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第二章 友広と洋一

 勘弁してくれ。俺は洋一ヨウイチの部屋の扉を乱暴に閉めて歩き出した。遅刻なんてしたことのないクソ真面目な奴なのに、どうして今日に限って……。

 洋一が住んでいるのは大学の敷地内にあるボロイ学生寮だ。図書館でいくら待っても来る気配もなく、電話すらつながらない友人にしびれを切らして、親切な俺はあいつの部屋まで迎えに行ってやったわけだ。正直、あの洋一が約束をすっぽかすなんて、どこかでぶっ倒れてるんじゃないかと少し心配した。

 それにしても……。

 ついついにやけてしまう。洋一を責め立てたのは半分は演技だ。待ちぼうけをくらわされた友人として一応怒ったが、本当は面白くもあった。

 洋一はいつも他人の目を気にする。積極的に人と関わろうとしないし、人に迷惑をかけるなんてもってのほかだと、いつも気を張っている。

 あいつはもっと適当に生きるべきなんだ。寝坊だってたまにはすればいいし、俺に迷惑をかけたっていいんだ。まあ……、今回はちょっと、非常に困っているが。

 「友広トモヒロ!」

 背後からばたばたと足音がして洋一が追い付いてくる。俺はちらりとその姿を見て、わざとぶっきぼうに言った。

 「原稿、ちゃんと持ってきたか?」

 「ああ、大丈夫。本当にごめん」

 「まっ何とかなるだろー。後で飲み物でもおごれよー」

 にやりと笑って顔を覗き込むと、洋一は心底すまなそうに俺の目を見返す。

 「ああ、好きなものおごるよ。本当に、ごめんな」

 「だーかーらー」

 俺は大げさに呆れてみせた。

 「俺は許すっつってんの。今お前が考えるべきことは俺のご機嫌じゃあない。いかに発表本番を乗り切るかだ。それに、俺が今までどれだけお前に迷惑かけてきたと思ってんだよ。たまには仕返ししてもらわないと、さすがに良心が痛む」

 「……ごめん」

 だからお前は、何に対して謝ってんだよ。つい強くなってしまいそうな言葉を飲み込んで、洋一の肩を軽くたたく。今回は迷惑をかけられただけでも良しとしよう。

 洋一の住んでいる寮がいくら大学の敷地内にあるとはいえ、これから向かう講義室は敷地のほぼ反対側。広いキャンパス内をつっきるにはそれなりに時間がかかる。講義室に着いたのは授業が始まる五分前だった。

 ほとんどの席が埋まった講義室を見わたし、空席をさがす。普段は半分も埋まれば良い方だが、今日は単位がかかった発表日だけあって、いつになく出席率が良い。

 「あ、あの真ん中のとこ空いてる」

 洋一をひっぱって教室の中央の席まで連れて行く。こういう人混みでは洋一はまったく役に立たない。人の顔を見渡すことができないのだ。つまり教室全体を見渡すことができないわけで、当然空席も見つけられない。

 隣で必死に原稿を確認している洋一を横目で見てから周囲を見回す。右後方に目をやった瞬間、しまったと思った。

 そこには林田ハヤシダという男が座っていた。引き締まった身体で短めの黒髪を自然に流した、スポーツマン然とした爽やか青年。認めたくないが、俺より少しだけイケメン。

 俺は自分の赤茶に染めた髪をかき回し、小さく舌打ちした。どうして最初に気づけなかったんだ。洋一の様子を伺う。頼むから後ろを見るなよ。

 林田の方は洋一にすぐ気が付いたようだった。さっき俺が後ろを向いた時、林田は射るように洋一の背中をにらんでいた。普段の好青年ぶりからは考えられないような冷たい目で。



 俺が初めて洋一と会ったのは去年。大学の入学式の翌日だった。その日はオリエンテーションが午前中で終わり、一人暮らしのアパートに帰る気になれなかった俺は、キャンパス内を散歩することにした。

 俺としては、うららかな午後の日差しを受けながらノートなんかを脇に抱えていかにもな大学生をやってみたかったのだが。あいにく大学はサークル勧誘の只中にあり、道は人でごった返していた。一度だけため息を吐いてから気をとりなおす。これもまた大学生活の醍醐味だ。

 そう思って歩き始めたのだが、三十分とたたないうちに俺は音を上げた。一歩進むごとにやたらテンションの高い上級生に捕まり、まともに歩けない。何度も興味のないサークルのテントに連れて行かれ、メールアドレスを書かされた。きっとそのうち勧誘メールが山ほど来るんだろう。

 本日二度目のため息を吐き、不本意ながらも活気溢れるキャンパスから退散することにした。

 とりあえずこの人混みから逃れようと、建物の間の路地のような道に入る。ここをまっすぐ抜ければ裏門のあたりに出るはずだ。その道は両側にそびえる建物に日差しをさえぎられて薄暗く、大人二人が並んで歩くには少し狭かった。雑草が伸び放題で歩きづらいことこの上ない。先程までの喧騒が急に遠ざかった気がして、俺は身震いをした。足が自然に速まる。

 路地を抜けた途端、俺はぎょっとして立ち止まった。建物の陰に人がうずくまっている。グレーのパーカーを着た背中が激しく上下し、荒い呼吸の音が響いていた。

 おいおいおい。辺りを見回してみるが、俺とパーカー男の他には誰もいない。さすがにスルーするのはちょっとな……。

 本日三度目のため息を吐く。

 「あの、大丈夫ですか?」

 どう見ても大丈夫じゃなさそうな相手に向かって無難な言葉を投げてみた。もしかしたら相手が変質者で、俺が近づいた途端にナイフで刺されたり、なんて考えがふっと頭をよぎる。まさかな。

 「医務室の人呼びます?」

 パーカー男が、うずくまったまま顔だけをこちらに向ける。目が合った瞬間、男は視線を地面へとそらした。顔には脂汗が浮いていて、異常に顔色が悪い。

 「……すみません。大丈夫です。気にしないでください」

 意外にしっかりとした声を出すな、とそんなことを思った。

 男は壁に手をついて立ち上がると、こちらにぺこりと頭を下げ、裏門の方へと歩いていく。左手に黄緑色の大きな封筒が抱えられているのが見えた。午前中のオリエンテーションで配られたのと同じ封筒だった。つまり、同じ一年生だ。

 遠ざかる男の背中を見送る。その頼りない背中が何となく頭に焼きついた。あまり大丈夫そうには見えないけど。まあ、本人に断られちゃあ何もできない。

 気を取り直して、裏門へ向かい歩き始める。同じ方向に歩いて行った男に追いつくかとも思ったが、再び男の姿が見えることはなかった。

 裏門の手前で学生寮を通り過ぎる。家賃は激安だが狭いしボロイ。おまけに男子寮のため、臭い。入学前に一度見学に来たが、入った瞬間にこれはないなと思った。そこから、生活費の削減を第一に考える母親との冷戦が勃発し、日々の説得の末、無事に一人暮らしの権利を勝ち取った。世の中諦めなければ何とかなるものだ。



 数日間の休みを挟んで、翌週から講義が始まった。俺は毎日、声をかけてくる奴の隣に座り、適当に話し、付き合い程度に飲み会に顔を出した。

 そんなある日、講義室の片隅にグレーのパーカーが座っているのが目に入った。俺は足を止め、灰色の背中を見つめた。別に知り合いってわけじゃあないしな、と左手で髪をかき回し、いつもの友人たちが座っているあたりに目をやる。俺に気づいた奴が何人か手を振ってきた。

 「友広おっはよー」

 まるでこの講義室は自分のものだと言わんばかりの自信にあふれた声が響く。俺はその声に笑顔で手を振り返し、少し考えてグレーパーカーの隣を目指した。

 「ここ、空いてる?」

 パーカー男が顔を上げ、俺の顔を見てはっとしたように目を開いた。どうやらおれのことを覚えているようだ。何となくほっとして、安心した自分に驚く。

 「空いてるけど」

 パーカー男は愛想なく視線を外し、前方に向き直りながら答えた。

 「ちょっと友広―、こっち来ないのー?」

 何か話そうかと口を開きかけたところで、普段と違う席を選んだことに対する非難の声が投げつけられた。声の主を見ると、さっき手を振ってきた女子がすねたように唇をとがらせ、精一杯可愛い表情をつくっている。俺はいたずらっぽい笑顔を返し、心の中で呟いた。どこに座ろうが俺の勝手だろ。

 「こっち座っていいの?」

 意外にもパーカー男が自分から話しかけてきた。顔は前を向いたまま、言葉は確実に俺に向けられている。

 「良いも悪いも、別に約束なんかしてねーし」

 「そっか」

 あれ?素っ気なくうなずくパーカー男の横顔を見つめる。こいつ、なんか嬉しそうじゃないか?

 ガン見する俺の視線に気づいたのか、パーカー男がこちらを向いて顔をひきつらせた。不安げに目をふせてしまう。

 「俺の顔、何かおかしい?」

 「え、いや、別におかしいとかじゃなくて。えっと、前に会ったよなと思ってさ。ほら、オリエンテーションの後に裏門の方で。覚えてるか?」

 なぜか俺はしどろもどろになって、取り繕うように早口で言った。やましいことがあるわけでもないのに何を慌ててるんだ。かっこわりーな。内心で舌打ちをした。

 「あの後さ、大丈夫だったか?」

 「あれは、ちょっと貧血だったんだ。わざわざ声かけてくれたのにごめん。ありがとう」

 「いや俺は何もしてねーし。大丈夫だったんならいーよ」

 「気使わせてごめん」

 うつむいていたパーカー男が申し訳なさそうにこちらを見る。

 やっぱりこいつ、嬉しそうに見える。俺は心の中で呟いた。すげー不安そうなのに、すげー嬉しそうにみえるよ。

 「お前、名前何てゆーの」

 俺が質問をした直後、ハゲ頭の講師が講義の開始を告げた。パーカー男は困ったように講師を見て、無言でノートを開いた。授業中は私語厳禁らしい。

 遠くの席から、思いっきり私語を楽しむ友人たちの声が流れてくる。あいつらは、一秒でも黙ったら死んでしまうとでもいうように喋り続ける。

 周囲の声に耳を傾けていると、左手に何かが触れた。それはパーカー男が開いていた大学ノートだった。一番上の真ん中に何か書いてある。

 『サカキ洋一』

 丁寧にふり仮名をふった文字が控えめに名乗っていた。俺はとっさに口を開きかけ、考え直してルーズリーフを一枚取り出した。一行目に短い言葉を書く。

 『お前の名前?』

 『そう。俺の名前』

 『俺は福田フクダ友広』

 榊はしばらく俺のルーズリーフをじっと見つめていたが、結局返事を書くことなく前を向いてしまう。俺は少し残念な気分でシャープペンを机に置いた。講師のハゲ頭がせわしなく黒板の前を行き来する。黒板は早くも半分が字で埋まっていた。講義を聞くでもなくぼうっとしながら榊のノートに目を落とす。榊のシャープペンは板書を正確に写し取っている。

 一番上に書かれた短い言葉は消されることなく、ひっそりと主張を続けていた。そんな落書きみたいな文字、消せばいいのに。一行目からきれいに書けばいいじゃん。

 心の中でつっこみを入れながら自分のルーズリーフを見る。消しゴムを指先でもてあそびながら、でもやっぱり残しておこうかな、と自分が書いた素っ気ない言葉を繰り返し読み返した。俺はどうせ板書なんか写さないし。

 『よろしくサカキ』

 三行目に文章を足して、ちらりと榊の横顔を伺う。榊はひっきりなしに追加される板書を追うのに忙しく、こちらを見る余裕はなさそうだ。結局講義が終わるまで、三行目の言葉を見せるタイミングはなかった。

 講義終了時刻の十分前、ハゲ講師が激しい板書によって息を切らしながら、少しだけ早い終了を告げた。学生たちの声は生き返ったように大きくなり、講義室の中が急激に騒がしくなる。榊は特に動こうともせず、じっとノートを見つめていた。

 俺は少し迷ってから、ずいとルーズリーフを押し出した。榊は驚いたように俺を見て、その表情のままルーズリーフを凝視する。しばらくそのまま固まっていたが、躊躇うようにノートにシャープペンを走らせ、俺の前に差し出してきた。

 『ありがとう』

 板書の最後の部分から一行空けて、そんな返事が書き込まれていた。よろしくではなく、ありがとう。何に対してのありがとうかはよくわからなかった。ただ、俺に向けられた『ありがとう』がこいつのノートにずっと残るんだなと、ぼんやり考えた。

 それから俺は講義室で榊を見つけると隣に座るようになった。隣に座ったからといって仲良く喋るというわけではない。気が向けば言葉をかけるが、大抵はただ黙って、それぞれに好きなことをしていた。そんな時間を俺は結構気に入っていた。

 


榊と知り合って二ヶ月がたった。二ヶ月の間、一度も講義室以外で榊と会うことはなかったから、夜の学生食堂で榊の後ろ姿を見つけた時、俺は声をかけるのをためらった。俺たち二人が知り合いなのは、あくまであの狭い教室の中だけのような気がしていた。

 夕食時も少し過ぎた閉店間際の学食はガラガラにすいている。図書室で課題を終わらせた俺は、どうせコンビニ飯を食うならと、帰る前に夕食をとることにしたのだ。

 榊は挙動不審にうろつく俺に気づく様子もなく、黙々とから揚げを口へ運んでいる。俺は榊がから揚げを丁度二個たいらげる間ずっと躊躇っていたが段々と馬鹿らしくなり、最大限のさりげなさを装って榊の向かい側にトレーを置いた。

 「よう。いつもこんな時間まで残ってんの?」

 榊が口にから揚げをつめたまま俺を見る。こいつは、俺が声をかけると必ず以外そうな顔をする。二ヶ月たった今でも俺が話しかけてくることはこいつにとって予想外のままらしい。まあ別にいいけどさ。

 「俺、寮に入ってて。今晩のメニュー苦手なのだったから、今日だけたまたま」

 「寮って裏門のとこの男子寮?」

 「そう」

 「あそこ超ボロイよな」

 言ってしまってから少し後悔した。榊は気を悪くしただろうか。

 「まあ、俺のアパートも人のこと言えねーけど」

 慌ててフォローした俺にふっと榊が表情をゆるめた。とても小さな変化で、笑顔とまでは言えないものだったが。

 「おい」

 背後で突然硬い声が響いた。俺は最初、他の誰かがもめているのだと思い、振り返りもしなかった。しかし俺越しに声の主を見た榊が青ざめたのに気付いて、慌てて振り向く。

 俺の座っている場所からテーブルを一個隔てた所に男が立っていた。男の目を見た瞬間、ぞっと背筋に悪寒が走る。

 「何してんだよこんな所で。お友達と仲良くご飯か?」

 男の声は硬く、冷たく、呪いの言葉のようだ。その男は俺の知り合いだった。しかし男の視線は俺を通り過ぎて榊を見据えている。あからさまな嫌悪と憎悪が榊に突き刺さる。何がどうなっているのか全くわからない。

 榊は右耳のあたりを掌で強く押さえ、血の気の引いた唇を細かく震わせていた。だめだ。俺が何か言わないと。

 「林田、何か用か?」

 「ん?ああ。俺もそいつと知り合いだから、声かけてみただけだよ」

 林田は別人のような爽やかスマイルを俺に向けてくる。別人てゆーか、こっちが俺の知っている林田だ。正義感が強くて、真っ先にいじめられっこを助けるような。そういう男だと思っていた。

 だけど。

 「邪魔して悪かったな。じゃあ、またな福田」

 「おー」

 林田はテイクアウトの弁当をぶら下げ、颯爽と歩いていく。光を放つ精悍な後ろ姿が黒く塗りつぶされていくような気がした。

 どうして林田があんなふうに榊を睨んだのかとか、そんなことどうでもいいくらいに、俺はあの目に恐怖を感じた。どうやったらあんな目で人を見れるんだ。

 林田の姿がすっかり見えなくなったのを確認して榊を振り返る。榊は右耳を押さえたまま焦点が定まらない目を見開いていた。呼吸が苦しそうだ。

 「榊」

 静かに名前を呼ぶと、榊の肩がびくりとはねる。

 「大丈夫か?」

 「……ごめん。俺、もう帰るね」

 榊がふらりと立ち上がる。俺はテーブル越しにその腕をつかんだ。

 「ちょい待って。俺も一緒に出る」

 少しも食欲がわかない胃に親子丼をかき込んで、俺たちは二人で学食を出た。無言で歩き続け、学生寮が見えてきたところで俺は立ち止まる。色を失った榊の顔を覗き込んでいった。

 「具合悪いだろうけど、俺んちまで歩けるか?」

 「……」

 「寮だと二人で寝れるスペースないだろ。うちだったら一応布団二枚あるから」

 「え、ちょっと待って」

 「汚ねーアパートだけど文句言うなよ。言っとくけど寮よりマシだから」

 「ご、ごめん。あの、今日はちょっと……。ごめん」

 「だーかーらー」

 俺は榊の拒絶に気づかないふりをして言った。

 「一人になるなっつってんの」

 榊がぽかんとした顔をする。青白い間抜けなその顔を見て、俺はなぜか泣きたくなった。

 「お前にどんな事情があるのかは知らないけどさ、知らないけど、こういう時に一人になるのは絶対良くないから。だから」

 俺は息を一つ吐いて、榊の耳に届くようにゆっくりと声を出した。

 「付き合うっつってんだよ」

 榊は唇の端を少し震わせて、涙を流した。泣きながら、俺の家まで歩いた。そして、俺の家に着いた途端にトイレで吐いた。胃の中の物も、胸の中の物も全てを吐き出すように。俺はその苦しそうな声を聞きながら考えた。

 確かに榊との関係は好きだったけど。講義室の中だけの、面倒臭くない関係は気に入ってたけど。でも、もうやめてもいいんじゃないだろうか。あんなふうに距離をとる必要はもうないんじゃないか?

 俺が密かに決意をしたその夜、榊はぽつりぽつりと自分の話をした。両親のこと。養護施設のこと。林田のこと。

 「俺、昔からこうなんだ。皆から嫌われて生きてきたんだ。昔父さんがよく言ってた。俺はバケモノなんだって。俺の本当の姿はすごく醜くて、だから俺を好きになる奴なんかいないって」

 きっと、今まで出会った人全員が榊を憎み嫌ってきた訳じゃあないと思う。きっといくつかの好意にだって出会ってきたはずだ。そうじゃなきゃ、こうして仮にも平凡な大学生として過ごせるとは思えない。

 別に人類全員がお前を嫌っているわけじゃない。俺だってお前のことを嫌ってなんかない。俺を、お前の親や林田と一緒にすんなよ。

 でも、出会ったばかりの俺がこんなこと言ったって意味ない。俺の薄っぺらい言葉で晴らせるほど、榊の中に沈んだ過去は軽くはないんだ。多分。

 「他人に好かれることなんて、諦めたらいいんだ。諦めちゃえばラクなんだよ」

 最後に榊はかすれた声で言った。俺は何も返すことができなかった。諦める必要なんかない。諦めないでほしいけど。そんなこと言えない。そんな厳しいこと言えねーよ。

 俺たちはそのまま、何も言わずに朝を待った。俺は、結局何も言ってやることができなかった。



「友広、ハンバーガーだけで本当によかったの」

 ポテトを頬張りながら洋一がもごもごと言った。

 「十分奢ってもらったって。腹一杯だ。あと一口食ったら吐く」

 投げやりに言って寝ころんだ俺に、洋一が困ったように笑う。

 「それならいいけど。食べんの早いから足りないかと思った」

 アパートの狭い部屋にファストフードの匂いが充満している。

 こうして二人でいる時、洋一はごく普通の大学生だ。普通に喋るし普通に笑う。そう、洋一は笑うようになった。これはすごく大きな変化なんじゃないかと思う。

 それでも、洋一の顔によぎる寂しげな陰に気づいてしまった時だったり、洋一に向けられる他人の目を見てしまった時だったり、ふとした瞬間に洋一の心の底を思い知る。

だから俺は努めてなにくわぬ顔をして、洋一との時間を過ごす。洋一が普通に気楽な大学生でいられるように。

「そういえばお前」

しんみりしてきた自分の思考を断ち切ろうと、俺は勢いをつけて起き上がった。

「昨日出かけるって言ってたよな。帰るの遅かったのか?」

「そんなことないよ。明るいうちに帰ってきた」

何でそんなことを聞くのかと、洋一が目で問いかけてくる。

「ふうん。いや、お前があそこまで寝過ごすなんて、何か理由でもあるのかと思っただけ」

「寝不足ってわけじゃあなかったんだよなー。どちらかというと寝過ぎだったんだけど。自分でもよくわかんないんだよね。本当ごめん」

「よっぽど疲れてたんじゃね。どこ行ってたんだ?」

「んー、ちょっと森に、行ってた」

「……は?」

洋一がさらりと口にした予想外の答えに、俺は一瞬反応できなかった。

「お前、森って、あの森?」

「うん。生きもののいない森」

生きもののいない森。それは大学から歩いて三十分程のところにある、山の麓に広がる森のことだ。

その森には生きものは住めないという。

最初はただの都市伝説だと思っていた。けれど都市伝説として片づけてしまうには、おかしなことが多すぎた。

入学したばかりの頃、俺たちの学年には森についての噂が飛び交っていた。先輩や地元出身の同級生から聞いたり、自ら図書館やネットで調べたりと、恰好の暇つぶしを見つけた俺も『生きもののいない森』に興味津々だった。

だけど調べれば調べるほど、奇妙さは噂のレベルではなかった。

まず職員や上級生たちの口が異常に重かった。とにかく森には行くなの一点張りで、その情報の少なさが余計に好奇心を刺激した。

大学の図書室にも森についての資料はたった一冊しかない。それは新聞記事をスクラップしたような冊子だった。記事の内容はすべて、森周辺での不審死。しかも全員が原因不明の心臓発作。そのくせ森内部の調査記録などはいくらさがしても見つからなかった。

俺は一度、林田と森の話をしたことがある。入学してから一週間もたっていない、俺がまだ騒がしいグループの輪にいた頃のことだ。

『絶対おっかしーよなー。やっぱ直接行ってみてーなー』

そんなことを言った俺に、林田は険しい目を向けた。

『やめた方がいい。何かあったらどうするんだ』

真顔でたしなめられ、俺は興をそがれた気分で溜め息を吐いた。

『真面目な奴』

それから何となく森に対しての興味を失っていった。

入学当初は奇妙な森の存在に浮かれていた新入生たちだったが、その興奮もたった一週間ほどで落ち着いた。今では暗黙の了解のように誰もその話題を出さない。これもまたおかしな話だった。

おれはポテトを食べ続ける洋一の顔をまじまじと見た。

「うんってお前……。まさか中まで入ったわけじゃないよな」

「入ったよ」

「まじかよ。何でそんなとこ行ったんだ」

 「人気がないからゆっくりできると思って。寮だと常に人の気配があるし。何となく行ってみたくなったんだ」

 「何となくじゃねーだろ。何かあったらどうするんだよ」

 「……何かって?」

 洋一がきょとんと首を傾げる。まさかこいつ何も知らないのか?呆れた。

 「色々事件が起きてるだろ。森に近づいた奴が何人も死んでる。偶然の域じゃないって。絶対何かあんだよ」

 「本当?全然知らなかった。でも普通にきれいな森だったよ」

 「でも何かあったら……」

 言いかけて、途中で俺はおかしなことに気づいた。確かに森には行くなと言われた。事実人が死んでいる。

 でも、だから?

 最初は俺だって森に行きたいと思っていた。何かがあるなら、それを自分で見てみたいと。けれどいつの間にか、それがとんでもなく恐ろしいことに思えて。絶対にしてはいけないことのような気がしていた。

 何で俺はこんな必死で洋一を説得しているんだろう。

 「普通の、森だったんだ」

 おそるおそる聞いてみる。洋一は少し考えて、ゆっくりと言った。

 「きれいだったけど、確かに生きものはいなかったな。虫が一匹もいなかった」

 「それ全然普通じゃねーし」

 「それと」

 そこで洋一が急に苦い顔をした。

 「それと、女の子がいた」

 「女の子?」

 「うん。しかも、何ていうか」

 洋一は途切れ途切れにその女の子のことを説明した。話の内容は信じられないくらい現実味がなかった。

 「それって幽霊だったりして」

 「……そうかも」

 「え、まじで?」

 洋一は苦笑いを浮かべて言った。

 「わかんないけど。でもその子、俺のこと普通じゃないって」

「そりゃあ、そんな森の奥まで入っていく奴、普通じゃねーだろ」

 「そうじゃなくて。あの子には俺の醜い部分が見えたんだよきっと。俺の中を見透かすような、変なものを見るみたいな、そんな目をしてた」

 洋一の中の醜い部分。洋一が父親に憎まれ、母親に捨てられ、今までずっと苦しんできた原因である何か。それが何なのか本人もわからないらしい。

 心の中の醜い部分なんて、人間なら誰もが持っていると思うのだが、そういうのとは違うのだろうか。俺には洋一のどこが他の奴と違うのかわからない。

 「じゃあ、もう森には行かないんだよな」

 静けさを求めて入った森に人間がいたのでは意味がない。もう森に行く必要はないはずだ。

 しかし洋一はすぐには答えなかった。じっと宙を見つめている。

 「嫌な感じはしなかったんだ」

 「何でだよ」

 「何でかなー」

 気の抜けた声を出しながら洋一がぱたりと横になった。

 「あの子、最後に聞いてきたんだ。明日も来るのかって。俺、結局答えなかったんだけど」

 「それがどうした」

 「その時は何だこの子としか思わなかったんだけど。距離をとろうとする割には、何となく、本当に何となくなんだけど、俺と話したがってる気がした」 

 そして言い訳するように付け加える。

 「でも多分、気のせいだ」

 俺は考えた。洋一の言葉を信じるのなら、それはつまり。

 「その幽霊少女とお前は似た者同士ってことか」

 「……は?」

 洋一は目をぱちくりさせてこちらを見た。俺の言ったことがあまりにも予想外だったらしい。

 「まあ、自分ではわかんねーか」

 「全然わかんない」

 俺はあははと笑って洋一が残していたポテトを一本口に放り込んだ。洋一は難しい顔をして、うーんと考え込んでいる。考えてもわからないと思うけど。

 少し待っても洋一が考えるのをやめないので、俺は話を元に戻すことにした。

 「で?また森に行くのか行かないのか、どっちなんだよ」

 「行く、と思う」

 「その女の子に会うためか?」

 洋一はまたうーんと眉間に皺を寄せた。

 「わかんない。わかんないけど、あのままで終わりっていうのはちょっと……」

 「ちょっと何だよ?」

 「……気になる」

 へえ。いつも殻にこもっている洋一が他人に興味を持っている。めずらしい。というか、初めて見た。

 俺は溜め息を吐いた。これは邪魔しない方がいいんだろうな。

 「しょーがねーな。好きにやってみれば」

 「うん」

 「ただし、何人か死んでるのも事実だ。何かやばそうだったらすぐ言えよ」

 「うん。何か友広、保護者みたいだな」

 お前が頼りなさすぎるからだろうが。俺は左手で自分の髪をかき回し、右手で洋一の頭をはたいた。



 土日をはさんだ翌週の月曜日。洋一は大学に来ていないようで、昼にかけた電話にも出なかった。

 俺は週末に一度も連絡しなかったのを少し後悔しながら、洋一の寮へと向かった。まさか本当に何かあったなんてこと、ないよな。

 「洋一―」

 部屋の扉を軽くノックして名前を呼ぶ。中から返事はなかった。

 じわりと、何ともいえない不安が湧き上がる。

 「洋一?いないのか?」

 しつこくノックを続けていると、扉の向こう側でかすかな人の気配がした。ずずっと身体を引きずる音が近づいてくる。

 かちゃかちゃと鍵を外す音がして扉が元気なく開いた。

 俺はつい顔をしかめた。

 「大丈夫、じゃなさそうだな」

 「ごめん、ここ何日か調子が悪くて」

 無理やり笑おうとする洋一の顔は蒼白で、足元もひどく心もとなく、今にも倒れてしまいそうだ。

 「とりあえず入っていいか?洋一、辛かったら横になってろよ」

 布団に潜り込む洋一の横で俺はあぐらをかいた。ただの風邪だろうか。そうだったら何の問題もない。ゆっくり寝てれば治るだろう。

 けれどさっき洋一の顔を見た瞬間、俺は強い焦りを覚えた。なぜそう感じたのかはわからない。わからないが、このまま放っておいてはいけないと思った。洋一の身体から命がこぼれていくのが見えるようだった。

このまま放っておいては、洋一が死んでしまう気がした。

洋一が、森に殺されてしまう気がした。

膨れ上がる恐ろしい想像を追い出そうと、俺は一度ゆっくりと深呼吸をした。

「あれから森には行ったのか?」

 洋一はちらりと俺の顔を見て、気まずそうに眉根を寄せた。

 「まあ」

 洋一のはっきりしない返事を聞いて、俺の感じた悪い予感は確信に変わってしまった。

 多分洋一は、自分の体調不良の原因が森にあるのだと気付いている。それを俺に隠そうとしてる。あの森には本当に危険な何かがあるんだ。

 「いつ行った?」

 極力さりげなく言ったつもりだったが、言葉は自然と険しいものになった。

 洋一は答えない。布団に横になって俺に背を向けている。

 俺は急激にもどかしさを感じた。どうして隠すんだ。何を隠してる?俺に何を隠す必要があるっていうんだよ。

 「おい、答えろよ洋一」

 俺の苛立ちを感じ取ったんだろう。洋一の肩がぴくりと震えた。

 「……土曜日」

 微かな声で洋一が呟く。違う。洋一は嘘を吐いている。

 「あとは?」

 俺は容赦なく質問を続けた。

 「それだけじゃないんだろ?どうしてそんなふうになった?何か隠さなきゃなんねーことがあんのかよ。頼むよ洋一。頼むから、話してくれ」

 洋一がゆっくりとした仕草で起き上がって、俺の目を正面から見据えた。その目がやけに静かで、俺は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

 「友広。俺、友広にすごく感謝してる。本当に本当に感謝してる」

 とても穏やかな声だった。

 「友広が言った通りだった。あの森は、人が入っちゃいけないところだ。俺は、森に入ってしまった。友広はもう関わっちゃだめだ」

 洋一は一つ呼吸をおいて少しだけ微笑んだ。

 俺は叫びだしたい衝動を必死に抑えていた。ほとんど睨むように、洋一の目を見つめた。

 「俺を巻き添えにしたくないから、だから何も話さないのか?この期に及んで変な気つかってんじゃねーよ」

 声を荒らげる俺をなだめるように、洋一がゆるゆると首を横に振る。

 「これはただの俺のわがままだ。俺が好きでこうしてるんだ。ちゃんと自分で選んだんだよ。友広には、関係ない」

 静かに淡々と話す洋一の声が僅かに震えた気がした。けれどそれも、俺がそう思いたかっただけかもしれない。

 俺は、そっと立ち上がった。動かない洋一を部屋に残して扉を開ける。部屋の中を振り返ると、洋一は穏やかな顔のまま宙を見つめていた。



 俺には、洋一に隠していることがある。俺の兄貴の話だ。

 兄貴は俺より一歳上で、とても物静かな人だった。小さい頃から活発でチャラチャラしていた俺とは性格も趣味も全然合わなかった。

 昔の俺はとんでもなくガキで、まあ今でもガキなんだけど、弱い人間の気持ちが理解できなかった。クラスの中でも自分と似たような派手な奴とつるんでいたし、地味な奴をからかって笑いの種にしたりもした。

 時々、その頃のことを思い出す。

 中学二年生の四月、新しいクラスになって気分が浮足立っていた俺は、珍しく兄貴に学校の出来事を話した。その時何を話したか、正直よく覚えていない。当時の俺にとっては記憶にも残らないくらい些細なことだった。とにかく、こんな笑える奴がいたとか、こいつにこう突っ込んでやったとか、聞いていて気持ちのいい話じゃなかったと思う。

 兄貴は俺が得意になって話している間、ただ黙ってそれを聞いていた。俺は、兄貴が少しも相槌を打たないことが不満で聞こえよがしに舌打ちをした。

 「少しくらい笑えよ兄貴い。兄貴がそういうノリの悪い奴だから、俺は恥ずかしくて友達に兄貴のことを言えないんだろー」

 今思い返すと、自分で自分をぶん殴りたくなる。俺は決して兄貴のことが嫌いだったわけじゃない。多分俺は兄貴が好きだった。それなのに、俺はあまりにも視野が狭く、お子様で、馬鹿だった。

 兄貴は優しい笑顔で俺の目を見た。

 「他人が自分と違うことがそんなにおかしい?友広」

 予想外の言葉に、俺はすぐに返事ができなかった。

 「だ、だって、それが普通だろ。あいつらがすげー陰気だから、俺が皆を盛り上げてやったんだ」

 「盛り上がったのは本当に皆か?自分たちだけじゃなくて?」

 兄貴の声は優しかった。

 「お前の言ったことで相手がどんなに傷ついたか、想像できるか?」

 俺は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしかったんじゃない。悲しかったんだ。兄貴に自分を否定されるなんて思ってもいなかったから。

 俺はむきになって言った。

 「そんなの、あんくらいで傷つかねーよ、普通。だってただのシャレだぜ?」

 兄貴は悲しそうに、首を横に振った。

 「お前が平気だからって、どうして相手も平気だとわかるんだ?お前の言うシャレで傷つくのは、相手が悪いのか?」

 俺は押し黙って強く拳を握っていた。わからなかった。こんなの、まるで俺がイジメをしたみたいじゃないか。

 「友広、決めつけないで考えてごらん。人がどういう言葉で傷つくのか。傷ついた人間がどういう顔をするのか。友広、考えてごらん」

 兄貴がこんなに自分の考えを口にするのも、怒ったのを見るのも、これが初めてだった。だから俺は、その内容よりも怒られたという事実に衝撃を受けた。兄貴は悲しそうに、諭すように、とても優しい目で怒っていた。

 それから俺は、クラスの中でも会話の中心からは外れるようになっていた。

反省したとか、今までの自分を恥じたとか、そんなお利口な理由じゃない。ただ、からかわれている奴らを見る度に、兄貴のあの目を思い出した。胸の底に鉛が沈んだような、嫌な気持ちだった。

俺がしてきたのはイジメ?俺が悪かったのか?そんなに俺は残酷なことをしたのかな。

その日からたった三日後のことだ。

兄貴が、死んでしまった。

自分のベッドの中で、手首を切って死んでいた。

朝、めずらしく起きてこない兄貴を起こしに部屋へ行くと、扉を開けた瞬間につんと鉄臭い空気がまとわりついた。布団には静かに兄貴が眠っていて、その布団が赤黒く染まっていた。

俺は、声も出さずにベッドの縁に座った。まだ乾かない血が俺の制服のズボンに染み込んでいく。

『友広、考えてごらん』

兄貴。あれは、もしかして、別れの言葉だった?

そっと、兄貴の隣に横になった。そして兄貴の血の匂いに包まれて、俺は静かに目を閉じた。

俺の記憶はそこでぷっつりと途切れている。長い眠りについていたように、そこから数か月の出来事がまるで思い出せない。

気づくと、身の回りの何もかもが変わっていた。悪夢から覚めたような、ひどい気分だった。家は知らない土地に引っ越していて、俺もいつの間にか転校していた。週に三回はカウンセラーが家を訪ねてきて、あれこれと話をして帰っていく。

俺は兄貴がまだあの部屋で寝ている気がして、毎日家の中を探し回った。まるで迷子の子どものようだったと思う。毎日毎日、広くもない家の中を歩き続けた。

何日も兄貴を探し続けて、ある日俺は唐突に現実を受け入れた。全身が崩れ落ちるような虚脱感と一緒に、兄貴が消えたことを理解した。

俺の中から抜け落ちた長い時間の間に、兄貴はあっけなく灰になってしまっていた。

俺の身体には、今でもむせ返るような兄貴の血の匂いが残っている。その匂いを俺は毎日吸い込む。俺の一番好きな匂い。

洋一に近づいたのは、自己満足の罪滅ぼしなんだと思う。俺は洋一に兄貴を重ねて、昔の穴埋めをしようとしていたのかもしれない。重い過去を抱えた洋一を支えるふりをしながら、多分本当は俺が洋一に寄りかかっていた。

何でも打ち明けてもらえる、頼ってもらえる存在になりたかった。

俺は兄貴に許されたかったのかな。あの頃の、救いようもなく馬鹿だった自分を、兄貴に許してほしかったのかな。

兄貴の身体は、相当ひどい状態だったらしい。洋服の内側の見えない部分に、度重なる暴行の痕があった。原因は校内でのイジメ。陰湿で執拗な、長期間に渡るものだった。

兄貴は昔から、感情を表に出さない子どもだったから、誰にも何も言わずに、全てをひたすらため込んだんだろう。そしてため続けた感情を爆発させることもなく、一人で死んでしまった。あの優しい笑顔で何もかも隠して。



火曜日の早朝、俺は学生寮から森へ行く道に佇んでいる。まだ太陽は昇っておらず、辺りはしんと静まり返って暗い。

誰一人歩いていない路地で、俺はひたすら洋一を待った。時間が永遠に感じられた。このまま太陽なんて昇らないんじゃないかと思った。

どうしようもなく寂しかった。心細くてたまらなくて、その場で声を出して泣きたくなった。

洋一は本当にここを通るだろうか。もしかしたら、既に森に行ってしまったかもしれない。俺はまた気づかなかったのかもしれない。

嫌な考えばかりが浮かんでくる。じわりと汗がにじんだ。

その時、微かな衣擦れの音がした。

「友広……」

洋一が、薄闇の中に佇んでいる。気づかないうちに太陽が昇り始めたらしく、辺りにはうっすらと陽の光が広がっていた。

「おう。こんな時間に何やってんだ。まだ日の出前だぞ」

俺はふらりと一歩洋一に近づいた。洋一が怯えたように後ずさる。

「どこ行くんだ?確かこの先には森しかないはずだけど」

「友広こそ、何してるの」

洋一が苦しそうに顔を歪めた。体調はますます悪化しているようだった。朝焼けの中に立つ姿はまるで幽霊のようだ。

まあ、俺も洋一のこと言えねーか。暗闇の中に一晩中うずくまっていた俺の顔は、多分相当ひどいことになってると思う。足にも上手く力が入らなかった。

「何してるの、じゃねーよ。俺があれで諦めるとでも思ったのか?行儀よくお見送りしてくれるとでも思ったのかよ。馬鹿にすんじゃねー!そんな簡単に納得してたまるか!そんな簡単に死なれてたまるかよ!」

俺はいつの間にか叫んでいた。その声は早朝の冷えた空気に吸い込まれ、辺りは再びしんと静まり返る。

「昨日お前の部屋を出てから、俺、ずっとここにいたんだ。ずっと、一晩中ここで待ってた。こうでもしないと、お前俺の話なんて聞かねーだろ?」

洋一は黙って俺の顔を見つめている。暑くもないのに、洋一の額には汗が光っていた。

「最初に言っとくけど、俺はお前に説得されるつもりもないし、お前の我儘をきくつもりもない」

俺は洋一の目を正面から睨んで宣言した。

「お前がどうしても森に行くっていうんなら、俺も一緒に行く」

洋一が慌てたように目を見開く。

「そんな、駄目だ!そんなことしたら友広が」

「お前に止める権利なんてあんのかよ!お前が我儘を通すなら、俺だって自分の好きなようにさせてもらう」

洋一の顎から汗がぽたりと地面に落ちた。

「ほら、森に行くんだろ?」

俺は洋一に背を向けてゆっくりと歩き出した。

洋一、頼むから気づいてくれ。こっちにだってお前の居場所はあるよ。頼む、頼む。消えないでくれ。

一歩踏み出すごとに、森への無意識の恐怖が全身を襲った。これ以上近づきたくない。今すぐ引き返したい。そんな感情を抑えて、俺は必至に前へ進んだ。

「友広!それ以上近づいたら駄目だ!」

「福田、止まれ!」

突然二つの怒鳴り声が重なって背中にぶつかった。驚いて振り返ると、洋一の背後に林田が立っている。

「林田、どうして」

「大会が近いからな、部活の自主練だ。そしたら何か騒がしかったから見に来てみたんだよ。福田、いいか、絶対にそれ以上森に近づくな」

林田が真剣な声で言った。念を押すように頷いてから、険しい目で洋一を見据える。洋一は林田を振り返ったまま固まっていた。

「お前が福田を巻き込んだのか」

洋一の横顔が震えているのがわかる。洋一は溺れた金魚のように口をぱくぱくさせていた。

くそっ、よりによってこんな時に会うなんて。俺は大きく息を吸って、林田へ向かって一歩踏み出した。

その瞬間、目の前が真っ白になった。光が弾けたように何も見えなくなる。平衡感覚を失って、身体がぐらりと傾いだ。遠くで声が聞こえる。俺を呼んでる。

息が苦しかった。何が起きたのかまるでわからない。

洋一を止めなきゃ。俺が助けなきゃ。兄貴、兄貴、兄貴。

真っ白だった視界が徐々に暗闇に覆われていき、俺は何も考えられなくなった。

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