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伊予国




 船の上は思っていた以上に風が強く、しぶきで髪の毛が重たくなっている。

 大海原に出てどれくらい日が昇り日が沈んであろう。

 数日前に送った文は軽太子の元へ届いただろうか。




 あなたが行ってしまって、長い月日が過ぎました。


 わたしは山の鶴になって、迎えに参りましょう。


 もうこれ以上、待っていられません。




 その後を追うようにして宮を飛び出してきた。

 軽大郎女は胸につかえていた苦しみを投げ出し、何もかも捨ててきた。

 彼女の頬には、以前と同じ様に明るい光があふれんばかりに輝いている。


 日が沈めば、空に浮かぶ月が頼りである。

 雲ひとつない空にはくっきりと点滅を繰り返す星々が味方している。


 恐れるものは何もない。


「あれか」


 かすかだが、たいまつを通して、前方に小さな島が見えてきた。島といっても闇に溶け込んでいて姿かたちははっきりしない。


 軽大郎女が下部しもべに問うたが、返答がなかった。


「どうした、なぜ答えぬ」


 顔を横に向けると、ぐらりと船体が傾いた。


「あっ」


 軽大郎女はとっさに手すりにしがみついた。

 船が右へ左へと激しく揺れる。

 立っていられない。


 その時、軽大郎女の目に飛び込んで来たのは、無数の焔であった。

 ちらちらと燃える焔がいつの間にか、船を取り囲んでいる。

 その数は手に余るほどであった。


「穴穂皇子の追っ手かっ」


 強く声を張り上げた時、ばらばらと人が乗り込んできた。

 再び船が揺れる。

 吾は軽太子に会うまでは、けっしてあきらめぬぞ。


 目を天に向け、天照大御神あまてらすおおみのかみに祈りを込めた。

 星は変わらず明滅している。その時、月のようにまぶしい星がひとつあった。

 軽大郎女は一瞬、自分がどこにいるかを忘れた。


「軽大郎女」


 天から軽太子の声が聞こえた。空耳かと耳を疑った。


「軽大郎女よ」



 顔を傾けると、軽太子が背を支えるようにして立っている。


 夢を見ているのだろうか。


 なぜ、海の上で軽太子に会えるのか。


「どうしたのだ。声を聞かせてくれ」


 軽太子が頬を撫でた。その手のひらはしっとりと濡れていた。


「おあにぃ様」


 軽太子の指先が彼女の前髪を掻き分けて、瞳を覗き込んだ。

 黒い目には力がこもり、まっすぐに軽大郎女を見つめている。

 白かった彼の素肌は黒く焼けていて、ひとまわりたくましくなられたように見える。

 髪も短く切ったのか、角髪の量が少なくなり、風になびいていた。


「なぜ」


 掠れるような小さな声を軽太子は聞き取って答えた。


「お前が迷わないように、毎晩、海に出て待っていた。無事にたどりついてよかった」



 おあにぃ様。



 もう一度名前を呼んで、軽大郎女は軽太子の胸に倒れこんだ。

 言葉にならず嗚咽を漏らす。


「泣いているのか。もう子どもでもあるまい」


 あやすように言ってから、何度も髪を撫でる。その懐かしさに軽大郎女は再び涙をこぼした。


「寂しさに心が千切れそうな毎日を過ごしておりました。もう、離さないでくださいませ」


 兄はしっかりとうなずいた。

 船が勢いをつけて海の上を走り出した。

 こぎ手が交代したのだろう。


 軽大郎女が先頭を見ると、浅黒い男たちのたくましい腕が月の光に反射して光って見えた。


「あのものたちは」

「彼らはこの海域を支配する海人部あまべだ。我らを守ってくれる」

「信用できるのですか」

「我は信用している」


 軽大郎女は兄のまっすぐな目を見ながら、ふと大前小前宿禰の顔を思い出した。

 四角い顔をした貫禄のある男は、允恭天皇の先代の頃から宮に仕えている豪族で、軽太子たちきょうだいの事も詳しい。

 軽太子は、大前小前宿禰には信頼を置いていた。

 しかし、彼は穴穂皇子と共謀して軽太子を捕らえた。

 だが、その大前小前宿禰の手によって、軽大郎女は船で伊予に来ている。

 大前小前宿禰という男がどんな男なのか、軽大郎女にはもう分からない。


「軽大郎女よ」

「はい」


 声をかけられて我に返る。


「あれが伊予国だ」


 闇が島を取り囲んでいる。

 浜辺にちらちらとたいまつが燃えていた。

 船は徐々に速度を落としていく。

 海の底は真っ暗で、白くてまるい月がぼんやりとあたりを照らしていた。

 水しぶきが船体とぶつかって白い泡となり、やがて、何もなかったかのように小さくなって消えていった。

 潮の匂いを含む風がとめどなく軽大郎女の濡れた頬を撫でていく。


 ずっと、軽太子を近くに感じていた。

 吾は高天原にいるのだろうか。


 見た事もない聖地が脳裏に浮かび上がる。


 ひとしずく涙がこぼれた。


 熱い涙であった。


 軽太子は何も言わず、いつまでも軽大郎女の体を支え続けていた。






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