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四十六話 虹を見た

「ふぁ……」

 口元に手を当て、巴が可愛らしい欠伸をした。その吐息に反応して、隣りに座る紅葉が振り向き目が合う。

 すると巴は俯き目を逸らした。いつもながら表情は乏しいが羞恥の色が見える。


 現在二人が並んで座って居るのは、ミノア女学園高等部の敷地内にあるプールだ。

 既に自由時間になりまったり過ごしているのだが、今日はいつもと少し違いプールの中に入って縁に掴まり涼んでいるのでもなく、プールサイドに腰を下ろし水に足をつけてもいなかった。

 二人が座っているのは、プールサイドから離れどちらかというと壁に近い位置。座る面が樹脂製で脚は金属製の、女の子ならこれ一つで五人は余裕で座れそうなベンチである。


 水際から離れている主な理由は今日は暑くないからだ。外はバケツをひっくり返したかのような大雨で天井にある明かり取りの窓から光は差し込まず、室内なので今は関係ないが風も強く、まるでミニサイズの台風。

 お陰でもう直ぐ七月とは思えない程肌寒く、紅葉と巴は教師から許可を取りタオルに包まっている。そんな二人と同じように休憩している少女たちは多かった。

 それはなにも天気だけが理由ではないのだが。


「あら、寝不足?」

 欠伸を見られ照れる巴の動きを内心可愛く思いながら紅葉は可憐な微笑みを浮かべた。

 巴は間を空け、まだ恥ずかしいのか顔を合せる事なく答える。


「……少しだけ、テストあるし」

 本日は六月三十日の水曜日。学期末考査は七月の頭、つまり明日から三日間がそうなのだ。これが自由時間に生徒たちが大人しくしている――お喋りは非常に盛り上がっているが――もう一つの理由である。

 多くの生徒が今日の夜期末考査に向け最後の追込みに入るだろう。風邪を引くわけにもいかず、ガス欠になるわけにもいかない。

 かなり離れた場所に居る為お互い気付いてはいないが、水泳の時とても元気な真希でさえ今日は自重して、友だちと話に花を咲かせている。


「そう。夜遅くまで頑張っているのね」

「……普段そこまで勉強熱心じゃないから……、テスト前くらいは」

 紅葉はぶらぶらと揺れる巴の白い脚に目を移し、巴もまだ足元に目を向けたまま、二人は目を合せる事なく会話は続く。


「好きなものがあって……、普段結構自由にさせてもらってて……、でも成績落ちたら止めさせられちゃうから、それだけ……」

 巴がどこか自嘲的な顔を見せる。

 基本的にエスカレーター式でありながら、特に注意を促されずとも学業を怠らない真面目な生徒の多いミノア女学園の中で、巴は普段それ程真面目に取り組まず試験前だけ勉強してきた。これまであまり気にしていなかったが、紅葉へ改めて口にしてちょっと駄目かもと思った。

 一方揺れる巴の脚の動きに夢中な紅葉。そんな巴の表情は勿論、気持ちに気付く事はない。


(私も成績落ちたらゲームどころじゃあないよねぇ……)

 これまでの紅葉は悪い言い方をすると、ただの習慣だったり現状維持の為だけに勉強してきた。


(学業以外に打ち込むものがあるのね……。岡崎さんと比べると理由があれだけど、私も頑張ろう)

 明日からの期末考査に向けやる気を漲らせる。届かない振子を追う猫のように脚を目で追いながら。


「あと三日……、いえ、当日を含めあと四日――」

 紅葉がそこで一旦言葉を切って顔を上げると、巴も顔を上げる気配に反応したのか、それとも言葉に反応したのか、顔を上げて紅葉と向き合う。


「お互い頑張りましょう」

 そう言って見詰める紅葉の瞳を見詰め返し、巴は「うん……、頑張る」と呟いた。


(ん、もうそろそろかな……)

 そこで会話が途切れ、紅葉は授業の残り時間を確認しようと、壁に掛けられた大きなアナログ時計を見た。

 チャイムまであと十分を切っている。今日もいつも通り早めに切り上げられる筈なので、もうそれ程時間は残っていない。

 次いで五十メートルの大きなプールに目を向け少しだけ驚いた。もう誰一人として入っていなかったからだ。

 入っている人は少なそうだとは思ってはいたが、まさかのゼロだった。


(そう言えば水音殆ど聞こえなかった……、かも?)


「今日は保健の座学でよかったかも知れないわね」

 副科目の筆記試験のある期末考査、体育は試験間近の授業が対策授業に変更される事があり、月曜日の体育は座学だった。そうでなくとも今日は初めからレクリエーションで自由時間もかなり長かった。それならいっそ、と思えたのだ。

 紅葉の言葉を受け巴もプールの様子や、完全にまったりモードのプールサイドの少女たちを暫く見詰め「そうかも……」と呟いた。

 それから二人はなんとなくまた見詰め合い、どちらともなくクスクスと笑い合った。


(ああ、でもやっぱり体育でよかったかも)

 着替えに移動など面倒な事は多々あるが、巴とゆっくりお喋りできリラックスもできた。

 ひょっとしてテスト前に息抜きさせようとしてくれたのかな、とぼんやり考える紅葉であった。


 直後集合の合図が掛かる。二人は仲良く並んで教師の元へ向かうのだった。




 玄関で履きなれた通学用の革靴を履いた紅葉は立ち上がると、姿見の前で上体を捻ったりくるりと一周回ってみたりと、どこかおかしなところがないかチェックをした。学校に行く前の癖のようなものだ。

 それから手櫛で髪を二、三度梳くと、立て掛けてあった通学鞄を手に取り玄関扉の前で振り返った。


「いってきまーす」

 ダイニングに居る雪菜まで届くように、紅葉なりに声を張り上げる。

 外に出ようとドアノブを掴むと家の中から雪菜の声が微かに、あと、ぱたぱたと軽く、しかし急いだ足音が聞こえて来た。扉を開けかけていた紅葉は動きを止めて振り返る。

 直ぐに雪菜は玄関へと続く廊下に現れた。朝食の洗い物をしていたのか、薄い黄色いエプロンをした彼女は小走りで紅葉の元へ来ると、玄関扉を半開きにして首を傾げて待っている娘を見て小さく笑う。


「どうしたの? なにか忘れ物してた、かな?」

 何か忘れていただろうかと、自身を包む夏仕様の制服や通学鞄を見詰めてみる。

 だがぱっと見ても特に違和感は感じられないし、鞄の中身に関しては昨夜いつも以上に入念にチェック済みだ。それに雪菜は何も持っていない。紅葉は首を捻った。


「ううん、違うのよ。ただ、頑張ってねって言いたかっただけなの」

 穏やかな笑みを浮かべて紅葉の胸元のタイを整える。

 いつもは試験当日、力の入り過ぎている雰囲気の紅葉。しかし今日は緊張している様子はない。

 あまりプレッシャーにならないよう軟らかく、楓や葉月にした様にエールを送った。


「そっか。うん、ありがとう。頑張る」

「お昼ご飯作って待ってるね」

 本日は昼前に帰宅する為お弁当は用意して貰っていない。

 紅葉も笑顔で感謝を伝えると、玄関扉を開けようやく外に出た。


 昨日の雨の影響か、少々湿度は高いが薄い雲に覆われ直射日光の心配はない。気温の上がるお昼には帰宅予定の紅葉にとって、そう悪くないコンディションだ。

 ガーデニングが趣味の一つの雪菜。豊かな緑が雨の雫を反射して輝く前庭の、規則的に敷き詰められた石畳を歩き、白色の門を開いてから紅葉は振り返った。

 サンダルを履いて後ろに立って見送る雪菜にもう一度告げる。


「いってきます」

「いってらっしゃい」

 胸の前で手を振る雪菜に紅葉も手を振りながら門を抜けた。


(うーん、いい匂いがする……)

 バス停に向かい歩いていると漂う香りに鼻をくすぐられた。平島家のあるこの辺りは都会の一角にありながらも閑静な住宅街で、雪菜と同様にガーデニングが趣味という主婦も多く、一帯は緑豊かだ。

 濃厚、という程ではないが雨露に濡れた緑の匂いが薫っている。


(お、かたつむり)

 緑を見ながら歩いていた紅葉は生け垣の葉に止まったかたつむりを見て足を止めた。


(久し振り見たかも。というか殻大きいなぁ……)

 過去に見た覚えのない大きなかたつむりを、暫くの間紅葉はどうやってここまで登るのかな、などとぼんやりと考えながら見ていたが、他の歩行者の足音を聞いて我に返りまた歩き出す。


 今日から期末考査本番という割に紅葉はなかなかリラックスしている様子。だがお陰で一本バスに乗り遅れてしまう。

 余計な肩の力は入っていないどころか抜け過ぎていた。



(よもや日常にあのような罠が潜んでいるとは)

 いつもより十数分遅れで教室に到着した紅葉は、かたつむりとの邂逅を思春期特有のノリで思い返す。無論、自業自得である。


 紅葉は挨拶をしながらいつもとは違う席に座り、鞄から今日これから試験のある科目の教材を取り出して目を通し始めた。

 普段の窓際の席はくじで決まったもので、試験を受ける時はこうして正しい並びの席――出席番号順に座るようになっている。

 今座っている紅葉本来の席は、教室中央からやや右後ろ。これといって特筆する事のないほぼ真ん中の席だ。


 いつもはこの時間お喋りに夢中なクラスメイトたち。小声でお喋りをしながらの者たちもいるが、そんな少女らも教科書やノートを捲り最後の追込みをしている。

 ふと紅葉は顔を上げ、前の少女を飛び越した先――二つ前の席に座った少女を見詰めた。それはノートを見返す真希の後ろ姿だった。

 勉強会から今日までの数日、参加していた五人からは時折質問を受ける事があり、あの一日だけの出来事ではなく関係が続いた事を紅葉は嬉しく思っている。

 ただ、期末考査が終わったらしばらく質問を受ける事はなくなるなぁと、今は寂しさも感じていた。


(でも楽しかったな)

 寂しさはあるが楽しい時間だったし、受け答えもどもらず出来ていた。お陰で少し自信が付いてきた気もしている。


(これならそのうち、と友だちだって出来るかも)

 これからの事を思い前向きに考える紅葉。意識した途端動揺してしまったが。

 少しの間友だちが出来た自分を想像してニヤけそうになり、頬に手を当てて教科書に視線を戻した。


 紅葉が気付いていないだけで、親しくなりたいという少女は周りだけでなくクラス外にも居る。クラス外の代表格である巴なんて、ダウナー系であまり他人に興味を示さない彼女基準では露骨といってもいいくらいだ。

 その巴との仲は紅葉自身も割と上手くいっているんじゃないかとは思っているのだが、友だち居ない歴の長さから今二歩三歩自信が持てないでいる。

 まだ十四歳でしかない少女にとって二年半の年月は非常に長い。


 頭を切替え集中し直す。それからしばらくするとHRの開始を告げるチャイムが鳴り、担任の西教諭が一限目の試験問題だと思われる大きな封筒を持って現れた。

 チャイムの鳴る前から席に着いていた少女たちは参考書を閉じ、西教諭は皆が前を向いたのを確認して頷くと声を掛ける。


「それじゃ日直、号令ヨロシク」

「起立――」

 試験の時間が迫り、若干緊張感の漂う教室で西教諭はいつも通りに振る舞うのだった。



「じゃあ皆頑張ってね」

 HRの最後に、生徒たちにそう優しくエールを送ると、自分がこれから試験監督を担当する教室に向かって行った。

 生徒たちも参考書は既に仕舞い、机の中に何も入っていないか、筆記用具に不備はないか――、最後の確認も終え黙って待っている。

 そして間も無く一科目目の試験監督の教諭が入室して来た。

 伏せられ列の前から配られる問題用紙と解答用紙。一分程して開始のチャイムがいつもに増して静かなミノア女学園に響き渡る。


「――では始め」

 教諭の開始の合図に、一斉にプリントを捲る音が教室に響いた。

 一学期末考査の始まりだ。



 スピーカーから聞こえるチャイムの音。最後まで英語のスペルチェックをしていた紅葉は問題用紙から顔を上げた。

 周りからはチャイムの音に紛れ筆記用具を置く音やプリントに触れる音が聞こえて来る。


「――ではそこまで。鉛筆を置いて後ろから解答用紙を前に回して下さい」

 チャイムが鳴り終わるのを待って試験監督は生徒たちに試験の終了を告げた。

 解答用紙を受け取った教師歴二十年のベテラン女性教諭はにこりと笑い、皆さんお疲れ様でしたと言って教室から退出して行った。


 教諭が退出して直ぐに教室中で少女たちの雑談が始まった。話題は勿論直前の試験の事で、問題用紙を見ながら難度の高い問題の答えを確認し合ったり、大凡の点数を予想したりと忙しいが、表情は一様に明るい。

 先程の英語は三日目最後の試験。以上で全科目の筆記試験が終了したのだ。


(ふぅ……)

 慎重に、問題用紙を綺麗に二つに折ってバインダーに挟み鞄に仕舞った紅葉が吐いた吐息は、とても満足げである。


 それから直ぐ教室に西教諭が現れ雑談は中止したが、帰りのHRはいつも以上にスピーディーに終了した。

 再び教室は緩く明るさに包まれ、各所で雑談が再開され、また早速今日から活動が始まった部活に所属している少女たちは教室から出て行く。

 そんな中紅葉はというと、日頃よくそうしている様にバスの時間をずらす為にぼうっと過ごすのではなく、生徒の流れに紛れ教室から出口に向かっていた。


「ごきげんよう」

「平島さん、さようなら」

「あっ、平島さんちょっと待って」

 掛けられる挨拶の言葉に丁寧に返事をしながら教室を出る直前、呼び止められた。

 振り返るとそこには優子と真希。


「なにかしら?」

 帰宅してお昼ご飯食べてお風呂も済せ、約二週間振りの【魔法少女おんらいん】を思い切りをしようとテンションが上がり、頭の中はその事で一杯だったが、呼び止められる予想外の展開に胸がドキリと高鳴った。


「ごめん。急いでたかな?」

「いいえ、そういう訳ではないの。気にしないで」

 早くゲームがしたかっただけですとは言えない。驚いたが話し掛けられたのはむしろ喜ばしい。

 申し訳なさそうな顔を見て、迷惑ではないとハッキリと否定する。


「そっか、良かった。あー……、それで用事なんだけどさ……」

「? ええ」

 少々歯切れの悪い優子に紅葉は首を傾げ不思議そうに見詰める。


「先週勉強会したでしょ?あの時のメンバーで明日遊びに行かないかって話になってさ、打ち上げにね。勿論紗香たちも。平島さんもどうかな……?」

 思わぬ内容に脳が追い付かず、遊びに誘われたと理解して顔が綻びそうになったその時、ある事に気付いて固まり、そして激しく、激しくへこんだ。


「…………、ごめんなさい。お誘いは大変嬉しいのだけれど、明日はもう予定が入っているの……」

 いつも通りを装うも、堪え切れず微かに悲しさの滲む顔で告げる。


「そっかぁ……、ごめん急過ぎたね……」

「いいえ、こちらこそ。その、四人で楽しんでね」

 正直この場で膝を抱えたいくらいだが、残念そうな優子に紅葉は無理矢理笑みを作る。


「また今度誘うよ」

 にこりと笑う優子。


「ええ、ありがとう。その時は是非。……それじゃあ、ごきげんよう」

「またね」

「ひらしまさん、さようなら」

 紅葉は自ら会話を断ち挨拶する。いつも元気な真希の声は今は周りの少女たちの姦しい声にかき消されそうな程小さい。



(うー、こんなのってないよ……。まさか被るなんて)

 とぼとぼと力なく下駄箱へ向って歩く。

 明日は千鶴たちと遊ぶ約束をしている。

 無論千鶴たちとの約束もとても楽しみだ。しかし数少ないお誘いのブッキングに、神様を呪いたい気分になった。

 折角の機会を逃しテンションはジェットコースターの如く急降下。


(……いいんだ、私には千鶴さんといろはさん、お姉ちゃんが居るもん。ルウさんと二号さんが居るんだもん。リリオさんとか陽炎さんだって……)

 自分に言い聞かせながら歩く。

 五分前までとは別の意味で、益々早くログインしたくなった紅葉であった。

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