穴穂皇子
「――それはまことか」
聞くまでもなく、それからすぐに宮中は蜂の巣を突いたかのような騒ぎになった。
軽大郎女は両手を合わせ、高天原におわします天照大御神に祈った。
兄が、とうとう天皇になる時が来た。
時が満ちた。
たくさんの思いが複雑に絡まる。
大前小前宿禰以外は、二人の関係を知らない。
軽大郎女は、改めて己が立たされている現実に直面した。
手を突いて、畳に額をこすりつける。
軽太子が天皇になられたら、吾はどこを歩けばよいであろう。
兄の妻として皇后として納まる事ができるならば願ってもないことだが、そう簡単にことが進むはずがない。しかし、兄は吾を見捨てるような人間ではない。
そして、吾は何が起ころうとそばを離れないと心に誓っているのだ。
妹として妻として、二人が禁忌を犯した瞬間から覚悟を決めていた。
共に死ぬか、生きるかは――。
吾は、兄に従う。
その時、がらりと戸が開け放たれた。
思いにふけっていた軽大郎女は、心臓が止まるほど驚いた。
現れたのは、腰に短剣を差した第三皇子、穴穂皇子であった。
允恭天皇には九柱のお子がいた。
第一皇子、木梨の軽太子。
第三皇子、穴穂皇子
第二皇女、軽大郎女
成人間近の穴穂皇子は、ちょうど二十になる寸前くらいの年齢である。
「兄様さま」
軽大郎女は身を硬くした。
穴穂皇子の瞳はふだんよりもいっそう細くなり、部屋全体を見回すと最後に妹を見つめた。
「軽太子はどこだ」
つかつかと部屋に入り、妹を睨む。
「知りませぬ」
穴穂皇子が近づいてくる。
「次の天皇になるのは我と決まった」
「何とっ」
軽大郎女は目を剥いた。
「臣下が定めたことだ」
「なにかの間違いですっ」
「黙れっ」
臣下が穴穂皇子に付いた。となれば、人民も動くのは当然の成り行きである。
いっこくも早く兄に伝えねば――。
軽大郎女は、足を踏み鳴らす穴穂皇子の隙をついて、部屋を飛び出した。
「待てっ」
腕を掴まれる。軽大郎女は穴穂皇子の腕の中でもがいた。
「お前なら知っているはずだ。言えっ」
気付かれたか。
軽大郎女はぞっとして穴穂皇子を見つめ返したが、どうやらそうではないらしい。
穴穂皇子は単純に、一人ひとりに問いただしているだけのようであった。
軽大郎女はここで捕まっては終わりだと思った。
口を大きく開けて、穴穂皇子の腕に噛み付いた。
「うわっ」
穴穂皇子が腕を振り払ったその時、軽大郎女は裾をたくし上げると、長い回廊を走り出した。
役人が追いかけてくる。
このままではすぐに捕まってしまうだろう。
闇雲に走っても意味がない。
軽大郎女は素足のまま、庭へ飛び降りた。
早朝に降った霰は溶けて、枯れ草がしっとりと濡れていた。
庭を通り抜け、再び廊下によじ登ろうとした時、腕を掴まれて、思わず悲鳴を上げた。
「我だ」
見上げると、軽太子が抱きかかえるようにして立っていた。
「早く逃げてっ」
軽大郎女が声を張り上げたが、軽太子はそれには答えず、息ができないほど強く抱きしめてから手をつかんで走り始めた。
「どこへっ」
「大前小前宿禰が匿ってくれる」
「吾も連れて行ってくれるのですか」
「当たり前だ。お前は我の妻だ。離れるはずがない」
うれしさで体が熱くなる。
軽太子は痛いほど手首をつかんで、宮の外へ出る。
数名の兵士と馬が待っていた。
「飛び乗れっ」
無我夢中で馬の背に飛び乗り、兄がぴたりと体を付けるようにして、背中から手綱をつかんだ。
馬の背を蹴ると、馬が一声いなないた。