【物語第3冊目】蒼穹の騎士
非凡か、平凡か。
彼を表すのにそのどちらかを選べと言われたら、彼を見た多くの人が平凡だと称するだろう。そして関わってなお、平凡だと口を揃えるだろうことは想像に難くない。
しかし、ほんの少数の人は、彼を平凡と称する時、まるで日向に微睡む猫のように心地よさげに目を細めるのだ。
「にい、さま、」
その日は、ひどく雨が降っていました。
稜明国とサーライズ王国の国境に位置するその場所は、稜明国に現れる亜神や精霊とサーライズ王国に現れる魔王や勇者のどちらもが出現するために、両国から爵位を与えられた知る人ぞ知る特殊な領地です。
与えられたのは騎士爵。
1代にのみ与えられるその爵位は、少年に取っても、両親にとっても誇らしいものでした。
一代限りながら、連綿と継承し続ける紋章は、彼らの誇りである刃の鋭さを目に見える形で教えてくれたからです。
ただ、地に生きる人を守る。
それが、それだけが、その地を治める騎士爵を継ぐ者に課された義務でしたから。
そう、すべては「だった」。
少年と少年に縋る弟はしとどに雨に濡れながら、かつて両親と過ごした屋敷を見つめていしました。
そこには、両親の遠縁だと名乗った大人たちが住み、かつて家族が愛用していた家財道具はすべて売り払われ新品に変わっています。
突如現れた亜神により、相討ちとなった両親を悼んでくれた者は誰1人としていませんでした。
まだ幼い少年には、両親とともに打って出た家臣たち亡き今、どこにも頼る場所がありません。
このように、雨の日に追い出されたとしても。
「ごめんね、ぼくの可愛い青。」
「にいさま、」
「ねえ、青。ぼくは英雄になろうと思うんだ。ね、青。にいさまの旅についてきてくれるかな」
「はい、にいさま。にいさまのためにならば、どこへでも…!」
雨に萎れる花の様だった少年の弟は、青い瞳を輝かせて少年に抱きつきます。
2人に持って行くことが許されたのは、少年が若人になった日に通りすがりの少女から与えられた双刀と、必要最低限の荷物だけ。
細く薄い肩に食い込む荷の重さを嘆くことすらせず、一心に自分を慕ってくれる弟に、少年はいつものように朗らかに微笑みかけました。
稜明国、臨英伯。
サーライズ王国との国境に接する広大な土地を擁する守護伯である。時には亜神や魔王、さらには犯罪者や未曾有の天災などでサーライズ王国の英雄侯爵とも共闘した過去を持ち、数代前までは英雄侯爵紅孔雀の騎士とも親しく付き合っていました。
そのために、臨英…英雄侯爵に臨む土地の名を持つ者は、同時にサーライズ王国騎士爵、リーエイの名も与えられています。
領地はなくともその名があれば、たとえ幼い少年2人であっても当主とその弟として迎えられるということは、両親がいつも言い聞かせていました。
ー私たちに何かあったら、さーらいずに行くのですよ。
ー彼の地は和御霊であれば幸いを授けてくださる亜神とは違い、人に仇なす魔王を抱えている。
ーあなたの剣はきっと彼の国の人々を守ることができるでしょう。
ー私たちの蒼穹、私たちの平安。
ーお前の思うまま、進め。
ーー臨英の、幸いなる青の子らよ。
貴族の末席にある身とは言え、その本質は剣を振るい戦場を駆ける武人のもの。
物心ついたときから野山に混じり遊んできた2人にとって野宿や化獣との戦いはさして問題ではありませんでした。
少年が恐れたのは夜。
両親の訃報も、家臣達が何者かに殺され尽くした知らせも、2人が屋敷を追い出されることを伝えられたのも、全てが夜のことだったからです。
幼い弟を抱きしめて、少年は柔らかく物語を紡ぎます。
亜神に仕える巫の話
商会を率いる長の話
亜神の力で国を守る皇子の話
空を舞い飛び人の友を救った竜の話
人々に愛され頼られる一族の若武者の話
そして、
魔王を倒す勇猛果敢な騎士の話
臨英伯に伝わる物語のその全ては、青い瞳を持ち剣を振るいました。
そんな話を聞かされ続けてきた少年が、英雄を目指すのは決して不思議なことではなく、
そんな少年の力が、秀才の域を出ないことも全くもって珍しくないことでしょう。
青年は旅をしました。
蒼穹の瞳と髪はいつしか彼の名となり、青年自身もまた、蒼穹と名乗るようになりました。
その頃には信頼できる人に弟を預け、東に西に南に北に休むことなく大陸を駆けずり回っていました。
強きを助け、弱きを助け、そうして静かに微笑む青年。
蒼穹の騎士と呼ばれるようになった頃、少年から青年の体になった頃、蒼穹は数多の命を救い、数多の信者を得ていました。
誰にでも愛されるほど、美しい生き方ではありません。すべてを守り、助けたい。そんな子供の我儘の様な英雄論に、嘲笑を向けるものなんて数えるのも馬鹿らしいほど大勢いました。
それでも、蒼穹は笑っていました。
手に馴染む双刀と、彼と並び戦う獣と共に、名もなき土地を歩み続けました。
穏やかな物腰と、鋭い太刀筋と、どこまでも平凡な蒼穹は
澄み渡った青空のように、どこまでも遠く、悲しいほどに平等だったのです。
荒ぶる魔獣がどうと倒れ、ふるりと血を払った二柱は、すぐさま己の主人たる主人の元へ駆け戻りました。
『ぬしさまぬしさま!我、頑張りましたよ!お褒めくださいませ!』
『ぬしさま、お疲れ様です。』
悪も善も誰も憎まず、すべてを救う青年に、最初に救われたものこそ、青年の操る双刀に宿る二柱の間に神でした。
精霊の中でも特に力の強いものに与えられる大精霊の称号。二柱で一対という特異点を持った彼らは、かつてより大きな大海霊に仕えていました。
ある時、神に彼らの王たる大海霊を屠られ、怒りに駆られてその神を喰らったが為に、時の大巫女に封じられた神喰いとなりました。
本来、自然のままに生き、無垢なる者を慈しむ存在である精霊は人々に歓迎されます。
しかし神を喰らった精霊は、血の味を覚えます。
いくら人を殺そうと、変わることのない精霊の本質が、神を喰らうことによって変わるのです。
神を手にかけた精霊は、命の潰える様を渇望するようになる。
ゆえに、精霊は神を殺す、ではなく喰らうと呼ばれます。
「ありがとう、ヨスナミ、ヒクナミ」
信仰を失い、憎まれ、呪われ、怖れられ、それでも彼らの愛した大海霊は戻ってこない。
苦しみのままに双刀となった当初、東水主ノ双剣は呪われた武器として恐れられました。
人の血を欲し、使用者が死ぬまで剣を振るわせ続ける呪具として。
「助かったよ」
『もっと褒めていいんですよ!すごいでしょう?すごかったでしょう!』
『お褒めいただき光栄です』
蒼穹の青年は、そんな彼らを持って荒ぶれる亜神の前に立ちました。
ヨスナミヒクナミは、いつものように青年を操って亜神を殺しました。
そして、血に狂う己が姿を見せつけて、正義の勇者を目指すお前が持つのは血濡れた刃だと嘲笑う二柱に、青年は丁寧にお礼を言いました。
「ありがとう、ヨスナミ、ヒクナミ。僕の守り刀、僕の戦友。僕を守ってくれて、ありがとう。」
柔らかな毛並みに手を滑らせて、血に汚れることも厭わずに、その働きを褒め感謝する。
青年は、ヨスナミとヒクナミの物語を知りませんでした。
彼は平凡であったがゆえに、ただ実直に力を貸してくれた二柱に敬意を表しただけでした。
それは、ただただ大切な大海霊の仇を討ちたかった、守れなかった御方にせめて報いたかった二柱にとって、どんな甘露よりも甘く心に染み渡りました。
『ぬしさまのためならば!このヨスナミ、寄せる波のごとき刃となりてぬしさまの敵を屠りましょう!』
『ぬしさまのためならば、このヒクナミ、引く波のごとき刃となりてぬしさまを敵からお守りします。』
「うん、僕も2人を守るから、2人は僕を守ってね。」
そう言って、笑って、
褒めてくれた彼の声は、
撫でてくれた彼の掌は、
守ってくれた彼の殺気は、
共に在ろうと約束してくれた彼の、
真摯なる瞳は、
蒼穹は確かに、二柱の平安であった。
「死んだ狼」
風の噂で流れてきたのは、公爵家の呪われた子供についてでした。
悪魔の子、公爵家の玩具、娼婦の息子
美しくて残酷な公爵家の姉弟の高貴なる戯れの相手。
『行くのですか、ぬしさま!我を置いて?なりませぬ、なりませぬ!我はぬしさまの剣!ぬしさまをお守りする剣、ぬしさまと共に在る剣!』
『我をお連れください、ぬしさま。』
どれだけ懇願しようと、威圧しようと、泣こうと喚こうと、青年はいつもの蒼穹で2柱を諭しました。
「待っておいで、僕の一対。僕は蒼穹の騎士、僕は臨英の英雄なのだから。死んだ狼を連れて帰ってきたら、仲良くしてくれるんでしょう?2人と同じ、狼の子を、僕に助けに行ってはいけないというの?」
どんなに自分の身が危険だろうと、たとえ相手が助けを望んでいなかろうと、助かることを恐れていようと、蒼穹の平安は、平等に与えられるのです。
旅の最中にできた親友に切ってもらった髪を風に遊ばせて、親友から送られてきた似合いの服に包まれて、
蒼穹の騎士は死んだ狼の元へと向かいました。
公爵家のお屋敷には、武器の類を持ち込んではならない。
それは王の血を持つ一族を保護する為の不可侵の法で、蒼穹の騎士だろうと、従わないことはできませんでした。
創り手である名工の元に身を寄せて、二柱は待ちました。
暗い英雄侯爵の工房倉庫の中、静かに静かに、その瞳を燻らせて。
そして、ある日工房倉庫へとやってきた薬研に宿った土精霊が、彼らに伝えました。
『蒼穹の騎士は、死んだ狼に手を出して、死んだ人間になった』のだと。
たまの休息には、知人を尋ねたり、かつて救った人々の様子を見て回ったり、蒼穹は休むことなく旅をしていました。
魔王になるほど、愛されることもなく。
亜神になるほど、畏れられることもなく。
悪者になるほど、悪逆の限りをなすこともなく。
良い人になるほど、世間知らずではなく。
笑ってしまうほどに平凡で、まっすぐで、透明で、
どこまでも遠い蒼穹は、多くの人の平安でした。
蒼穹の、声が好き。
蒼穹の、掌が好き。
蒼穹の、髪が好き。
蒼穹の、振る舞いが好き。
蒼穹の、在り方が好き。
蒼穹の、歌声が、絵が、詩が、剣技が、癖が、眠る姿が、抱きしめる腕が、平等な姿勢が、狂わない清浄さが、
澄み渡った蒼穹が、私たちの平安が好き
誰かは言った。
彼が誰かに心を尽くしていると思うだけで、血を求める心が落ち着くと。
彼が歌う声を思うだけで、自然と琴が旋律を歌い出すと。
彼が抱きしめてくれたぬくもりを思うだけで、誰かを愛したいと思えると。
誰かは言った。
あの蒼穹がいる限り、私の平安は保たれると。
しかし、その蒼穹が、我らが平安が、なくなったら。
優しき庇護者は暴君と成り果て、
賢き老人は頭の固い愚者に成り果て、
美しき乙女は哀れな生贄となり、
人望高き先導者は、1人の狂人へと舞い戻る
英雄にならんと、民を守る騎士にならんと願った蒼穹は、魔獣に嬲り殺されました。
民を守るためでなく、苦しむ者を救うためではなく、誰かのために死んだわけではなく。
ただ、余興の為だけに殺されたのです。
その誇りを踏みにじられて、多くの約束を破らされて。
愛しい弟を、信頼していた2柱を、救ってきた大勢の人々を置いて、彼は辱められて殺されてしまった。
『また、守れなかった』
『また失った』
『また遠い』
『血が、欲しい』
『また奪われた』
『なぜいつも』
『苦しい苦しい苦しい苦しい』
『『平安は、もうどこにもありはしない』』
こうして、蒼穹の騎士はその生涯を終えた。
残された者に、深い傷を残して。
いつもとちょっと違うのは、リュカじゃない獣が語っているから。




