軽大郎女
人のけはいは感じられなかった。
夜も更けた頃、回廊を少女がひとり、駆け抜けていく。
少女の名は、軽大郎女、允恭天皇の第二皇女である。
十五になる彼女は、素足のままわき目もふらず走り抜けていく。
頭からかぶった衣の裳裾から、白い素足が顔をのぞかせている。
軽大郎女。
別の名を衣通王という。
――その美しさ、衣を通して輝くばかり――
蝶のようにあでやかに駆け抜けていく様は、彼女を賞した者も想像がつかないほどの神々しさに満ち溢れていた。
少女が軽く廊下を蹴った。
「あっ」
先ほどまで走っていた少女の姿が見えなくなる。呻き声を上げた少女の足は、腐食した廊下に片足を挟まれ、身動きが取れなくなっていた。
彼女は唇を噛みしめた。
足が千切れるかと思うほど、鋭い痛みがある。
「たれか」
声を上げようとしたが、すぐにほどいた唇を戒める。見つかれば黙って部屋を抜けだしたことがばれてしまう。
人目につくと厄介なことは承知していた。
軽大郎女は、両手をしっかりついて片足を抜こうとふんばった。
痛い。
目じりに小さな粒が盛り上がってくる。
指先で拭い、もう一度試したが、痛くてこれ以上動かせない。その時、ぼんやりとした灯りが近づいてきた。灯りに照らされ、少女の影が長く伸びていく。
軽大郎女は、追い詰められた獣のように身を堅くさせた。
「そこで何をしておる」
野太い男の声であった。
軽大郎女は目を閉じて、体を小さくさせた。
「衣通王」
声の主は、大前小前宿禰であった。
なぜ、こんな夜更けに大前小前宿禰ほどの豪族が徘徊しているのか不思議であるが、聞き慣れた男の声に胸を撫で下ろした。
そして、彼が自分を蹤けて来たのだな、とすぐに悟った。
潤んだ目で顔を上げる少女と目を合わせた大前小前宿禰は、含み笑いを浮かべた。
「こんな夜更けにやんちゃはいけませんね」
「何を云う」
瞬きをすると涙が飛び散った。
大前小前宿禰は、肩をすくめる仕草をしてから、ごつごつした硬い掌で、少女の細い足首をやさしくつかんで引き上げた。
「ああ、痛いっ」
眉をしかめる軽大郎女に、大前小前宿禰は、これくらい強くしないと持ち上がりませんと、口ごたえをしてから、膝を付いて軽大郎女の足首をじっと眺めた。
「血が出ています」
「離せ」
「大きな棘が、ほらここに、痛いでしょう」
確かめるのが怖くて目を背けた。
実際、足首はじくじくする。
「抱いて差し上げますよ。ほら」
大前小前宿禰が手を差し出す。その手に捕まろうとした。
「宿禰」
低い男性の声に、大前小前宿禰が弾けるように手を引っ込めた。
「軽太子様」
慌てて立ち上がった大前小前宿禰は頭を下げた。
「遅いので迎えに来た」
暗闇から声だけがする。
軽大郎女の胸に込み上げるものがあった。
軽大郎女の兄、軽太子であった。
允恭天皇の第一皇子である彼は、妹より十歳年上である。
「おあにぃ様」
妹はすがるように手を伸ばした。
指先に兄の温もりを感じてほっとした。
灯りもささないで探しに来てくれたのだろうか。
現れた軽太子はあっという間に軽大郎女を抱き上げた。そして、ケガに目をやって眉をしかめた。
大前小前宿禰が慌てて弁解をした。
「軽大郎女様がお困りのようでしたから、わたしは助けに参っただけでございます」
軽太子は何も云わず背を向けた。
「お前も早く休みなさい」
大前小前宿禰は静かに頭を下げた。
軽太子の足は自室へと進んでいく。
「何があった」
「右足を廊下に取られてしまい、身動きが取れないところへ宿禰が現れました」
「痛いか」
「はい」
「すぐに手当てをしよう」
肩を抱く手に力がこもった。
「心配していた」
兄の声が優しく響く。
軽大郎女は力を抜いて、硬い胸に小さな額を押し付けた。
目を閉じて、兄からもらった文を思い出した。
名前も知らない山を切り開き、田を作ろう。
しかし、名もなき山は大きく、手ごわい。
それならば、誰にも知られず、地中に樋を走らせて水を引こう。
こっそりと、水を引こう。
そんな風に忍んで会うしかなかったお前に、
こっそりと泣いた妻に、
今宵こそは、思う存分肌に触れる事ができる。
父の命のともし火が、少なくとも数日のうちに消える事は明らかであった。
父である允恭天皇は、軽太子を時期天皇にすると決定した。
この文をもらった時、彼女は確信を持った。
兄は必ず天皇になる。
しかし、自分の存在が危うい事も同時に知っていた。
軽太子の腕に抱かれ、ゆらゆらと揺られながら、軽大郎女は、前を望む回廊の闇の深さに身が震えた。
一寸先は闇だ。
灯りも射さずに、兄を焦がれる一心で進んできたのか。己の我の強さに、迷いが生じる瞬間であった。
もし、あの時、大前小前宿禰以外の人物に、自分が夜更けに出歩いていた事が知られていたらどうなっていただろうか。
事実から目をそむけるようにして顔を外へ向けると、群青色に染まった空に白い月が見えた。
庭の枯草が風で揺られ、こすれあう音の中に暗い山の奥でどさっと雪が落ちた。同時に小石が地面を転げ落ちていった。
軽大郎女はびくりと肩を震わせた。
「どうした? 痛いか」
異変に気付いて兄が声をかけた。
軽大郎女は首を振って、兄にしがみついた。
「暗闇が怖いのか」
もうすぐ部屋に着く。
あやすような兄の声だけを聞いていたかった。
神経を研ぎ澄ませると、闇の静けさの中に浮き立つ風の音やなだれの音が、軽大郎女を責めている気がした。