところで俺は本当に死んでいただろうか?


 だが今考えるべきはそこではないだろう。


「そうか。で、結局失敗した訳だけど、それでサキュ子はどうするんだ? 試験はまた次回って事になるのか?」


「……サキュ子?」


 終始沈んだ顔をしていたサキュ子が眉をひそめた。


「サキュバスだからサキュ子。異論は認めない」


 これは俺のルールだ。日曜日の少女達には名前がある子もいればそんな概念がない子もいる。名前があっても毎週の事だ、いちいち覚えていられない。だから呼び名は俺が決める。ちなみにホニャ子の本名はホニャ・ララだ。


 サキュ子はしばらく目を泳がせ、俯いた。


「試験は一回きりなんです。なのでその、今日中にあなたを殺さないと……闇に還されちゃうんです」


「そうか。……それは困ったな」


 不穏な言葉に髪を逆立てるホニャ子を手で制し、熱いお茶を口に含んだ。闇に還されるってのは、人間でいうところの死ぬって事なんだろう。なんとか助けてやりたいが、当然ながら殺されてやる訳にはいかない。なかなかへヴィーな案件だ。


 今までのところ少女達を救えなかった事は一度もない。だがそれは必ず救えるという保証にはならない。


 暴走しないよう抱き寄せたホニャ子の頭を後ろから撫でてやると、逆立った髪が落ち着き、ネコ耳だけがピンと立った。


「なあホニャ子、どうしたらいいと思う? 地獄に帰す以外で」


「根本的な質問なのですが」


 ひとまず落ち着いた様子でホニャ子は振り返る。


「そもそも、サキュバスとはなんなのですか?」


「あー」


 ツノ、黒い翼にしっぽ。それらの記号から悪魔だと分かっていても、サキュバスについては知らなかったらしい。 




 サキュバス。夢魔、淫魔とも呼ばれる下級の悪魔。夢に現れて交尾し、男性の精力を枯渇させ死に至らしめるとされている。対象にとって最も魅力的な姿で現れ、そのテクニックはすごいらしい。なお女性の夢に現れるものはインキュバスと呼ばれる。以上、ググペディアより抜粋。


 俺も悪魔に詳しい訳ではなかったので調べてみたのだが、なぜかサキュ子も俺の後ろから覗き込んできて、背中に大きくてやわらかいものが二つ当たっている。


「ほう。クスノキさんはわがままボディがお好みでしたか」


「否定はしないが、理想的な姿というならホニャ子の姿で現れてるはずだ」


 ホニャ子の視線や言葉にトゲはないが、鈍器のような重たさを感じる。まるで平たい板で叩かれているような――いや、決してホニャ子の体型を揶揄したものではない。


「寸胴まな板で悪かったですね!」


「だから悪いなんて言ってないだろう!」


 普段はこんなに怒りっぽくないのだが、やはりサキュ子に苛ついているのか。


「あの、わたしまだちゃんとしたサキュバスではないので……。完璧な姿を取れるような力はないんです。先輩方が大体こういう姿をしているので、それに倣っただけなんです」


「もううちにまな板はいりませんね! 私の身体できゅうり切ればいいです!」


「だーかーらーっ! お前の身体が不満だなんて言ってないだろ! いいかホニャ子、これはバリエーションの問題なんだ。グラビアアイドル見てすげー身体だと思う事はある。ぶっちゃけある。だがそれだけがベストって訳じゃないんだ! みんな違ってみんないい!」


「セクシー路線から合法ロリまでなんでもアリですか! クスノキさん恐ろしい! ご近所の女性のみなさん早く逃げてくださーい!」


「朝から叫ぶなご迷惑だろ! あとそういう意味じゃないからな!? 鑑賞するのと傍にいてほしい人はまったく別! これまでもこれからも愛してるのはお前だけだ!」


「偶然ですね! 私もです!」


 ぎゅー。


「……あの、わたしの話、聞いてました……?」


「うん、ちょっと黙っててくれないか」


 愛を確かめ合うのは、時として何よりも大切な事だ。




 ひとくさりイチャイチャちゅっちゅしてから、サキュ子も交えてちゃぶ台を囲んだ。今度は冷たい麦茶を出してくれた。さっき熱いお茶を出してきたのはやはり怒っていたからみたいだ。


「待たせて悪かった。本題に入ろう。俺は殺されてやる訳にはいかないし、かと言ってサキュ子を闇とやらに還してやりたくもない。何か他に方法はないか?」


 本人の希望で牛乳を飲んでいたサキュ子はため息をついた。


「……ないと思います。その、試験に落ちた話なんて聞いた事もないので……ううぅ。やっぱりわたし、闇に還されちゃうしかないんでしょうか……」


 目を伏せ、涙を滲ませるサキュ子はとても悪魔に見えなかった。禍々しさが感じられず、ひたすらに弱い女の子だった。


 日曜日の少女達について、最も困難なのは帰るべき場所が分からないパターンだと思っていた。だがサキュ子の条件はそれを上回る。帰るべき場所も方法も分かっているのに、実行する訳にはいかない。どんな言葉をかけてやればいいのか俺には分からなかった。


「サキュ子さん。サキュバスは夢に現れると書いてありましたが、ここはクスノキさんの夢なのですか?」


 ホニャ子の質問にサキュ子はちらりと顔を上げ、目を泳がせた。


「夢の中でしか殺せないだけで……、その、文献の方が間違っているのではないでしょうか」


「そうですか。では、クスノキさんを夢の中へ誘い込んだりはできますか?」


「……できないです。それは睡魔の領分ですから」


 睡魔って悪魔なのかよ。


 そう思ったがとても口にできる空気ではなかった。しかしホニャ子が協力的な姿勢になってくれたのはありがたい。あくまで俺を守るのが大前提のようだが。


 しかしどうしたもんだろう。もっと詳しい人に助けを求めたいが、それならそれでまず確認しておかなければならない事がある。


「なあサキュ子、お前って生粋の悪魔なのか? 人間に憑りついてるタイプじゃなくて」


「魔界から来た本物の悪魔です。……いえその、まだ胸を張って本物とは言えないんですけど」


 エクソシストは駄目か。サキュ子自体が消えてしまう。


「じゃあ天使とは仲悪い?」


「仲が悪いというか、会ったらまず消されちゃいます。……天使の知り合いがいるんですか?」


「一応な。今もこの世界にいるかは分からんが。あー、そんな怯えなくてもいいって。呼んだりしないから」


 天使という言葉を出してからサキュ子は明らかに動揺していた。やっぱ天使と悪魔って仲悪いんだな。同じような業界って意味なら詳しそうな部類ではあるんだが、根本的に敵対しているとなると助けてもらえそうにない。


 もっと近いところでそれこそ悪魔もいるんだが、できればあいつとは関わりたくないし。


「どうしたもんかな。ところでホニャ子、何調べてるんだ」


 さっきからずっとスマホをぽちぽちしている。まさかゲームをやっている訳でもないだろう。


「サキュバスを追い払うには、寝室に牛乳を置いておくといいそうです」


「おいやめろ弱点を探すんじゃない。つーか牛乳なら普通に飲んでるじゃないか」


 なんだったらもう飲み干してるし、そもそもサキュ子が牛乳を注文していた。


「念には念を入れて念のためです。この世界の情報は当てになりませんね」


 ……駄目だ、今回ばかりは協力してくれるつもりなどないらしい。


 もっとも当然といえば当然ではある。俺とサキュ子を天秤にかければホニャ子は絶対に俺を選ぶ。もし俺より早くホニャ子が目を覚ましていたら、サキュ子は地中なり海中なりに沈められていたかもしれない。


 逆もまた然りだ。ホニャ子と誰かの命が天秤にかけられたら、俺だって一切躊躇わずホニャ子を選ぶ。


「あの、わたしが言うのもなんですけど、サキュバスに弱点はありませんよ? ……天使とかは別ですけど」


 サキュ子もサキュ子でホニャ子を警戒しているようだ。これはまあ、仕方ない。


「お前を追い払おうとしてる訳じゃないから安心してくれ。それよりサキュ子、さっきから闇に還されるって言ってるよな。誰に還されるんだ? そいつと話し合えたらいいんだが」


 しばらく悩むように視線を泳がせたあと、サキュ子は顔を上げた。


「……深い森でなら召喚しても怒られないかもしれません。でもあの、お仕事中なので来てくれないかもですが」


「決まりだな。涼しいうちに行っとくか」


 やってみなけりゃ分からないならやるしかない。立ち上がるとホニャ子も一緒に立ち上がった。


「朝食は食べていってくださいね」




 後ろにサキュ子を乗せ、山へ向かってバイクを走らせた。例によりとある日曜日、浴槽に現れた人魚を海へ帰すために買ったものだ。ツノがあるからヘルメットは無理だろうと思ったが、なんの事もない、サキュ子は当たり前のようにツノを収めた。思えばワンピースを着せた時から翼も消えている。どういう理屈かさっぱり分からないが、まあよくある事だ。


 必要以上に密着し、マシュマロというよりむしろプリンのようなおっぱいが背中にずっと当たっていたが、これもまた二人乗りをする以上仕方のない事だろう。


 家事がありますから、とホニャ子は家に残った。もっとも、付いていくと言ったって断るつもりだったから構わない。これから呼び出す予定なのは悪魔だ。善良にして安全な相手とは言い難い。経験上、悪魔や天使の類には物理的に敵わない。トルトポリアを操れるとはいえ、俺が守れないなら巻き込む訳にはいかない。


 人の手で開いた土地では意味がない。適当なところでバイクを降り、藪をかき分け進んでいく。涼しいうちとはいえ夏は夏だ、やはり暑い。なぜこんな時に山に潜っているのか、そんな思いが汗と共に滲む。


 行けども行けども開けた土地など見当たらない。そんな中、サキュ子が尋ねてきた。暑さ寒さにも耐性があるようで、その声に疲労の色は感じられなかった。


「あの、ずっと気になってたんですけど」


「ああ、なんだ」


「どうしてわたしを助けようなんて思うんですか? わたしはその……あなたを殺そうとしたのに。悪魔なのに、驚きもしませんでしたし」


 そういえば説明していなかった。毎週の事だからいちいち説明なんてしてないが、サキュ子の場合事情が事情だ。おまけに天使と知り合いなのも話している。


「簡単に言えば慣れてるからだよ。悪魔にじゃなくて、特殊な関わりにな。毎週誰かが俺に助けを求めてくる。だからその子を助ける。それだけだ」


 かなり端折った。正直、当てもなく山に潜ったのを後悔している。自然に開けた土地なんてあるのか? なくないか? 


「……分かりません。別に無視したっていいじゃないですか」


「そうだな。誰が来ようと俺には関係ない。お前だけじゃないが、マジで死ぬかもって時もあるしな」


 スパイの子の時はマジでやばかった。三人の男に銃を向けられてよく生き延びたもんだ。


「日曜は予定も入れられねえし、この体質っつーか性質のせいで妹もオカンも俺から避難しちまった。おまけにご近所からはとんでもねえ不良扱いだ。ああ。困ったもんだ」


 もう慣れちまってたが、失ったもんもでかいな。


「だったら――」


「だけど無視する訳にもいかねえだろ」


 サキュ子の言葉を遮り、とっくの昔の決断を伝える。


「助けを求めてやってくるんだ。毎週、必ず。無視し続けたらどうなる? 俺は後悔し続ける。あの時本気で助けてやればよかったって、そんなのがずっと続いちまうなんて耐えられねえ。だから助けるしかねえんだよ」


 この蒸し暑い山道の先に何もなくたって、また別の方法を考えるしかない。助けないなんて選択肢は、初めからない。


「……あなたは、優しいんですね」


 突然、後ろからサキュ子が抱きついてきた。


「やめろ暑苦しい」


 腕を振りほどこうとした。自分で言うのもなんだが腕力には自信があるつもりだった。しかしやはり悪魔だからか、抵抗の甲斐なく押し倒されてしまった。


「もっと素直に、性欲に従順な人ならよかったのに」


 強引に仰向けにされ、馬乗りに乗っかってきたサキュ子は悲しそうに笑っていて、俺はすぐに理解した。


 どうやら、いや、やはり騙されていたらしい。


「知ってましたか? 悪魔に殺された人間の魂は、悪魔に生まれ変わるんです」


 知ってるよそれぐらい。


 単純な力ではなく抵抗する力を奪われたようで、簡単に組み伏せられてしまった。今回は生き延びられるだろうか。こいつに俺を殺せるだろうか。殺せたとして、後悔したりしないだろうか――赤く光る瞳を見つめながらそんな事を考えていた、はずだ。


 サキュ子のやわらかい唇が俺の唇に触れた瞬間、甘過ぎる痺れが全身を駆け巡った。




 世界が、一変した。目の前の少女に集約されていた。


 思うともなく本能的に、俺は少女を抱き寄せようとした。やわらかな身体を抱きしめようとした。官能的な唇の蜜の味を確かめようとした。


 しかし――




 息苦しい。何かに締めつけられている。


 目を開けば、土でできた巨大な手に掴まれ、俺は宙に浮かされていた。この手……見覚えがある。トルトポリアの腕だ。


「ホニャ子、いるのか? 一体何がどうなってるんだ」


「ここにいますよ」


 長大な腕がぐにゃりと曲がり向きを変えた。そこにはネコ耳フードの付いたパーカーのジップを上まで上げた、トルトポリア操縦状態のホニャ子がいた。


「悪魔に誘惑されて付いていくなんて、あんまりにもベタ過ぎるとは思いませんか」


「誘惑された覚えはないんだが、確かに罠に掛かったっぽいな」


 確かにというか、やはりというか。――あれ、前にも同じような事を思わなかったか? 考えていたらまた腕の向きを変えられ、そこには同じように巨大な土の手で握られ吊るされたサキュ子がいた。


「あの、わたしは握り潰されたって死にませんよ?」


「それはつらいですね。地の底まで引きずり込まれるのと宇宙まで放り捨てられるの、どちらがお好みですか」


「えええええっ!? どっちも勘弁してくださいごめんなさい!」


「図々しい雌猫ですね。誰の命を狙い誰を敵に回したか、思い知らさないといけません。両方ともいっときますか」


 サキュ子の顔からみるみる血の気が引いていく。珍しくホニャ子が激怒している。……まずい、今なら本気でやりかねない。


「ホニャ子、やめてやってくれ。あいつには俺を殺すしか方法が見えてない。誘い出して俺を殺そうとするのも仕方ないっちゃ仕方ないんだ。ターゲットの俺が他の方法を探そうったって信じられる訳がない。そうだろ」


「サキュバスの誘いにホイホイ付いていったくせに随分な物言いですね。私が尾けてなければ死んでたの分かってますか?」


「分かってる。なんだったらお前が助けに来てくれるまで分かってたよ。こんな事にならないのが一番だったんだが残念――って、ぐはっ!? ホニャ子締まってる締まってる!」


「締まっているのではなく締めているのです。クスノキさんにも怒ってるんですよ」


「ギブギブ! 折れる折れる! ホニャ子ごめんほんとごめん!」


 当たり前だが本気で俺を握り潰すつもりなどなかったようで、ホニャ子はトルトポリアの手から俺を解放してくれた。悪魔の、それもサキュバスの誘いに乗ったのだ、いくらかの罰は覚悟していた。まさかここまでやられるとは思わなかったが。




「それで、あの悪魔はどうするんです?」


 怒りをぶつけるでなく説教を始めるでなく、トルトポリアの手に握られたサキュ子を見ながらホニャ子は静かに尋ねてきた。


「そんなの決まってるだろ」


 節々が痛む身体を軽く動かしながら当然の答えを返す。


「助ける。もちろん俺が殺される以外の方法でな」


 騙されているかもしれないと思い、やっぱり騙されたって、俺に助ける以外の選択肢はない。


 本当のところを言えば、初めから助ける方法は知っていた。初めからこの手を使わなかったサキュ子が嘘をついていないと信じたかったからに過ぎない。


「具体的にどうするんでしょう」


「サキュ子とはまた別の悪魔のところへ連れていく。……あんまり気は進まないけどな」




 目的の小屋が同じ山、それもすく近くにあったのは偶然ではない。


 あの悪魔はどこの森にもいる。あの悪魔にとってすべての森は繋がっている。ひと気のない森の中で名を呼べば、いつでも小屋は現れる。見た目は普通のログハウスだ。


 小屋に着いてようやく、サキュ子はトルトポリアの手から解放された。うずくまったがすぐに立ち上がり、しかし何も言わなかった。生気を失くしたような顔をしているのは俺を殺せないと確信したからだろうか。サキュバスの性質上、ホニャ子を眠らせる事はできないのだろう。もっとも厳密には人間ではないホニャ子が、悪魔の術中に嵌るかどうかも分からないのだが。


「この中の悪魔は危険ではないのですか?」


「人を殺すようなタイプじゃないから大丈夫だ。……ただ、厄介なやつだから刺激はしないでくれ。トルトポリアで対処できる相手じゃない」 


「核兵器より危険なのですね」


「あいつがその気になればな」


 ホニャ子には外で待っていてほしいが、聞き入れてはくれないだろう。




 扉を開けると、以前とは違い雑貨屋のようになっていた。ログハウスの内観に合わせたのかそれとも趣味なのか、主に木を使った素朴な物が並んでいる。中には「本物」も紛れ込んでいるのか、暖かみのある照明に合わない輝きをした宝石もいくつかある。


 だが、いるべきやつが見当たらない。


「クスノキだ。どこに隠れてる」


「教えないよ~」


 明らかにカウンターから聞こえた。うざい。早くもうざい。


「つまらねえ遊びに付き合ってやる気分じゃねえ。さっさと出てこい」


 しばらくの沈黙を挟み、今度は天井から声が聞こえてきた。


「そっか~。両手に花なのか~」


「一人はお前と同類だ。いいから早く出てこい」


 話が合わないのはいつもの事だ。人の話をまともに聞くようなやつじゃない。


「あっ、いらっしゃいませ~。ゆっくり見ていってくださいね~」


 今度は頭の中に直接声が響いた。今更かよ。忘れてたっぽいな。


「変わった悪魔ですね」


 そう言ったホニャ子の耳は忙しなく動いていた。探しているようだが無駄だろう。どこにいるのかすらあいつの気分次第だ。どこにもいないパターンだってあり得るかもしれない。まあ、見つける必要もないか。俺はサキュ子の手首を掴み、高く上げた。


「頼みがある。こいつはサキュバスになるために俺を殺さなきゃいけないらしい。しかも今日中に殺らなきゃ暗闇に還されてしまうらしくてな。なんとかしてくれ」


「ちびリンゴのネックレスおすすめですよ~」


「人の話を聞けッ!」


「お耳のお嬢ちゃんには~、うさぎのしっぽがおすすめですよ~」


 駄目だ、埒が明かない。厄介過ぎる。前は天使の子がいたからそれなりに早く話が進んだが、それでも相当な時間と労力を使った訳だが、今回は諦めたサキュバス見習いだ。さっきから一言も話さないし役に立ちそうにない。


「クスノキさん、似合いますか」


「うん?」


 見れば、いつのまにかホニャ子がパーカーのおしり辺りにうさぎのしっぽをくっ付けていた。


「……お前、よく悪魔の作った物を平気でさわれるな」


「本物のうさぎのしっぽなら無理ですが、これはフェイクなので。似合ってますか?」


「とってもよくお似合いですよ~。私も付けちゃおっかな~」


「慣れてないから違和感あるけど、似合ってるよ」


 ネコ耳だと思っている俺からするとネコうさはどっちらけた感じがする。だが悪くはない。


 それにしてもなぜ雑貨屋に遊びに来たみたいになってるんだ。


「あの、これ付けてみたんですけど、似合ってますか……?」 


「人生諦めてたサキュ子まで!?」


 小さなりんごを模した赤い宝石のネックレスを身に付けていた。胸の谷間に赤い果実、やけにエロい。うん? なんか既視感が。


「値札がありませんね。おいくらなのでしょう」


「うさぎのしっぽはいちおくまんえんだよ~」


「バカの代名詞みたいな値付けしてんじゃねえ」


 そもそも悪魔が日本円手に入れてどうするんだ。焼くぐらいしか使い道ねえだろ。


「お高いですが、運よく店員さんがいません。勝手に持って帰ってしまいましょう」


「えっ! それはだめだよ~!」


 勢いよく扉が開き、慌てた様子でうざい悪魔――エシュが外から入ってきた。サキュ子は驚いていたようだったが、俺にとっては余裕で想定の範囲内だった。なぜか白のビキニに緑や黄色のパレオを巻いている。珍妙な格好だが間違いなくエシュだ。俺より背が高い女などそうはいないし、エシュの顔を見間違えるはずもない。


 うさぎのしっぽを棚に戻しつつ、ホニャ子は言った。


「見つけました。かくれんぼはこれで終わりでいいですか」


「えっ」


 ちょっと意味が分からない。そんな顔をしてエシュは固まった。俺も意味が分からなかったが、理屈が分かると感心した。


「すごいぞホニャ子、やったな!」


「ふふふ。古代人を舐めてはいけませんよ」


 イェーイとハイタッチをして、ようやくエシュは気付いたようで、楽しそうに笑った。


「そっか~。かくれんぼだったのか~」


「忘れてたのかよ!」


 珍しくホニャ子とツッコミがハモった。忘れるか普通? 雑貨屋ごっこをしてたら俺に呼ばれたから、かくれんぼする事にした……そんなところだろうか。天然ってレベルじゃねえな。


「クスノキくんお久しぶり~。おっきくなったね~」


 いきなり抱きつかれ、サキュ子を上回る巨乳に顔が埋まった。ゆっくりした喋り方のくせに挙動が無駄に速い。かろうじて動く目で見れば、ホニャ子の目がめらめらと燃えているように見えた。


「離れろ暑苦しい!」


 命の危機を感じ全力で引き離した。悪気がないだけに厄介だ。


「ほんとにおっきくなったね~。いい子いい子」


 頭を撫でようとしたのか、伸ばしてきた手を払いのける。


「遊びに来た訳じゃねえんだ。俺の話聞いてたか?」


「くすのきくんちにまな板はいらない話?」


「戻り過ぎだ! いるから! 絶対にまな板必要だから!」


 チラッと横目に見てみれば、ホニャ子が胸をまな板代わりにきゅうりを切るジェスチャーをしていた。トントントンなんてものではなくトトトトトトッ! とかなり速い。……やばいな、精神的ダメージが蓄積されている。まさに悪魔の所業。


 もう一度、ゆっくりと、今に至る状況を説明した。


「そうなのか~。サキュバスって大変なんだね~」


 うんうん、と頷いてエシュは屈み込み、サキュ子の頭を撫でた。ようやくまともな意思疎通ができたらしい。


 解決できるか、なんて尋ねない。エシュにできない事などおそらくない。


「ねえねえ、サキュバスちゃんはどうしたいのかな?」


「……どうしたいとは、その、どういう意味ですか?」


 エシュはサキュ子の頬を撫でた。境遇に同情したのだろうか。いや、そんなはずはない。エシュに限って同情などあり得ない。


「サキュバスちゃんに夢はあるかな。こんな自分になりたいとか、こんなふうに生きてみたいとか。無理だと思う事でもいいよ。お姉さんに教えて?」


「わたしの……夢」


 二人の会話に、覚えのない記憶を思い出していた。オレンジ色の夕暮れ、地平線の果てまで続く麦畑の交差点、ヒーローになりたいと願った男の後ろ姿。複雑に色混じる思いが湧き、俺は頭を横に振った。


 ――大丈夫だ。こんな人生だって、なかなかいいもんだ。


 サキュ子は悩んでいるようだった。目を伏せて押し黙っていた。気持ちは分かる。今の今まで、もしかしたら今だって、彼女は生きるのを諦めていた。限りなく暗闇の底に近いところにいるのにいきなり光を灯されたって、まずは眩しさに目が眩む。……俺なら何を望むだろう。決してエシュに願ったりしないが、仮に考えてみても答えは見当たらない。


「わたしは」


 突然のサキュ子の声は、何かが弾けたようだった。


「サキュバスなんかになりたくない。人を殺して生き続けるような悪魔になんてなりたくない。ただ人を殺すだけの存在のためにたくさんの魂を奪わなきゃいけないなんていや。絶対にいや」


 サキュ子はうずくまり、顔を手で覆った。


「……誰でもいい、誰かに喜ばれる存在になりたい。ううん、喜ばれなくたっていい。誰かの役に立てる存在に生まれたかった」


 嗚咽を洩らすサキュ子をエシュはぎゅっと抱きしめた。悪魔でありながら、まるで聖母のような笑みを浮かべていた。


「うん、分かった。だからもう、泣かなくていいんだよ」


 そう言ってエシュは立ち上がり、サキュ子の頭に優しく手を置いた。


「あなたの運命、変えてあげる」




 ――その、直後だった。


 雑貨屋のような小屋は一瞬にして消え去り、鮮烈なオレンジの光に目が眩んだ。目が慣れると夕陽に照らされた麦畑がどこまでも広がっていた。しかし足元に麦はなく、土の道がまっすぐ続き、別の道と直角に交わっている。




「……これは」


 ホニャ子がぎゅっと手を繋いできた。今まで見た事がないほど動揺していた。無理もない、ホニャ子のいた古代文明は科学の行き着く先だった。


「交差点の悪魔――エシュの領域だ。あいつは運命を調整する悪魔なんだよ」


 この光景を見るのは初めてではないが、それでも刷り込まれた恐怖のせいか、俺の声は僅かに震えていた。


 交差点の真ん中に立つエシュの目は血のように赤く発光していた。


「サキュバスちゃん、ううん。エルシド・ク・リト・リトアちゃん。あなたの願いは誰かの役に立つ存在になる事。それでいい?」


「はい。お願いします」


 サキュ子は跪いたまますぐに答えた。これもエシュの力だ、契約者を操っている。こいつが悪魔である事を忘れてはいけない。悪魔との契約には当然、代償がある。


 エシュはにっこりと笑った。


「運命を司る神の名の下に、エルシド・ク・リト・リトアの歯車を調整する」


 ぶわり、と麦畑が交差点のエシュに穂を下げた。


「これで契約しゅうりょ~」


 またも一瞬にして、今度は視界が暗くなった。元の小屋に戻っていた。


 俺とホニャ子の手は繋いだままで、いつのまにかエシュはカウンターにいて、サキュ子は何が起こったか分かっていないようだった。ヤギのようなツノをにゅっと伸ばし、ワンピースの下から伸びたしっぽに触れていた。


 あれ? 何も変わってなくないか?


「あの、クスノキさん、ちょっとキスさせてもらっても」


「殴りますよ」


 二人のやり取りをエシュは楽しそうに眺めていた。




「じゃじゃ~ん。エルシドちゃんは私の使い魔になりました~!」


 突然エシュがはしゃぎはじめた。


「は?」


 何を言ってるのか分からなかった。エルシドちゃんというのはサキュ子の真名だろう。サキュ子は誰かの役に立てる存在を望んだはずだ。


「お前の使い魔になって誰の役に立つんだ? 人前に出てくる事なんてほぼないだろ」


 使命や存在理由に縛られないエシュに、普通に生きていて出会う事はまずない。俺はエシュの呼び出し方を知っているが、そんな例外はほとんどいないだろう。


 にっこりと笑い、エシュはバンザイするように両手を上げた。


「私の役に立ってもらうんだよ~! 一緒に買い物行ったり~、スィーツ食べたりするの~!」


 そのままエシュはぴょんぴょん踊り始めた。すごく嬉しそうだ。


「……もしかしてお前、友達いないのか?」


「いるよ~? クスノキくんとか~」


 まず俺が出てきた時点でもうやばい。あとはもうお察しだ。


「ほら! エルシドちゃんも一緒に踊ろう!」


「えっ。あ、はい……」


 陽気な音楽が流れ始め、サキュ子も見よう見まねで踊り始めた。


「なんだこれ」


 率直な感想を口にすると、ホニャ子がちょいちょいと腕を引っ張ってきた。


「クスノキさん。もしかしてですが、エシュさんに頼めばどんな難題もす解決できるのでは?」


「そうはいかないな。ああ見えてエシュは神格の悪魔だ。どんな願いも叶えられるが、死んだら魂を持っていかれる。それに願った内容が本当に当人を幸福にできるかはまた別の話だ」


 前者は死後の話だしどうでもいいと思う人もいるかもしれないが、後者はかなり重要だ。願った内容の不備を利用し、望んだ幸福に至れないまま魂を奪うのがエシュの本質だ。


 ――これに関して、俺は身を持って知っている。  


「なるほど。サキュ子さんは初めから悪魔だったから問題ない、という事ですね」


「まあ、そういう事だ」


「残念です。私も理想のボディになれるかと思ったのですが」


「安心しろ。ホニャ子の全部が俺の理想だ」


 ぎゅー。


 愛を確かめ合う事は、いつだって何よりも大切だ。




「あの、本当にありがとうございました」


 俺とホニャ子が帰る時、小屋の外でサキュ子は深々と頭を下げた。彼女はこれからエシュの使い魔として生きていく。より正しくは、遊び友達として。エシュの面倒さ、今回は見せなかった非情さはこれから知っていく事になるだろうが、少なくとも暗闇へ還る事はなくなった。


 サキュ子の件はこれで解決したと言っていいだろう。帰るべき場所がよりにもよってエシュの小屋とは思わなかったが、サキュ子に何ができる訳でもないし、こうするしかなかったと思う。今回はエシュに借りができたという事にしておこう。


「クスノキくんもホニャ子ちゃんも、また一緒に遊ぼうね~」


 サキュ子を後ろから抱きしめながら、屈託のない笑顔でエシュは言った。


「二度と来ねえよ。サキュ子、元気でな」


 わしゃわしゃとピンクの髪を撫で回し、ホニャ子はぺこりと頭を下げた。なぜか小屋の外に置かれていた俺のバイクに乗り込み、俺達は山を下りた。背中に密着するホニャ子の身体はいつも通りで、なんだかとても安心感があった。時刻はまだ昼過ぎ。どこかに寄ってもいい時間だが、ホニャ子の手料理が食べたい気分だ。




「クスノキさん、いくつか聞きたい事があるのですが」


 家に帰り着き居間でお茶を飲んでいると、台所からホニャ子が尋ねてきた。尋ねてくるだろうと思っていた。もし何も言ってこなかったら俺から説明するつもりだった。


「ああ、分かってる。ちょっと長い話になる。食べながら話そう」


「そうしましょう」


 余談だが、ホニャ子が電子レンジを使うと必ず「黒いカタマリ」ができる。それはどんな材料を使っても同じで、また同じ材料を違ってもカレー味だったりうどん味だったりと違う味がする。なぜそうなるのかは俺もホニャ子も未だに分かっていない。ただし今日はそうめんを茹でてくれたようで、氷と缶詰のオレンジの乗った涼しげなそうめんがちゃぶ台に置かれた。


「いただきます」


「いただきます」


 うまいな。ありがとうございます。そんな会話を挟みつつ、しばらくは黙々と食べていたが、尋ねてきた手前だろう、ホニャ子から話に入った。


「山の中で見つけた時、お二人は眠っていました」


 冷たいそうめんを喉に流し込んだ。トルトポリアで助けてもらった時だ。


「そうか。俺だけじゃなく、サキュ子もか」


「はい。今朝方彼女がこの家に来た時も、彼女は眠っていましたね」


「ああ、そうだったな」


 ホニャ子もまた、そうめんをつるつるとすすった。


「一日のうちに夢の中でクスノキさんを殺さなければならないとすると、彼女はきっと日付が変わった頃から傍にいたのでしょう。一日の終わり、夜眠ったあとに狙うより、昨晩から今朝にかけての方がずっと長いですから」


「そうだな。日曜に誰か来るのを知ってる手前、日付が変わる前には寝てるもんな」 


 単純な計算だ。大体、起きて姿を見られたら、傍にホニャ子がいる限りサキュ子の試験は失敗したに等しい。日付が変わるまで俺が眠らなければいいだけだ。強制的に眠らせる隠し技もあったが、ホニャ子がいては意味がない。


「一晩中、ずっと悩んでたんだろうな。それでも俺を殺せなかった。優しい子で助かった」


「本当にそれだけなのでしょうか」


 カラン、と氷が転がり音を立てた。


「自分の存在を犠牲にしてでもクスノキさんを殺せないとは、どうしても思えないのです」


 二人とも箸が止まっていた。まるで時間が止まったかのようだった。


 ホニャ子の疑問はもっともだ。日曜の少女達が必ず訪れるのはすべて偶然だ。俺にとって必然であっても、彼女らと俺は常に初対面、見ず知らずの相手だ。もちろん、サキュ子だって例外ではない。


 いくら優しくたって、自分の命と天秤にかけてまで、見ず知らずの人間を、殺せないなんて事があるだろうか。


 これからずっとそんな生き方が続くとして、殺すぐらいなら死んだ方がマシだなんて、本当に思えるだろうか。


「分からない」


 サキュ子が森に行くと言い出した時から考えていたが、未だに答えは分からない。


「ただ、一つ心当たりがある。もしかしたらまったく見当違いかもしれないが」


 それは俺の体質というか性質――


 或いは、運命の歯車が回り始めた時からの話だ。




 前述の通り、中学二年の夏以降、俺の運命は劇的に変わった。自分の時間が一週間から一日減り、妹と母親が俺から避難していった。俺の性質ゆえに避難するとの書置きが残されていた。奇しくも日曜の昼前だったのをよく覚えている。このちゃぶ台にそれは置かれていた。


 ああ、そうだ。二人が俺から逃げていった。俺が追い出された訳じゃない。でなきゃ学生の身分でこんな広い家住めないよな。ボロくはあるが気に入ってる。俺が生まれてこれまで育ってきた家だ。


 二人がどの辺りに住んでるのかは大体見当が付いてる。でも探そうとか、会いたいとは思わないな。妹はちょっと心配だが、母親とはもう縁が切れてる気がする。昔からよく言われてたんだ、あんたは親父とよく似てるってな。俺は親父の事をほとんど覚えてないんだが、いい意味でそう言われてる訳じゃない事は分かってた。


 ……そうだな、要点から話そう。


 俺の体質っつーか性質の原因は、親父がエシュに願ったからだ。


 これはエシュがそう言っていたから間違いない。


 ああ、もちろん俺にこんな人生を歩むよう願った訳じゃない。エシュが言うにはヒーローになりたいと願ったらしい。……笑っちまうよな、結婚して子どもも二人いる大の大人が何言ってんだって感じだ。はっきり言って馬鹿だ。ホニャ子も遠慮せず馬鹿にしていい。俺が許す。なんたって悪魔に願っちまうような真性の馬鹿野郎だ。


 厳密に、どんな言葉で願ったのかは知らない。エシュに聞けば分かるだろうが今更どうだっていい。現実として親父はヒーローになったんだろう。どこの世界で誰を救ってるのか知らないが、少なくとも日曜日だけの俺よりもっとずっと長いスパンで、ヒーローをやってるんだろう。今も生きてたらの話だが。


 ああ。俺は生きてると思ってる。というか、間違いなく生きてる。でなきゃ説明が付かない。


 中二の夏休みからだから――五年ぐらいか。週に換算して大体で五二かける五年、日曜日は二五〇回ぐらいか。すぐ片付くような時もあったしマジで死にそうな時もあった。解決法が分からなくて途方に暮れる事もよくあった。……そうだな、ホニャ子の時もそうだった。何しろとっくの昔に文明が滅んでたんだからな。


 とにかくこの二五〇回、俺は一度も失敗せずに今も生きてる。


 おかしいと思わないか? 何回かは失敗してても不思議じゃない。解決法が分からないまま帰るべき場所に帰せない事だってあるはずだ。訓練された大人三人に銃を向けられて生き延びられるか? 町を火の海にしちまうようなやつになんで勝てた?


 もちろんその場その場で全力を尽くした。命の危機に晒されて平気でいられるほど俺はタフじゃない。ない知恵を使って時には力押しで頑張った。だからこそ今があると思ってる。もし頑張ってこなかったらそれこそ死んでてもおかしくない。


 だが俺は生きてる。今週はちょいとへヴィーだったが、ホニャ子のお陰で生き延びた。


 そんな時、ふと思うんだ。さっと頭をよぎるんだ。


 もしかしたら俺は、失敗しないんじゃないか――、ってな。


 ベストを尽くし続ける限り失敗しないような気がする。根拠なんてない、証明しようとも思わない。だが、俺の体質というか性質のようなものがもし親父がヒーローになりたいと願った事に関係があるとしたら、いや、そうじゃなきゃ一度たりとも失敗していない説明が付かない。


 俺の運命にもエシュの調整が入っているとしか考えられない。


 今でこそ悪い事ばかりじゃないと思えてる。誰かを救えるっていうのはなんだかんだで気分のいいもんだ。何よりこうしてホニャ子と出逢えた。それだけで俺の運命はプラスになってると言い切れる。


 だけどな、もっと先の話――俺が父親になるような時が来たら、こんな運命を引き継がせたくはない。


 まともな社会人になれるとも思えないしな。


 だから俺はいつか、それもそう遠くないうちに、エシュに調整された運命から外れなきゃいけない。


 方法は分からない。最悪、エシュに願うしかないのかもしれない。だが必ずなんとかする。なんとか方法を探して、なんとかする。ああ、今は何も掴めてない。それでもなんとかしなくちゃいけない。


 だったら、やるしかないだろ。




「……そうですか」


 氷で薄まったつゆをホニャ子は少し口に含んだ。


 しばらくは何も言わなかった。俺はぐびりと冷たい麦茶を飲み干した。


「エシュさんに初めて会ったのはいつなんですか」


「天使の子の時だから去年の一〇月だ。月の初めだったが、何日だったかな」


「私には、エシュさんがそんなに悪い人には見えなかったのですが」


「あいつは人間じゃない。人として見ればただ強力な馬鹿かもしれないが、存在理由が根底から違う。運命を調整する悪魔として当然の事をしてるだけなんだ」


「どうしてもっと早く私に教えてくれなかったのですか?」


 ……返す言葉が見つからない。


 本来であればエシュや俺の運命の調整について、ホニャ子には知られたくなかった。俺とホニャ子の出逢いが濁る気がした。何も掴めてはいないが、それでも出逢わない方法をずっと探していたと知られたくなかった。


 こんなのただのわがままだと、分かってはいるんだが。


「そうですか」


 無言を答えと読み取ったのか、それとも心の声を聞いたのか。いずれにせよその声からはありありと落胆の色が見て取れた。


「念のため伝えておきますが、私は暴力が嫌いです」


「分かってる。交渉手段として最低の部類だ」


 氷を取り、ホニャ子は飴のように口の中で転がした。


「もう一つ伝えておきます。その上で協力は惜しみません」


「……ありがとう」


 少し泣いてしまいそうで、俺は額の汗を拭くフリをした。


 こくりと喉が動き、ホニャ子ははっきりと言い切った。


「クスノキさんの未来は私の未来です。決して忘れないでください。これは私からの、一番大切なお願いです」


 まっすぐな瞳に、万感の想いに胸が詰まった。


 家族から忌避された。近所でも腫れ物扱いだ。損の多い運命だと、我ながら思う。


 それでも、それでも。


 俺を愛してくれている人がいる。これ以上、何を望むというのか。


 濡れて曇った目を伏せた。頬を伝う滴は、涙と呼ぶには熱過ぎる。


 改めて思い、改めて覚悟した。


 運命がなんだ。神格の悪魔がなんだ。未来を重ねてくれる人がいるんだ。


 決して諦めたりしない。運命に抗い、打ち克つまで戦い続ける。


 俺を愛してくれるホニャ子を。


 ホニャ子を愛している俺を。


 助けないなんて選択肢は、初めからないんだ。

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