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あいねの浜





 軽太子が飛鳥の宮を離れてどれほど日が過ぎたのか。


 軽大郎女には、現実を見据える力は残っていなかった。食が細り呼吸をしているだけの毎日であった。


「衣通王」


 いつの間に部屋に入って来たのか、目の前に大前小前宿禰が座っていた。


「お前か」


 力なく答えた軽大郎女に、大前小前宿禰は一枚の衣を差し出した。

 うす紫に紅とあおの糸で編んだ羽織であった。

 儚い花模様が描かれている。

 花の名前はどこかで見たような気がするが、思い出せない。


「あなたに似合うだろうと思って、腕の立つ者に編ませました。羽織がそれ一枚では寒いでしょう。厳しい季節が過ぎたとしても、まだふきのとうは雪の下で埋もれていますよ」

「寒くない」

「それはいけません」


 大前小前宿禰は眉をしかめると、軽大郎女の手を取った。


「細くおなりだ。あなたはまだ十六にもなっていない。食べないと死んでしまいますよ。さあ、何か食べなさい。そして、温かくして眠りなさい」


 押し付けられた衣の袖の下に、硬い木の感触があった。


「食事を持って参りましょう」


 大前小前宿禰はそれだけ言うと立ち上がった。


 軽大郎女は体を起こすと、引き千切らんばかりの勢いで袖の下に手を突っ込んだ。



 木簡がある。



 目を通すと力のこもった太子の文字が飛び込んで来た。




 天皇であるわたしを島に流すなら、


 すぐに迎えの船がいくつもやって来て、わたしは必ず島から帰って来るぞ。


 だから、我が妻よ。


 我々の畳を決して汚してはならない。


 畳を汚すなと言っているが、我が妻よ。


 本当に言いたい事は、お前は決して、その身を汚してはならぬぞ。





 思いが筆を通して伝わってくる。

 文の末尾は震えていた。


 軽大郎女はそれを抱きかかえた。

 まるで、耳元で軽太子が囁いているかのようであった。

 大前小前宿禰はこれをどこで受け取ったのであろうか。

 これが太子の文かどうかは字を見れば一目瞭然である。


 軽太子の文字である事は、誰よりも軽大郎女が知っていた。


 軽大郎女は、すぐに返事を書いた。


 食べ物を取ってくると言って戻ってきた大前小前宿禰に、それを突きつける。

 面食らった大前小前宿禰は危うく食事を落としそうになりながら、軽大郎女にほほ笑みかけた。

 食事を机に置くと、木簡を受け取った。


「軽太子にお渡しすればよろしいかな」

「そうです」

「読んでも構いませんか」

「なりません。吾と軽太子の秘密です」


 頑なに言い張ると大前小前宿禰は肩をすくめた。


「よろしい。お渡しいたしましょう」


 するりと木簡を懐に入れ、立ち上がった。


「いつ出立するのです」

「今夜にでも」

「どれくらいかかるのですか」

「伊予はここから遙かに遠い島国です。急いでも十二、三日はかかるでしょう」

「一日でも早く、無事に届くことを願っています」


 大前小前宿禰は目を細めると、そっと部屋を出て行った。

 軽大郎女は衣をたぐり寄せてそれを羽織った。

 薄い衣は柔らかく肌になじんだ。




 男と女が寄り添って寝るという、あいねの浜があるなら、気をつけて。


 かきの貝殻に足を踏んで、お怪我をなさいませぬよう。


 夜が明けてから、行きなさい。




 軽大郎女は、兄を思ってこの歌に心をこめた。


 その夜、軽大郎女は、もらった文を懐に抱いて眠った。

 心なしか、木から潮の匂いがする。


 横になって格子から見える空を眺めた。

 同じ空を兄も見ているであろうか。


 文を抱いて一人で眠るには、あまりに寂しすぎた。

 軽太子の匂いはやがて消えるであろう。

 それでもすがるものはほとんどない。



 思い出だけで生きるには、軽大郎女はまだ若すぎた。



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