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クレマン家は裕福ではあったが、質素な生活を送っていた。
家には今は亡き祖父が遺した稀有な遺品がたくさん飾られており、この豪邸も祖父の遺品の一つだった。
クレマン家は、周りからの評判がとても良かった。
兄はリオネルという名で、しっかりしていてとても賢く。
妹はシャルロットという名で、淑やかで、笑顔を絶やさない少女だった。
しかし、とある日から、妹のシャルロットに鼠の耳と尻尾が生えてしまったのだ。
シャルロットは、いつそれが周囲に気づかれてしまうか恐怖を感じ、必死に隠した。
リオネルは、シャルロットから相談を受け、せめてもの手助けをしていた。
ところが、二人の両親はシャルロットの異変に気づいても、いつもと変わらない態度で接した。
周りの人たちも、最初こそは同情のまなざしを向けていたが、それもいつしかなくなり、シャルロットが普通に街を笑顔で出歩けるようになった。
そんな平和なある夜、事件は起こったのだった。
「おやすみ、お兄ちゃん」
「うん、おやすみ」
兄妹は就寝の支度を済ませ、自分の寝室へと向かっていく。
リオネルは自分のベッドに入り、目を閉じる。
明日も目が覚めたら朝になっていて、平和な日々を送るのだと思いながら。
だが、リオネルが目を覚ますと朝にはなっていなかった。
時計を確認すると午前二時。
どうやら目が覚めるのが早すぎたようだ。
リオネルがもう一度寝ようと目を閉じかけたとき、悲鳴が聞こえ、次に焦げくさいような匂いが鼻についた。
慌てて部屋を飛び出すと廊下には煙がたくさん漂っていた。
リオネルは煙の中にシャルロットの姿を見つけた。
「お兄ちゃん、何だろうこれ…。火事…?」
寝間着の袖で口と鼻を覆いながら、シャルロットが不安げに問いかける。
「わからない…。けど、このままここにいては危険だ。裏口から家を出よう」
シャルロットを裏口の外に残し、リオネルは再び家に入る。
両親の安否を確かめ、助けるためだ。
家の中は完全に火の海になっていた。
こんなに家に異変が起こっているというのに、両親の姿が見当たらないのはおかしい。
二階の両親の寝室を覗いてみるが、ベッドは空っぽだ。
階段を途中まで降りると、エントランスホールが見える。
そのエントランスホールを目にして、リオネルは愕然とした。
人が二人倒れていた。
それは、紛れもなくリオネルとシャルロットの両親だった。
二人の腹の辺りには刺し傷があり、血の海になっていた。
吐き気を催しつつも、両親の近くに駆け寄ってみるが、二人とも息絶えていた。
玄関に人の気配を感じ、はっと玄関を凝視する。
そこにはリオネルもシャルロットもよく知った人が立っていた。
彼の手には、まだ乾いていない血のついたナイフが握られていた―――。
*
「えっ、妹!?」
「そうだ。で、アリス。シャルロットがどうかしたのか?」
リオネルが、眼鏡のブリッジを押し上げながら言う。
夢羽はアリスではありません、と口にしたくなる衝動を抑えた。
リオネルの神経質そうな性格からすると、またくどくどと何か言われそうな気がしたからだ。
先ほどは、説教が始まる直前でジゼルが現れて助かった。
「えっと、散歩したっきり帰ってこないって【猫】さんが…」
「それなんだが、僕もシャルロットをずっと探していたんだ。しかし、シャルロットはまだあんな奴と会っていたのか…」
リオネルが苛立ちをあらわにした。
「【猫】さんは、それほど悪い人じゃなさそうですけど」
夢羽は、リオネルの【猫】に対する怒りの意味がわからなかった。
彼の素性はわからない。
だが、優しい声音の彼は、あんな奴と呼ばれるほど悪人ではないはずだ。
「あれは、罪を犯した。およそ人ではない」
「まぁまぁリオネルさん落ち着いてください。彼もきっと今頃シャルロットさんを探していますよ。それに私もシャルロットさんをお探しいたしますわ」
ジゼルがリオネルの手をとってなだめる。
すると、リオネルは頬を少し赤くして押し黙ってしまった。
「アリスお姉ちゃん!私もいっしょに探すわ!ね、ドルダム!」
ドルディーのポニーテールにした薄めの栗色の長い髪が少し揺れる。
「もちろん!」
ドルダムが頷く。
夢羽があたりを見回すともうすっかり夕暮れになっていた。
「あらあら。もう夕暮れですね、ドルディー、ドルダムそろそろ帰りますよ。アリスさんはどちらにお住まいですか?よろしければ、近くまでお送りいたします」
ジゼルが夢羽に尋ねる。
しかし、夢羽はここに住んでいない。
住む家も泊まるところもない。
「あの、私、家を知らなくて…」
「まぁ!では私たちの所にいらしてくださいな」
ジゼルのオレンジの瞳が優しく和む。
「うん。アリスお姉ちゃんおいでよ」
ドルダムが嬉しそうに言う。
それから、ジゼルはリオネルに微笑んだ。
「それではリオネルさん、お気をつけて」
「ジゼルさんも、お、お気をつけて」
リオネルは、やはり、ジゼルと話すときだけすこし頬が赤い。
「ばいばい、リオネルさーん!」
「頑張ってね、リオネルさーん!応援してるよー!」
最後にドルディーが叫ぶ。
「ねぇねぇ、ドルディー。頑張ってねとか応援してるよとかってどういう意味?」
夢羽が尋ねると、ドルディーは顔を夢羽の耳に近づける。
「あのね、リオネルさんはお姉ちゃんのこと…あっと、これはリオネルさんとの秘密だった…」
ドルディーは、小さなその手で口を押さえ、夢羽の耳から顔を遠ざけた。
その仕草は、とても愛らしかった。