五十五話 梅雨が明け夏の始まり
(これはかなり……)
御手洗いから戻って来た紅葉は教室に戻ると、ここ数日強くなった日差しの差す窓際の席に座り、帰りのHRが始まるのを待っていた。
待っている間に、ノートの端に二桁の数字を幾つか書き出し、それらを足していく。更に合計を足した数で割り平均を出すと、算出された値を見て小さく、しかし満足げに頷いた。
紅葉がしていたのはテストの平均点の計算だ。
期末考査が終わり、翌週採点の済んだ教科から授業の際順次答案の返却があった。
週の半ばを過ぎた木曜日。先程返却のあった美術で全ての答案が返ってきた。
早速平均点を出してみたところ、その値はかなり高い。中学になって過去最高クラスだった。 いつもよりモチベーションが高かった事、他人に教える為にやり方を変えた事、そして教えた経験が生き、成果として現れた形だ。
(皆も上がったって言ってたし、良かった……)
今週に入り答案が返って来ると、勉強会に参加した面々が紅葉の下によく訪れ、教えて貰ったところが出ただとか点数が良かったと感謝を伝えた。
笑顔でありがとうと言われ、嬉しかった。とても楽しい時間だった勉強会の成果が出た事も、嬉しかった。
「ひらしまさんっ」
頬に手を当て、喜びを噛み締めていた紅葉は名前を呼ばれ現実に帰って来る。
振り向くとそこにはもじもじした真希。ぱっと見、珍しく優子の姿は見当たらない。
「今だいじょうぶですか?」
言いながら真希はちらりと机の上に目をやる。
そこには閉じられたノートあった。声を掛けるタイミングを窺っていたようだ。
「ええ、構わないわ」
いつもの、声を掛けられた直後の動揺から素早く立ち直り返事をする。
「えっとあの、ここれ! よかったら食べて下さい!」
頭を下げながら、後ろ手に回していた手を勢いよく差し出す。
手の平には透明のフィルムに包まれたカップケーキ。白色のリボンが可愛らしい。
「――これ、勉強会の時に言っていた?」
「はい! あの昨日時間があって、今日でテストの結果がぜんぶ返ってきそうだったからその……」
顔を紅く染めながら真希は、必死に言葉を綴るも言いたい事が纏まっていないのか、それとも飛んでしまったのか、尻すぼみになっていく。
「ありがとう」
そんな真希を可愛らしく思いながら、紅葉は素直に感謝の気持ちを告げた。
「もう直ぐ先生が来られるから、後でゆっくり頂くわね。……ふふっ、クッキーとても美味しかったから楽しみ」
幸せそうな笑みを浮かべ、今日だけは帰りのHRが遅れればいいのにと思う。
早ければもう間も無く担任が現れてもおかしくない。いつ来るか分からないので口にするわけにはいかず、それだけがちょっと残念だった。
「いえそんな! でも嬉しいです! こちらこそありがとうございますっ」
真希は益々顔を紅くさせ、空いた両の手の平を股の前で擦り合わせ照れる。
紅葉は表向きいつもの軟らかい微笑みを浮かべ、内心、長谷部さん可愛い、天使が舞い降りた! とハイテンションで見詰めていた。
「っとお邪魔してごめんね。そろそろ時間がさ。ちょっとお話がありまして……」
その時優子が二人の間に割って入る。謝りながら現れ、真希の肩に後ろから寄り掛かると、きゃっと真希が小さく可愛らしい悲鳴を上げた。
実のところ優子はずっと真希の少し後ろで待機していたのだが、真希と被り、椅子に座ったままの紅葉は気付いていなかった。
紅葉はなんだろうと思いながらもにこりと笑うと首を傾げ、優子に話を促す。
「えっと、先週の土曜日にさ、打ち上げに誘ったでしょ?」
「……ええ」
折角の機会を逃した悲しい思い出が蘇り若干ブルーになるが、面に出さないように頑張る。
「打ち上げの時にね、また遊ぼうって話になったんだ。それで、平島さんもどうかな? と思って」
「…………へ?」
紅葉は優子の言葉が上手く理解出来ず、少々間の抜けた返事を返した。
久し振りのフリーズ状態に陥りそうになっている紅葉に、優子は慌てて続ける。
「ほらその、前は平島さん参加出来なかったし、それが残念で、あー……、それにほらもう直ぐ夏休みだから――」
慌てる優子を見ていて、頭が再起動、予定が入っていて参加出来なかった自分を、また誘ってくれているのだと判断できた。と同時に喜びが全身にじわりと伝わり、小さく口を開け固まっていた表情を綻ばせてゆく。
「嬉しい……。是非参加させて」
カップケーキを受け取った時と同じ、幸せそうな笑み浮かべると、不安げな表情でいた優子、そして真希の二人も満面の笑みを浮かべた。驚きはこれで終わらない。
「じゃ、じゃあその、携帯電話の番号、交換しない? ほら連絡とかね。意外と便利」
たどたどしく言葉を紡ぐ優子。しかし紅葉はそんな様子に気付く余裕もない。さっきから驚かされっ放しだが、今度も衝撃的だった。
「ええ勿論……」
「良かった! じゃ赤外線で――」
(携帯電話――)
紅葉にとってあまりに驚愕な展開に着いて行けず、嬉しそうにスカートのポケットから携帯電話を取り出す優子の言葉にただただ従い、自分も携帯電話を仕舞ってある鞄に手を伸ばす。
まだ頭はぼんやりしたまま。先程から驚きの連続で、脳のメモリが一杯一杯なのだ。
頭は働いていないが幸いにも探し物は簡単に見付かり、普段学園で触らないので切られている電源を長押しして起動した。紅葉の携帯電話にはいろはと千鶴以外に親族しか登録されていないからいつもこうしている。
「お、お願いします……!」
優子に背中を優しく押され、ぷるぷると揺れる両手で携帯電話を突き出す真希の行動をなぞる。向い合わせて直ぐアドレス交換は終わりメッセージが表示された。
「ありがとうございます!」
「いいえ……」
胸元に両手でしっかりと携帯電話を握り締め礼を言う真希になんとか微笑みかける。ふわふわしていて会話は怪しいが表情は様になっていた。言わば半ば条件反射みたいなものだからだ。
続いて優子が携帯電話を差し出そうとした時、教室の扉が開く音が聞こえた。同時に教室中でお喋りしていた少女たちが一斉に自分の席に動き出す。
三人が一斉に開かれた扉へ顔を向けると、担任の西教諭が教室に入って来たところだった。ここで時間切れだ。
強制的に現実に引き戻された事で頭が働き出し、二人に倣い慌てて携帯電話をスカートのポケットに仕舞う。
まだ優子と交換出来ていない事を残念に思い視線を向けると優子と目が合い、彼女はにかっと笑った。
「また後で、交換しようね」
小さく手を振り席に戻って行き、真希もぺこりと頭を下げて帰って行った。
今は時間切れを迎えてしまったが、これで終わりではない。
帰りのHRの間、ニヤけてしまわないようぐっと我慢する紅葉であった。
◇
校舎を出た紅葉は立ち止まり空を見上げると、手の平を掲げて日差しを遮り目を細めた。
(あっつ……)
風がなく、生温い空気が籠っている。紅葉も不快に感じ早く日影に行こうと、バス停へ歩き出した。
校舎を出た直後はじりじりと照り付ける太陽と地面の熱に、一瞬形の良い眉を顰めた紅葉であったが、機嫌は決して悪くない。むしろ大変良かった。
勿論先程の真希たちが原因だ。鞄に仕舞われたカップケーキもそうだが、また遊びに誘われた事とアドレス交換が大きい。あの後しっかり優子ともアドレスは交換できた。
これから夏休みという長い時間がある。今度こそ参加出来るに違いないし、ひょっとしたらメールだってする機会もあるかも、と想像して頬が緩み足取りも軽くなった。いっそスキップしたいくらいだ。
(最近なんと言うか……、すごい)
会話の機会も、特に真希と優子は増え、遠慮から紅葉にあった壁も少々薄くなってきている。
相変わらずクラスメイト以上友だち未満という思いは変わらない。しかし以前とは確かに違っている。
上手く言葉に出来なかったがとにかく順調だった。
お陰で暑さだって気にならずむしろ涼しいくらい、という事は流石にない。学園前のバス停に着いた紅葉は歩を進める。
放課後、HRが終わってからまだそれ程経っていないこの時間、バス停にはミノア女学園の生徒たちが多数居り、バスを待っている。
その多くはまだバス停には並んで居らず、照り付ける日差しを避け、学園の背の高い壁や街路樹の影でお喋りしている。
(あっ)
人の少ない日陰を探し歩いていると、若干離れた街路樹の側に見知った一人の少女が立っているのを見付けた。紅葉は少し考えてから少女の元に向かい声を掛けた。
「こんにちは」
少女は呼び声に反応して気怠げな動作で顔を上げると、紅葉の顔を見てぴたりと停止した。少し間を取ってから口を開く。
「……、こんにちは」
ぼそりと、囁くように挨拶するのは岡崎巴。直後に見られた微かな動揺はもう欠片もない。
「ここ、ご一緒させてもらってもいいかしら?」
「うん……。いいよ」
小さく頷き呟いた巴に、お邪魔します。と言って紅葉は隣りに並んだ。
「…………」
「…………」
無言で、二人はただ前を見詰める。水泳の授業で度々こういう時間を過ごしているからか、紅葉も最近は割と慣れたも。気まずさはそれ程感じていない。
未だ状況によっては酷く焦り、慌てて天気の話題なんかを振る事もあるが。
それから一分と経たない内に一台のバスが、ミノア女学園前の緩やかな坂を上って来た。スピードを落とし停留所に停車する。
「見送る?」
「うん。そのつもり……」
バスを一瞥しただけで動く様子のない巴に問い掛ける。巴の返事は紅葉の予想通りだった。
HRが終わり直ぐに帰る生徒たちの最初の帰宅ラッシュは過ぎ、期末考査が終わり再開された部活動に参加する生徒たちもまだ来ないが、それでもバスを待つ生徒の数はそれなりに多い。少なくとも一台のバスに全員は座れないだろう。
けれどこの時間帯、ミノア女学園の生徒向けにバスの本数は大変多く、五分もしない内に次が来る。その為急ぎの用事がなければ無理に乗る必要はなく、巴たち以外にも見送る少女はそれなりに居た。
バスに多くの少女たちが乗り込み、待つ人数はだいぶ少なくなった。これなら次のバスが到着するまでに多少増えても大丈夫そうだ。
少女たちを乗せたバスが紅葉たちの前を通過して行く。それを紅葉は排気ガスを嫌い口元に手を当てて見送り、その隣りで巴もハンカチを当て不快げに眉を顰めた。
淀んだ空気は直ぐにマシになったが、巴はハンカチをそのまま仕舞わずに、うっすらとかいた額の汗を拭う。直射日光は避けられているが風はなく、熱せられたアスファルトから放出される熱が少々厳しい。
その様子を観察していた紅葉は、ハンカチをスカートに仕舞う巴と目が合った。茶色い瞳に見詰められると、咎められたわけでもないのに焦りが募り、冷静を装い口を開く。
「もうすっかり夏ね」
木漏れ日を見上げる。紅葉がするとなかなか絵になっている。気まずいからついでに顔を逸らしただけだが。
「……、暑いの……、夏は嫌い」
紅葉に釣られるように巴も上を見ながら呟いた。
「別に、私も特別好きではないのだけれど――」
そう言いながら口元が緩み、思わずふふっと笑い声が漏れる。巴は首を傾げ紅葉の横顔を見る。
「もうすぐ夏休みでしょう? それは楽しみだわ」
巴に向き直ると笑い掛けた。
夏休みの様子を、ぼんやりと想像する。真希たちとのお出かけ、千鶴たちとはゲームに、きっとお泊りする事もあるはず。それにルウや人斬り二号、陽炎たちとも遊べる機会は増えるだろう。
考えれば考える程、これまでで一番幸せな夏休みになりそう。そんな予感さえしてくる。
巴は笑顔に少々怯み視線を逸らすと、正面の車道を見ながら話す。
「……、うん。夏休みは楽しみ……」
微かに笑みを浮かべる。だが直後、その笑みは曇ってしまう。
「でも……」
いつもより小さな声でぽつりと呟く。心なしか暗くなった表情も気になり紅葉は不安げにその横顔を窺う。
すると巴が顔を上げ、二人は見詰め合う形になった。
「夏休みになったらその……、会えなくなるのは寂しい………………、ちょっと」
紅葉は直ぐに巴の言葉の意味がよく分からず、見詰めたまま硬直した。
(…………私と?)
顔は紅葉に向けたまま、しかし恥ずかしいのか巴は目を彷徨わせる。
どこか、少女たちのお喋りが今はやけに遠い。
咄嗟には分からなかったが、ゆっくりと理解していく。巴が親しみを感じていてくれている事を言葉で示され、紅葉は嬉しくなった。
そして紅葉は勢いに押され何かを話そうと口を開いたその時、聞き慣れた音が二人の耳に届く。
それは大型車両特有のエンジン音。紅葉と巴ははっとしてバスを見る。
バスの到着に機先を制し、二人以外の少女たちはバス停に集まって行っている。
「の、乗ろう」
吃りながら告げて巴が歩き出した。
紅葉はこのまま終わる事が残念に思え必死に考える。
ありがとう、嬉しい、私も――、もう少しバスが来るのが遅ければ素直な言葉を伝えられたかも知れない。
しかしそうはならず、話は打ち切られてしまった。
二人は無言のままバスの列の最後尾に並ぶ。
タイミングを逃し、黙って列を進みバスのステップを上る。
だがまだ終わりではない。降車予定のバスターミナルまで十分に時間はあると、紅葉は気持ちを落ち着かせようとしていた。
(あ……)
けれど二人掛けの椅子は空いていなかった。二人は一瞬硬直してから一人掛けの席に、縦に並んで座った。
二人掛けの席なら気まずい思いもするかも知れないが、切っ掛けになっただろう。でも現実にはそうならなかった。
紅葉は黙って前の席に座る巴のちらりと覗く首筋を見て、深く溜め息を吐くのだった。
◇
二人を乗せたバスが駅前のバスターミナルに到着した。殆どがミノア女学園生という乗客が次々と降りて行く。二人は流れが治まるのを待ってから最後に外へと降り立った。
何か言いたいのに言葉に出来ず、バスに乗っている間色々な事が頭を巡ったが、結局答えは出なかった。
巴は紅葉を見送るつもりなのか、初めて会話した日に呼び止めた場合――、紅葉がいつも乗り換えるバス停に向かって歩いて行く。紅葉はその背中を追う事になった。
(私がもっと……、安部さんみたいに話せたら)
思い浮かんだのは社交的な優子の事だった。会話を盛り上げられない自分に代わり、話題を提供して話を膨らませ、そして誘ってくれる――。
いつもの、まるでおまじないのように三つ編みを弄って心を落ち着け、軽く息を吐いた。
「……、あの」
そして三つ編みを弄っているのとは反対の手で肩を指先で叩く、というより弱々しくちょんちょんとつついて声を掛ける。
バス停までは後数メートルの場所。巴は肩をぴくりと震わせ立ち止まると、伏し目がちに振り返った。
紅葉の肩をつついた手は空中を彷徨っていたが、そっとスカートの上からポケットを撫で、心の不安を出さないよう微笑みを浮かべて話す。
「その……、良かったら夏休み、どこかに出掛けない、かしら……?」 真希と優子の事を思い浮かべ、自分からも勇気を出して誘ってみた。
初めての経験に言葉が震えそうになるのを必死に堪える。
「…………」
巴は顔を上げ、自分より背の高い紅葉の顔を覗き込んだ。いつもは眠たげに半分閉じれた瞳は大きく見開き、驚きに固まっていた。
しばし二人の間に沈黙が流れる。じりじりと照り付ける太陽とは関係のない冷たい汗が、紅葉の背中を伝う。
再び邪魔が入ったのは、固まっていた巴が口を開き何か喋ろうとしかけた、そんなタイミングだった。
またもバスが到着したのだ。
「ぁ……」
ぽつりと、巴はバスを見て開き掛けた口から声にならない声を漏らす。そして口を噤むと、代わりに出かけていた言葉を飲み込んでしまう。
同じくバスの方を向いていた紅葉が振り向くと、巴は未だバスを見詰めていて、その横顔は分かり難いがどこか悲しげに見えた。
紅葉は僅かに思案すると、小さく息を吐いて話し掛ける。
「これは見送ろうかしら」
驚き振り向く巴に、また微笑み掛ける。巴は紅葉を見上げたまま目をパチパチとしばたたかせた。
そうしているうちにバスは乗客新たな乗客を乗せ、バスターミナルから走り去って行った。
本日何度目か、二人の間に沈黙が流れる。だが今度はそう長くは続かなかった。巴は目線を紅葉のリボンの辺りに下げ口を開く。
「……、うん……、行く」
周りの騒音にかき消されてしまいそうな小さな呟き。だが紅葉の耳にはしっかり届いた。
紅葉が嬉しいと囁くと、巴は目を合わせないまま、はにかんで笑った。
(うん、言っちゃいなさい。……、よし)
リアルでは友だちの居ない紅葉。ここまででも大健闘したと言えるだろう。
しかし今の彼女には勢いがあった。グッと、アクセルを踏み込む。
「良かったら、なのだけれど、その――」
スカートを撫でていた手を止め、ポケットの中に手を入れる。
「アドレス交換しない、かしら……?」
携帯電話を取り出し顔の横に掲げた。半ば夢見心地だった真希の時とは異なり自分の意志で。巴に聞こえるじゃないかと思う程に心臓が緊張で早鐘を打つ。
携帯電話を持った手が今にも震え出しそうになり両手に握り直す。なんだか頭もぼうっとしてきた。
(岡崎さんが驚いた顔、こんな何度も見たの初めて)
固まっていた巴が動き出し、いそいそと鞄の中をまさぐるを見ながら、ふと思う。
これまでで一番幸せな夏休みになりそう。そんな予感が一層強くなる紅葉であった。
◇5章/一学期編おわり




