前編
「あぁ、此処はテストに出るからな。しっかり覚えとけよ〜」
黒板に背を向けて教室全体を見回しながらプリントを手にしてそう言うのは桐生蒼先生。私のクラスの担任の先生。
「桐生センセ、俺覚えられないって!」
「お〜い。丸暗記でも何でもいいから、少しぐらい頑張れよ」
「ってぇ」
先生の目の前の男子生徒がそう言うと、呆れたように額にデコピンする。
「そーちゃん先生、暴力はんたーい」
「こんな時ばかり便乗するなっ」
ポコンと笑いながらプリントを丸めて人気者のクラスメイトの頭を軽く叩くと、クラス中が笑いに包まれた。
ーーキーンコーン……カーンコーン……
「ーー起立、礼……」
チャイムが鳴り、学級委員の子が挨拶をすると授業で静かだった空気がいっせいに騒がしくなる。友達と話す人、廊下に出る人、復習する人、それぞれ。
私は友達と話そうと席を立つ。
「あ〜、橋本! これ運ぶの手伝ってくれ!」
ガヤガヤと騒めく教室の中でもハッキリ聞こえる、よく通る声で私を呼んでプリントの束を渡してきた。
「茉莉ちゃん、今日も先生の使いっぱだね〜」
「楽しそうだから別にいいけどサ」
「はーい。……うん、好きでやってる事だから。イッテキマス」
「「いってらっしゃ〜い」」
ひらひら手を振る友人、彩乃ちゃんこと倉田彩乃とりょーちゃんこと清水稜子に見送られて、先生の後を追いながら教室を出た。
先に行っちゃったと思ったのに、私が追いつけるようにいつもよりもゆっくりと歩いていて。さり気ない優しさが嬉しい。
私よりも頭一個分は高い先生の後頭部を見ながら歩いて行く。
(あ、寝癖発見……)
「先生」
「ん〜? どうした〜?」
「寝癖、ついてますよ〜?」
まのびした声で返事をして振り返る先生につられて、私もまのびした声でそう言うとえっ、マジか! と、少し慌てた先生が可笑しくてクスクス笑ってしまう。
「笑うなよ」
ちょっと低くした声で言ったけど、先生も顔は笑っていて全然怖くなかった。
職員室に着いてプリントを先生に渡すと、いつもありがとなって頭の上にポンっと手を置いて撫でてくれた。
先生、気づいてますか?
先生がありがとうって言うと、眼鏡の奥の目尻が少し下がるの。
照れている時は手の甲で唇を触るの。
先生は気づいてますか?
私が好意を寄せていて、下心アリで手伝っているコト。
* * *
夏休み前のうだるような暑さが続く去年の七月。
その日はいつにも増して、気温が高かった。
「今日は暑いから熱中症には気をつけろよ〜」
「そーちゃん先生、松岡先生が休みなら今日体育なしでいいじゃん」
「こんな暑いのにプール無しとか死ぬ〜!」
「暑いー」
「クーラーのある部屋に帰りたい」
それぞれブツブツ言いながらもみんなTシャツとハーフパンツに着替えて体育館に向かっていく。
「あー、暑い。……私達も行こうかネ?」
「うん……」
「茉莉ちゃん、少し顔色悪いみたいだけど大丈夫?」
「え〜? 元気だよ?」
「それなら良いんだけどサ。茉莉はすぐ無茶するから心配」
私の顔を覗き込む二人に笑顔を見せて、大丈夫だよってアピールをする。
「じゃ、今日はバドミントンだからペア組んで、ネット準備しろな〜」
「「「はーい」」」
それぞれペアを組んでやり始めるけど、人数が奇数のクラスなので一人余ってしまう。いつもみたいに3人で回しながらやろうかーって話をしていた所で先生が近づいてきた。
「あぁ、奇数クラスだから一人余るのか」
「先生」
「そーちゃん先生が茉莉ちゃんと組む?」
「お、やるか?」
「えっ」
「いいネ、うちらのペアと茉莉、そーちゃんペアでいいじゃン♪」
「ちょっ」
「そーちゃん男だからハンデ欲しいナ」
「いやいや、現役学生と元学生の体力差がな……」
「まっ」
私の意見なんかそっちのけで、どんどん話が纏まってしまった。
「あれ、……倉田ってテニス部じゃなかったか?」
「え〜? 気のせいです、よっ!」
「うわっ!」
「彩、それはエグい」
「彩乃ちゃん……」
「えへへ」
はにかむようにテヘペロしている彼女は、普段はのほほんとしてるのにラケットを持つと性格がドSになって、先輩達にカゲで鬼畜主将と呼ばれ恐れられているのは本人に内緒の話。知られたらどうなるんだろうね?
「橋本っ、そっちいった!」
「あぁ、無理だってばー!」
「あはは。茉莉ちゃんガンバ〜」
ギリギリ先生が届かない所で私が走らないと間に合わないように的確に打ち込んでくる彩乃ちゃん……。やっぱドSかも。
「もー、彩乃ちゃん鬼だ……よ……?」
彩乃ちゃん達の方を振り向こうとして、クラっと視界が揺れた。
「茉莉ちゃん? 勝負の世界に手抜きなんてあり得ないんだよ〜?」
「彩ー、ほどほどに……っ、茉莉!?」
「橋本っ!」
「えーー?」
どんどん視界が傾いていって、目が開けていられなくなる。
(気持ち悪い……)
床に叩きつけられると思ったけど、そんな衝撃もなくて先生が私を呼ぶ声を最後に意識が暗転した。
「ーーん……?」
「気がついたか?」
ゆらりゆらりと揺れる振動で目が覚めると、先生におんぶされていた。
「えっ、何っ?」
「倒れたの、分かるか?」
「あ……」
「すぐに目が覚めて良かったよ。橋本、体育始まる前は顔色悪かったって?」
怒ったような低い声でそう言う先生からする、ベルガモットの爽やかなコロンの香りがいつもより濃く感じて、ジャージ越しに伝わってくる温もりや太ももに感じる先生の素肌が恥ずかしくて心臓が跳ね回る。
「は、はい。……あ、あの、降ろしてく……」
「駄目」
「先生っ!」
「だーめ。もうすぐ保健室だしこのまま背負われてなさい。ほら、ちゃんと掴まってないと落ちるぞ〜」
「っ!」
降ろしてくれない先生に、もうどうとでもなれって首に回していた腕を思いっきりぎゅーってしたら、先生がぐえって変な声を出した。
「っは、あはは! ぐえって……!」
「橋本っ、締め過ぎだからっ。……まぁ、それだけ笑えるならもう大丈夫だろ」
「先生……」
大きな背中に体を預けて、ごめんなさいの意味も込めて今度はきゅって優しく力を入れると、先生が笑った気がした。
気になる人から、好きな人に変わった瞬間。
* * *
「橋本も来年の三月には卒業か〜。寂しくなるな」
寂しそうに微笑んだ先生の顔を見たら急に切なくなって。無意識のうちに胸の辺りで手を握り締めてた。
『好き』
その二文字が言いたい。でも言えない。
言ってしまったら、きっと先生は私と距離を置いてしまうから。
そんな気持ちを隠して無理やり笑顔を作って覗き込むように首を傾げた。
「先生のお手伝い要員が減りますからね〜?」
「それだけじゃないけどな?」
「え?」
ニヤリと意地悪そうに笑う先生にドキってした。
「ほら、HRが終わると橋本は飴をくれるだろう? 楽しみがひとつ減る」
二年生の時のクラスで自己紹介をした時に甘い物が好きだぞ〜と言った先生に、クラスの子へ配るついでにあげるってフリをして飴をあげてた。
「先生、教師が生徒にタカってどうするんですか?」
「先生も疲れた時は甘い物が欲しくなるんだよ〜」
冗談を言い合ういつもの距離。先生と生徒の枠組みから離れられない距離。
私ばっかりドキドキしてズルいよ、先生