2 始まりの始まり
『ーーーー、いい?もしなにか困ったことがあったらね、きっと私のーーが助けに来てくれるから。いい?ーーーー。覚えておきなさい。ーーーは、ーーーーの味方だよ。』
『うん、ーーお姉ちゃん。』
『いい子だね、ーーーー』
久しぶりに、暖かい夢を見ていた。純粋で、暖かくて、優しい夢。僕を守ってくれる、陽だまりの力。
「…ぁ」
なのに、名前だけが、思い出せない。
口にすれば、さぞかし甘美であろう名が、シーターの中では、既に失われたものとなっていた。
「っ」
「起きたか、シーター!いや、起きろシーター!」
楽しげな【声】のあまりの近さに、シーターは飛び起きた。目の前に、顔が迫る。僅か数センチの距離で、【声】は笑った。
「おはよう!シーター!」
ふわふわと跳ね回るくすんだ茶色の髪と、くるんとした黒い瞳。黄色い肌と闊達な口調。頭には耳を覆うような不思議な布飾りがつけられ、体は黒いマントに覆われている。
耳を覆う布飾りは多種多様な茶系の糸が絡めたらされ、不思議なグラテデーションを描き出していた。
見ればぼくも、不思議なことに綺麗になった半袖の上から同じような黒いマントを着ていた。
覗き込んでいる少年に頭をぶつけないように、体は寝床にしていた荷物にもたせかけたままで挨拶をする。
「おはよう、ございます」
【声】と同じ音を出す少年は、シーターが言葉を返すとひどく嬉しそうに笑った。
「リュカ、あまり寝起きの方に詰め寄ってはいけませんよ。困惑されてしまいます。」
「う、そうだね、イド様」
リュカ様が身を引いたおかげで視界が広がった。
落ち着いた声音、高くもなく、低くもないその音の方向を見る。
ぼく達は森の中の空き地で眠っていたらしく、【声】の後ろに焚き火があり、その左に黒マントのお美しい方がいらっしゃった。
蒼銀のまたたく薄紫の髪に、長い睫毛の下にはめ込まれた白銀の散る蒼と紫と翠の混ざり合う瞳。白磁の肌はきめ細かく、それでいて不健康そうではない。薄い唇は淡く桃色に染まり、あの公爵家の人間のような赤すぎる毒々しさなど欠片もなかった。
完成されたお美しさ、そう思わざるをえない。
「おはようございます、シーター様」
「お、おはようございます」
所作ですら美しく、ひたすらに圧倒された。
あの愚息変態馬鹿姉弟には何をされようと動じなかったのに。
醜いものを多く見てきたせいか、美しいものを見るとひどく逃げたくなるような、ずっと眺めていたくなるような相反する気持ちが心に巣食って落ち着かなくなる。
どもったシーターにこれまた美しく微笑んだその人はかすかに小首を傾げて【声】を見た。
「…?あ、そうだったね!改めまして、シーター。僕の名前はリュカ・シイジユール・フレインファー!忠実なる犬だよ!」
「…はい?」
思わず間抜けな声が出た。【声】の名はリュカ、それはいい。だが、忠実なる犬って、何言ってるんだろうこの人。
まあ確かに、リュカ様のつけてる耳を隠すような頭飾りは犬のタレ耳に見えないこともない。が、しかし。リュカ様はどっからどう見ても普通の…ちょっと変わったところのある人間だ。
「私はイドラージャ・オークローカ・シイシャン。見ての通り、リュカの主人役です。気軽にイド様とお呼びください。」
次に名乗ったのはお美しい方。唇を綻ばせたその様は淡い花弁を開いた花の様で落ち着かなさに拍車がかかる。
さて、何が見ての通りなんだろう。そして様付きで呼ぶのに気軽さとか挟んでいいのか?
「オレはラビュンディ・インディゴブルー。リュカの守り役兼犬役券騎獣役だ。気軽にラビと呼んでくれ!」
「うわあっ⁈」
驚きのあまりリュカを通り越して焚き火の跡のすぐ近くまで逃げてしまった。
荷物袋が喋った。いや、違う、この黒はリュカ様やイドラージャ様と同じ物。3メートルほど離れたところで1つ息を吐き、落ち着いて見てみれば今まで体をもたせかけていたものの正体がわかる。
夜色に少し紫を足したような滑らかな毛に爛々とした深い紫の瞳。ぼくの【死んだ狼】なんて呼び名が恥ずかしくなるくらい立派な本物の狼だ。呆然としていると、伏せの状態からおすわり状態に移行し、ご丁寧に尻尾をぱたぱたと振ってくれた。
…もふりたい
「…ん?は?え?」
今こいつなんて言った…?いや違う、今こいつ喋んなかったか普通に⁈
正直獣には特段いい思い出も悪い思い出もない。陽だまりの力のあの方がいた時はあの人が守ってくれていたし、リュカ様が来るようになってからはリュカ様が獣除けをしてくれたから。
だからこそ、まともに見たことがあるのはあの継母と三兄妹の騎獣くらいで彼らの濁った瞳や愚鈍そうな顔からは知性のかけらも感じなかったのだが。
そもそもあの騎獣は鳥型だったけど。
「ラビはお喋りのできる狼さんなんだよ!ね、ラビ!」
「おう、リュカ!」
…人はそれを魔獣とか聖獣とかいうんだけどなあ。しかもこれだけ喋れるってことは割と最高位あたりにいるはずなんだけどなあ。そっかー、狼さん扱いかぁ…
「うん、ちょっと落ち着こう」
「「「?」」」
「リュカ様、犬って何?イドラージャ様、主人役って何?ラビュンディ様、ただの狼じゃなくて魔獣か聖獣だよな?」
とりあえず目下のところ気になった点を確認する。ぼくは一応公爵家の人間だし、意味のわからない連中に大人しくついていくわけにはいかない。まあ、公爵家に飼われていた頃よりひどくなることはそうそうないだろうけど。
「犬は犬だよ!それと僕のことはリュカでいいから!」
「本来ならば私はリュカの下僕、様をつけて呼ぶ側なのですが、私を主人としたほうが大概の方は納得されますので。…それよりシーター様。親しみを込めてイド様と読んでほしいと言いましたのに。」
「オレはただの狼だぞ?何てったってリュカがそういうんだからな。オレのこともラビって呼んでくれ」
結局わからないことは分からないがまあ分からなかったところと対して支障ないことばかり。とりあえずこのパーティの中での位は建前はイド様、リュカ、ラビで本当はリュカ、イド様、ラビということが分かっただけ十分だ。
「聞かせてくれ、リュカたちは何だ?なぜ公爵家の悪名高い【死んだ狼】を助けた?ぼくはこれからどうなる?リュカたちはこれからどうするんだ?」
ラビを手招いたリュカが、伏せをさせ、ふかふかの背中にぴょこんとこちらを向いて横座りした。それが合図だったのか、イド様も立ち、ラビの尾側の前に立つ。イド様とラビ、2人をそばにつかせたリュカは嬉しそうに目を細め、
それはもう、愉しげに嗤った。
「僕たちは流浪の物語屋!僕がシーターを助けたのは、それが定められた物語だったから!シーターはこれからシーター自身の物語を生きればいい!誰とともに生きようと、何を成そうと何も成さぬと、君自身の力で変えられる範囲は君の自由だ!」
一度だけ、馬鹿妹が見せてきた演劇の登場人物のように、リュカは大げさな身振り手振りで朗らかに言い放つ。
「僕たちはこれから、今までと同じように僕たちの力で変えられる範囲で自由に物語を生きていく!」
あの愚息弟がぼくにむけていたぐじゃぐじゃの破壊衝動のように
あの変態姉が僕に向けていたベトベトの嗜虐衝動のように
あの、馬鹿妹がぼくに向けていたドロドロの恋愛感情のように
狂気的で、妄信的で、自分本位な赤黒くねっとりと纏い付くような異様な感情の光を瞳に孕んで、リュカは嬉しそうに無邪気に笑った。
「僕の最愛が再び僕を求めるまで!」
それは、
ひどく、
恐ろしく
怖ろしく
おどろおどろしく
禍々しく
仰々しく
悲しく
辛く、
どうしようもなく、胸を打った。
喜び以外の感情を1ミリたりとも感じさせない笑顔を浮かべ、どろどろとした感情を瞳に孕み、お美しい方と巨狼を従えた無邪気な少年に、ぼくはこの時、しっかりと巻き込まれていた。
僕自身の物語を。
僕が巻き込んだのか、リュカが巻き込んだのか、
それともイド様か、はたまたラビか
それとも、あの優しい陽だまりの方か
それはわからなくても、確かにこの時、この宣言によって、3人と1匹の物語はより合わさって1つの道へと進みだした。
「なあ、リュカ」
「なんだい、シーター!」
「ぼくも一緒に行っていいか?お前たちと、共に」
ぼくが伸ばした手を、リュカはしっかりと掴み取った。
「もちろんだとも、シーター!僕はリュカ!物語屋にして忠実なる犬!」
リュカの髪が、夜明けの淡い光に黄金に輝く。
リュカの瞳が、登る朝日を反射して紅橙に輝く
赤い朝日に呼応するかのように紅に輝く満月を背負って、リュカは無邪気に、ぼくに微笑みかけた。
こうして、【死んだ狼】は
犬と名乗る少年リュカと
主人役を名乗る麗人イドラージャと
ただの狼を名乗る巨狼ラビュンディと
ともに物語を紡ぎ出した。
大きな狼、いいですよね!
もふり倒したいです!
さて、シーターが割と楽観的というかあっさり順応しちゃってるのは公爵家の扱いが酷すぎて自分の体の無事とか考えてないからです!生きていればいいや的な!
人間不信なんて陥りません!
だってひどいことをしない人間なんていないし!たいていの酷いことなら耐えられますもん!
相変わらず脳みそ空っぽ、早くも迷走中ですが楽しんでいただければ幸いです