蒼視点5
「……っ」
俺は、選択を迫られている。
店内に流れている、ゆったりとした曲調に艶やかな女性特有の高音が、心を揺さぶられると評判の流行りの曲も、極度の緊張を強いられている今では何も俺の琴線に触れる事はなかった。
「いらっしゃいませ〜」
店員の元気な挨拶の声にビクリと肩が跳ね、その拍子にラックに掛かった商品を落としてしまった。
慌てて元にあった場所へ戻すが、とても居たたまれない。
あのまま濡れた服をまた着せる訳にもいかず、着替えを用意したまでは良かった。上のシャツはもちろん、靴下や下着まで濡れていたのだ。俺がそうなのだから、きっと彼女も濡れているだろう。
寝るだけならパーカーとハーフパンツで構わない。が、問題は下着だ。男の一人暮らしに女性物の下着などあるはずもなく。風呂に入った所を見計らって近くのコンビニへ走った。
「……よし」
幾つもある種類の中からコレだと決めて、後は商品を手に取るだけ。不純な動機なんてない。風邪を引かせたくないだけだ。不純な動機なんて、ない……!
ゴクリと唾液を飲み込む音がやけに耳についた。
「ありがとうございました〜。またのお越しをお待ちしておりま〜す」
夕飯になるであろう弁当や軽く摘めそうな惣菜と、彼女が好きだと言っていた飴を一袋カゴの中へと押し込んでレジに行けば、不自然なほどの笑顔を向けられた。
もう此処のコンビニには来れないと思いながら帰路につく。
「制服もクリーニングに出した方がいいよな」
そっと脱衣所の扉を開け、声を掛けて着替えを置いた。心臓が口から出そうなほど煩い。中は確認せずに洗濯機のボタンを押し、干さなくても乾燥までやってくれる文明の利器に感謝する。
足りない物を新たに買い足してクリーニング店から戻った。ソファーで少し居心地悪そうに座る彼女を見るとグッと胸が熱くなる。
『お帰りなさい、です』
いつもは言わない『ただいま』の言葉も、彼女が居るだけでスルリと出てきた。暗い部屋へ帰る事に慣れてしまった今でも、誰かがこうして迎えてくれる事がこんなにも嬉しいなんて。
知らなければ良かった。
触れなければ良かった。
「……なぁにが内緒、だよ。馬鹿蒼」
後悔するくらいなら尚更。
寝室で眠る彼女を想い、ぬるくなって苦味が増したビールを無理矢理流し込んだ。
明け方近くになってからやっと眠れたが、眠りが浅くて朝早くに起きた。
着替えようとそっと寝室の扉を開け、クローゼットから服を引っ張り出す。
ーーカタン……
思ったよりも大きい音だったのか、ベッドの上で眠る彼女が身動いだ。
「……んぅ……?」
「起こしたか。悪い、まだ朝早いからもう少し寝てな」
寝かしつけるように優しく頭を撫でれば、すーっとまた眠りにつく。すっと触っていたいほど絹のように滑らかな髪を何度か梳いてから手を離した。
「……せん……せ……、……き……」
「っ……!」
へにゃっと笑い、ムニャムニャ何か言っていたが聞き取れず、かつあまりにも無防備過ぎる笑顔にやられてその場に蹲ること数分。
「落ち着け……落ち着け、俺っ!」
素数を数えて少し落ち着いた俺は今度こそ起こさないようにと、そっと寝室を後にする。
寝顔が可愛いとか寝ぼけているのも可愛いとか、自分のしている事を棚に上げて無防備に眠る彼女に危機感が足りないとかそんな事を思いながら、リビングで起き出してくるのを待った。
結局、お昼過ぎまで寝ていた彼女と一緒に遅い昼飯を食べてから送り出した。
彼女の口から優美の事は聞かれず、俺の取り越し苦労だったようで肩の力が抜けた。
隠したはずの飴の袋も見つかってしまい、そんなに気に入ったのならと無くなる頃に新しく飴を貰った。流石に貰ってばかりなのはどうかと思ってお礼にルームフレグランスを贈る。
『嬉しい。先生とお揃いの匂いですね』
他にも女性向けの香りはあったのにもかかわらず、彼女に渡したのは自分が使っているものと同じ物。一定以上近づかないと分からないぐらい匂いは薄いが、同じ香りを纏っているという事にある意味で所有欲を満たしていた。
* * *
穏やかな日常はあっという間に過ぎていった。
暖かな日が続いて例年よりも早く開花のニュースが流れた頃、不安そうで頼りなかった生徒達は心も体も成長して巣立っていく。
「ーー代表、橋本茉莉」
『きっと、みんな先生に色々渡すだろうから、今のうちに飴あげますね』
幼さが残り初々しかった入学したての頃とは比べ物にならないほど堂々と顔を上げ、背筋をピンと伸ばして歩いていく。
「はい」
『先生……最後のHRが終わったら、校舎裏の桜の木まで来てもらえますか?』
しっかりと前を向き、証書を受け取る。
「卒業、おめでとう」
綻んだ笑顔に煌く光を見つけた。
「……はぁ。心臓が口から出そうだ」
できる限り急いで校舎裏にきたが彼女はまだ来ていないようで、桜に寄りかかって腕を組みながら待つ事にした。
先ほどから落ち着こうにも全然気持ちが穏やかにはならず、走り出してしまいたい衝動に駆られる。実際にはしないが、もう心の中では走り回っているような心持ちだった。
とうとう彼女が卒業する。もう『教師と生徒』という枠組みから外れるのだ。嬉しくもあり戸惑いもあり、そして寂しくもある。
一緒に過ごしてきた三年で、ただの生徒から恋にまで育ったこの想いを彼女へ告げても良いのだろうかと悩んだ。
できれば。できるのであるならば、結ばれたいと思う。そう願ってしまうほど大きくなった想いを、ひとりの女性として彼女へ請い願ってしまう。
桜の木が風に凪いで揺れた向こう側から、見知った姿が近づいてくる。
「はぁ、はぁ……、せんせ」
余程急いで走ってきたのか、薄っすらと汗が滲んでいた。
「そんなに慌てなくても逃げないぞ〜」
「でも……、先生が見えたからつい」
「はは。橋本らしいな」
ゆっくりと近づいて、頭にポンっと手を乗せる。こうして頭を撫でる事ができるのは今日で最後になるのか、と急に寂しくなった。溜め息が出そうになり、吐き出す前に言葉を重ねた。
「あ〜あ。橋本が居なくなると寂しくなるな」
「先生……?」
「卒業おめでとう」
頭から移動させて頰を撫でた。ピクリと彼女の肩が上がったが、それには気づかないフリをして顔を覗き込む。俺はきちんと笑えているだろうか。
「……き」
「ん?」
「すき……好き」
息が止まったかと思うほど、すべての音が消えた。
「先生が、大好きでした!」
ドクドク心臓が暴れ出す。期待しなかったと言ったら嘘になるだろう。でもまさか、こんなにも真っ直ぐな言葉で伝えてくれるとは思わなかった。
「先生……? 呆れちゃいましたか?」
「っ、いや……過去形、なのか?」
一瞬、キョトンとした表情をしたが次の瞬間には顔を真っ赤にして“今も好きですよっ”と慌てて言った。
そんな彼女が可愛くて。思わず抱き締めてしまうほどに、俺の心は疾うの昔に決まっていたのだと思い知る。
「ひゃっ!?」
「先に言われたけれど、俺も好きだ」
「っ!」
「ずっと、ずっと君に恋をしていた」
耳に吹き込むように囁くと、腕の中の彼女が首まで真っ赤になって震えた。
「卒業……おめでとう。茉莉」
自分で思っている以上に甘い声音で彼女の名前を呼んでいたーー
了
これにて蒼視点完結となります。
お付き合いくださいまして、ありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ
二人のその後とかまた降ってきたら書きたいなと。
誤字、脱字などありましたらご指摘くださいませ☆