深夜、川べりを走る
夜、川べりを一人で歩いていると、壮大な、清新な気持ちになる。
深夜、一人で歩くと豊かな気持ちになれる。人は一人もいない。誰も歩いていない。自分がいるだけ。後は星と空と、川と草むら。川は人工的にしつらえられたものだが、大目に見よう。
僕は一人で歩く。僕には年齢もない。名前もない。ただ、僕という個体が風を切って歩いて行く。
世界はこんな風に在るんだな、そう思うと素敵な気持ちになる。世界はあるようにあって、全ては変化し、流れていって、僕はその中の一つなのだ。星々の中の一つ、それが僕だ。
僕はついに、人間世界に適応できなかった。人間世界においては、馬鹿にされ、蹴飛ばされ、あるいは奇妙な偏見で見られたり、妙に好かれたり、嫌われたりもしたし、自分もそんな感情を持ったりしたのだが、結局の所、それらは全てまやかしにすぎなかった。どうでもいい事だった。ショーペンハウアーだったら「マーヤー」と呼んだだろう。
ショーペンハウアーは世界を「意志」と呼んだ。哲学者は世界を観念に還元するのを仕事としている。だが、なんとも名付けようのない星が、空が、世界がそこにあって、僕はそこを一人歩んでいく事ができる。人類が絶滅した後の世界のような気持ちで。
東京に、三年いた。広告会社の社員だった。タレントと一緒に飲んだ事もある。コンパとかいうふざけた会合で、愉しい思いをした事もある。今、思えば、僕は強迫観念にとらわれていた。それはどんな類の強迫観念だろう。「幸福でなければならない」という観念だろうか。別に不幸な顔をしていたっていいのに、至る所、「自分は幸福だ」と言い張りたい奴ばかりだった。僕もそうだった。「仕事ができる事」を自慢にしていた連中は大抵、よくできたロボットにすぎなかった。彼らは魂を売って、金を得ていたのだ。機械の体、機械の家族を手に入れていたのだ。彼らはそれには気づかなかった。彼らはもはや機械だった。だから、物に固執した。物化した人間は物と数字にこだわる。彼ら自身が物であり、数字にすぎないから。ジャラジャラした金属。センスの悪いTシャツを三万円したと威張ってくる奴もいた。僕は、褒めておいた。「いいシャツですね」と。
それらの悪夢はもう過ぎ去った。僕は無職になっていた。友人とも大抵、縁を切った。結局、彼らのしたい事は一つしかなかった。至る所で自分の同類を見つけて「仲間だよね」とお互いに言い合って、納得したいのだ。自分であるという不安を取り除きたいのだ。それだけなのだ。ただそれだけ。自分達が生きている事を不安に感じて、それから逃れる為に、スケジュールをとにかく埋めておく。そうすると時間が充実したものになると思っている。そうやって抜け殻の人生を彼らは生きていく。しかし、そもそも充実した人生など一つもない。誰だって抜け殻を生きるだけだ。誰だってそうだ。僕もそうだ。そうだろう。
夜道を歩く。星。輝いている。
遠くに、大きな光が見えて、なんだろうと思う。こんな深夜に光っているとはなんだろう。パチンコ屋のネオンだろうか。なんだろうか。それは、夜の中で、道標のようにも見える。
「源氏物語」の頃には、世界は暗かったのだろう。「源氏物語」は生霊が出てきて、相手を呪い殺す世界だ。月が美しくて、涙が流れる世界だ。夜は暗く、そこに人間の想像力は繁茂した。今や、闇は照らされ、化物も妖怪も出てこれなくなった。出てくるのは変質者ばかり。少女を強姦しようと待ち構えている凡庸な男。異常な猟奇殺人が起こると、話題になる。話題になるために、異常な事件を起こしたがる凡庸人もいる。どっちにしろ、みんなと和解する事を念頭に置いている時点で、凡庸に決まっている。だが、凡庸が悪い事のはずがない。
走ってみようか。息を切らしながら。
自分の後先について考える。自分の人生について考える。なんて、無意味な人生なんだろう。何もなかった。何も感じる事もできなかった。女、男、友人、家族。みんな、去っていった。僕は彼らを幸福にする事ができなかったが、それはそもそも幸福がどうしても幸福だとは思えなかったからだ。わけもわからず、学校の指定図書を読んで、先生の顔色を窺って感想を書けば褒められる世界。色々な所で、価値観が決まっている世界。そこで、どうして一等賞を取るのかという問いは僕には理解不能だった。それでも、やろうと思えば優等である事もできた。だからこそ、僕は広告会社に入る所までいった。仕事もそれなりにできた。が、そんなものが全て無意味だと気付いた。気付く事は、無能らしい。この世界では無能らしい。
どうでもいいや。見えてきた石ころを蹴る。思い切り、助走をつけて、石ころを蹴った。
石ころは土手から川底に落ちていった。僕のように落ちていった。「ボチャン」という音は聞こえなかった。
僕は走った。淡々と走った。ただ、走った。くそったれと念じながら、走った。
走ってると、五分もしない内に、奥の方に人影が動いているの気付いた。目を凝らすと、やっぱり人らしい。向こうもこっちと同じく、ウォーキングとかランニングをしているようだ。こっちに近づいていくる。
嫌な気持ちになって、振り返った。もと来た道を走り始めた。スピードを早めて、相手を置き去りにするつもりだった。
僕は走った。懸命に走った。息を切らせて。
すると、急に転んだ。地面の出っ張りに引っかかったのだ。派手に、転んだ。僕は倒れた。
「フフフ」
一人で照れ笑いした。恥ずかしい。膝がちょっと痛い。でも、大丈夫そう。
僕はそのまま、仰向きになってみた。道の真中に寝っ転がったのだ。なんとなく、そうしてみた。全部どうでもいいと思っていたので。
星が見えた。空が見えた。
それは永遠だった。僕はその事を確信した。
東京での暮らしは星の向こう側にあった。それは全部夢だった。
僕は微笑した。全部、夢だったのだ。
そうだ、この世界、始まって以来、全て、「全て」夢だったのだ。
ああ、夢だ。僕は嬉しくて笑った。
嬉しくて僕は笑った。ずっと、ずっと笑っていた。
……笑う僕の横を、さっきの人が横切っていった。早足で、軽蔑するように、僕から身を離して。
僕は恥ずかしくなった。それで、素早く体を起こした。




