海の向こう
誰にも邪魔されず二人だけの夜を過ごし、朝が来ても軽太子はずっとそばにいてくれた。
もう離れなくてよいのだ。
「山を越えなければならぬ」
昼過ぎまで横になっていた軽大郎女に、軽太子は言った。
「山を越えるとは」
「ここにいては、いつか穴穂皇子がやってきて、再び我らを離そうとするだろう。囚われる前に、誰もいない場所へ行き、そこで幸せに暮らそう」
「おあにぃ様の言う通りに、吾は従います」
伊予国は山に囲まれており、見渡す限り緑が生い茂る。
どこを越えるのかと訊ねると、緩やかな稜線を描く連峰を指差した。
「あの山だ」
「参りましょう。おあにぃ様、吾は負けませぬ」
青白い顔をした軽大郎女は笑顔を見せた。
少ない供を従え山に入った。険しい山ではない。しかし、獣道は細く草が生い茂って前に進みにくい。ぬかるんだ泥土を踏みしめて、一行は山を越えた。
一日もかからなかった。
子どもの足でも越えられるたやすい山である。
軽太子の一行が山を越えると、土地の人は手厚くもてなしてくれた。
小さな邸を建て、そこで過ごした。邸の目の前には、横に広がる大きな池がある。池は土地の人たちの生活の一部であった。
水鳥や渡り鳥が来て、池に潜む貝を食べによく飛んできた。
軽大郎女は鳥たちを見て心が和んだが、背中にそびえる山の向こうから、いつ、穴穂皇子が追ってくるのか気が気でならなかった。
「泊瀬の山を覚えているか」
はつせとは、共に遠飛鳥の宮で暮らしていた土地の名前である。
軽太子は、そこで過ごしていた話をよく寝物語に語った。
泊瀬の山の、
大きな丘に、幡を立て、小さな丘にも幡を立てる。
二つの丘に仲良く並んだ幡のように、
ああ、愛しいわたしの妻よ。
槻の木の弓のように、眠っている時も、
梓の木で作った弓のように、立っているときも、
ずっと、ずっと見つめていたい。
軽大郎女は幸せであった。生きている、という実感があった。
軽太子はその時、何を考えていたのか――。
おそらく彼も同じ気持ちでいたであろう。
海の向こうの飛鳥の宮は、二人にはもう遠いところにある。