表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/56

四十三話 寄り道

 バスの前の方の一人がけの席に座った紅葉は、窓の外を流れ行く景色を眺めている。

 その横顔は一見いつもと変わらない様に見え、しかし彼女の事をそれなりに知る者たちが見れば、特に意識せずとも機嫌の良さに気付くだろう。それくらい今の紅葉は浮かれていた。


(楽しかった、な)

 理由は勿論人生初の勉強会だ。

 中等部も三年になり、ある時を境に真希や優子、または巴といった少数に話し掛けられる機会は増えはしたものの、あれほどの大人数――とはいっても紅葉を含めても六人――で、しかも長時間話をするのはかなり珍しい。

 学園の行事では班単位で活動する機会は多い。けれど勉強の質問が中心とはいえ、あれほど多く話し掛けられた経験はなかった。

 紅葉以外の五人も、質問という建前があったからこそ積極的に話せたのだが。

 殆ど聞き手に回っていたが、大人数での他愛のないお喋りはとても新鮮で楽しい時間であった。


(あ、そうだお掃除。帰ったらしようかな……、それとも明日の午前中がいいかな)

 油断するとニヤけそうになる頬に手を当てながら、脳内で本日を振り返っていると掃除の事を思い出した。

 目的が逃避から掃除が主題になっている事を指摘できる少女たちは見当たらない。

 このバスに乗っているミノア女学園の生徒は紅葉だけだ。この場に先程まで一緒だった五人は居ない。

 それは今乗っているバスが、学園前から駅前へ向かうミノア女学園生の多く乗るコースではなく、そこから数多のコースに分岐する、駅前から紅葉の家のある方面へ向かうバスに乗っているから。ではなく、勉強会が終わって早々帰宅した紅葉に優子たちが一緒に帰ろうと声を掛け損ねたからだったりする。

 本日最大の目的である勉強会が終わった充足感に包まれた紅葉の頭に、一緒にお喋りしながらの帰宅など一切なかった。その発想はなかった、というやつである。

 憐れ、しかしその事に気付かずに浮かれているのだからまだ幸せかも知れない。


(ああ、長谷部さんのお菓子も楽しみだなぁ……。長谷部さんの手作りとお菓子が合わさり最強に見えるわ)

 幸せそうに目を微かに細める。

 元より甘い物が好きな紅葉。その作り手が真希ともなれば更なる補正が大幅に掛かる。


(あっ……)

 その時、鼻歌を歌い出しそうな程に機嫌良く風景を見ていた紅葉の脳裏に電撃が走り、僅かに目を開いた。

 それまで窓の外から外さなかった視線を、正面の電光掲示板に移動。緩い三つ編みを弄りながら素早く考えを巡らす。


(……次の次で降りたら良いわね)

 真希のお菓子に思いを馳せていて、自分にお菓子作りは無理だけど料理にすれば良いのではという考えに至った。普段降りているバス停ではなく、スーパーマーケットに近いバス停で降りるべく行動し始めた。


(なにもお菓子じゃあなくってもいいんだよね。お料理なら私にも作れるものあるんだから。ああっ、それに丁度料理のお勉強しようと思ってたんだから一石二鳥! 今日の私は冴えてる気がする)

 まるで世紀の大発見をしたような気分になり、機嫌は益々向上。更に緩まる頬に両の手を当て周囲から隠す。


 ちなみに、家にある食材を使うという発想はない。これは中身のほぼ全てを母親の雪菜が色々と考えて買い揃えている食材だから、それに手を付けるのは忍びないという殊勝な心掛けではなく、単に冷蔵庫の中身を殆ど把握していないからだ。

 飲み物や一部の調味料、プリンやコーヒーゼリーの有無はしっかりと覚えているが、同じエリアに保存されている卵の数は曖昧にも把握していない。

 同様に、冷凍庫もアイスクリームの有無以外は曖昧で、今回必要となるであろう生鮮食品の多く入った野菜室に関しては、もはやさっぱりだったりする。

 そして有合せの食材で作るといった事のできない(正確には、相性の良さそうなものを混ぜた炒め物ならいけなくもない。非常に博打要素あり)紅葉は、迷わずスーパーマーケットに寄る事を選んだという訳である。


(そろそろ、ね)

 これから降りる予定の一つ前のバス停の手前に差し掛かった。降車を知らせるランプが点いていない車内に、乗客に確認を取る運転手の声がマイク越しに響く。

 紅葉は左斜め前方、バス停の方向に目を向けた。

 バス停にはバスを待つ人は居らず、進行方向の信号機に赤色のランプは点いてもいない。加えて横断歩道もない事もあってバスは軽快に駆けて行く。


『ご乗車ありがとうございます。次は――』

 電光掲示板の表示が変更され次の目的地が紅葉の降りる予定のそれになる。と同時に、車内に停車場所を告げる落ち着いた女性のアナウンスが響いた。


(よいっしょ)

 座ったままだと手の届かない位置にある降車を告げるスイッチに、中腰になりながら手を伸ばす。


『ピンポーン』

 指がスイッチまであと十センチといったところで車内に響く軽い音。


(うぐっ)

 内心呻き紅葉はそそくさと座り直した。他の乗客に先を越されたのだ。


(なんだろ、この気恥ずかしさ)

 バスから降車する際、スイッチを押そうとして他の人が押すなんて事はよくありすぎる話。ただ今回は偶々手の届かない位置にあり中腰になった事、そして自分が押さないと、という意識があった事に少々羞恥してしまった。

 駅近くは別にしてここしばらくは乗客率がそれ程でもない事もあり、ここまで乗り降りのないバス停も多かったが、次のバス停はこの辺りの住民がよく利用している大きなスーパーマーケットに最も近い場所。当然他のバス停よりも乗り降りのある確率は高い。


(ないないないない……、自意識過剰だってば……)

 恥ずかしさから若干顔を伏せ身体を縮こませる。

 尤も、こういうちょっとしたミスは本人程周りは気にしていないものだったり、そもそも気付いていなかったりするもの。しかし偶々前の方に座っている事もあって車内の乗客に注目されている気になっていた。それは無いと理性が訴えても顔を上げる気にはなれない。


 時間帯もあり、比較的空いた道をバスはスムーズに進み、二分程度で目的のバス停に到着した。手摺を手に取りゆっくりと立ち上がる。


(そうだよね。ここっていつも止まるもんね……)

 見れば乗客の三分の二近くが立ち上がるなり、その為の準備をしていた。バス停にも主に買い物袋を抱えた十名近い人たちが列を作っている。

 紅葉は勉強会で自分が少々浮かれている事を自覚しつつ降りる列に加わったのだった。



 スーパーマーケットへの道は、その広い駐車場を通過すればバス停から徒歩で約三分といったところ。

 紅葉が普段乗り降りしているバス停まであと数ヶ所離れたこの場所は、平島家のある辺り程ではないにしろ割と静かで、利便性もそう悪くない地域だ。

 広い敷地内にあったボーリング場などの複数の店舗がここ十年で閉店していき、数年前にスーパーマーケットと全国チェーンの電器屋が駐車場を共有する形で開店した。その為駐車場はかなり広い。紅葉は係員の誘導に従って歩いて行く。


(わっ、なんだかすごく久し振りかも)

 入口の二重扉の前でふと思う。

 三階建のこのスーパーマーケット、一階にあるメインの生鮮食品売場だけでなく、服屋や割と広いフードコーナーにゲームコーナー、玩具屋、書店にヘアサロンなど、色々と揃っており、店を出て数十歩も歩けば着く電器屋を含めると、拘らなければ大体のものは揃い時間も潰せる。

 実際、紅葉と同じ年頃の子どもたちが仲良く歩く姿や、ベンチに腰掛けお喋りする姿がそこかしこで見られた。

 しかし私立のミノア女学園に通う紅葉にとって駅前は通学路。いつでも行き来できる定期券を持っている為、姉に誘われて出掛けると、ここではなく専門店の多い駅前になるのだ。


(寒い……)

 クーラーのやや効き過ぎた店内を歩きながら、手の平で素肌を晒している肘から先を優しく擦り、自分の中の記憶と少し変わった店内を新鮮な気持ちで軽く見渡し進む。


(クレープいい、な。チョコバナナ……、プリン生クリーム……、キャラメルカスタード……)

 あまり見ては失礼だと思うも、大好きなクレープを、手を繋ぎ互いに食べさせ合う女子高生らしき二人組をついつい目で追ってしまう。

 紅葉は目が合って気まずくなる前に予め逸らし、足を止めて緩い三つ編みを弄りながら壁に掲示された広告に目をやる。

 広告はアルバイトを募集するもの。だが紅葉は立ち止まり考え事をするのに都合がよかっただけでなので、広告の内容は全然頭に入っていない。今紅葉の頭の中は、クレープが大半を占めている。


(夕ご飯までの時間は……、うーん微妙なところだけど一品増えるしなぁ)

 終業時間の早い土曜日とはいえその後数時間に渡り学園に残っていたので、今はもう夕方と言っていい時間帯に差し掛かっていた。帰宅してから夕ご飯まで直ぐとは言わないが、間食するのを躊躇するくらいの時間だ。

 それに追討ちをかけるのは紅葉自身が作ろうとしている追加のもう一品の料理。これが加わりクレープを食べるとなると、夕飯を完食できる自信がなかった。

 であるなら雪菜に伝えて一品減らしてもらえば良いのだが、自分のものはあくまでオマケ。正直なところ出来がどうなるか分からない事もあって、雪菜の料理を一品取り下げてもらう気にはなれなかった。

 勿論そんな事は家族の誰も気にはしないだろう。父親なんて、美味い美味いと喜んで食べるに違いないのだが。


(やっぱり駄目)

 後ろ髪引かれつつも振り切り、ようやく歩みを再開させる。未練を断ち切るよう、紅葉はクレープ屋の前を歩かないコースを選んだ。

 その背中はどこか愁いを帯びて見えた。



(んー、何にしようかなぁ……。取り敢えず旬。そう、旬の食材を使おう)

 プラスチック製の買い物籠を腕にかけて、様々な食材を見て回る。

 その足取りはいつも以上にゆっくりとしており、未だ生鮮食品コーナーの端にあたる、野菜や果物を見て回っていた。

 周りの買い物客も歩くペースは速くはないが、中でも紅葉は群を抜いていて、次々に抜かれていっている。


 理由は、差はあれどある程度目的のものを決めている玄人(主婦または主夫)と違い素人だからだ。

 調理だけならオマケして素人に産毛の生えた程度と言える紅葉も、買い物からとなるとまるっきりの素人。何が必要なのか、そもそも何を作るのか悩み、野菜コーナーを右往左往していた。


(……もう揚げだし豆腐にしようかな)

 野菜コーナーという名の大迷宮から抜け出せず、考える事を止めかけている。

 立ち止まり、豆腐の置いてある、気がする方向を見て、あれなら豆腐だけ買えば良いよねと思う。ちなみにそっちは精肉コーナーだ。

 紅葉流という名の、インターネットで仕入れた揚げだし豆腐のレシピは非常に簡単。豆腐と出汁の元になるもの以外は大抵の家庭に常備されているもので、出汁も平島家では常備されている。


(でも揚げだし豆腐、もうちょっと進化させたいんだよね……、となるとレシピ曖昧だし、次にするのが無難かぁ)

 いずれ千鶴に作る約束をしている揚げだし豆腐は、紅葉はもう一手間かけたいと考えていた。しかし以前調べたレシピを直ぐに思い出せず諦めた。


(となると……、あら?)

 そこで紅葉はある重要且つ基本的な事に気付き顔を上げる。


(そもそも私、そんなにレパートリーないわ……)

 誰でも作った事のあるような卵料理に、調理実習で作ったメニューにテレビの料理番組を見てその時の勢いで作った数品、あとは雪菜の料理を手伝って覚えた簡単なものを幾つか。紅葉に作れるのはこれくらいなものである。

 レシピを調べて来れば新たなメニューに挑戦可能だが、今回は衝動的なもので事前に準備を一切していない。

 携帯電話で調べる事も可能だが、スーパーマーケットに来てから考えていたのでは、いつになるか分かったものではない。

 今回は出来る範囲のものにするべきだろう。だって、考え事をしている所為で実際には何も目に入っていないのだけれど、端から見ると偶々目の前にあるほうれん草の棚をじっと見詰め続けており、その様子をチラチラと店員が見ているのだから。


「っ!」

 考えがまとまり掛け視線を動かし、その店員と目が合い紅葉はびくりと反応した。


(ひょっとして見られてたかな)

 恥ずかしくなった紅葉は顔を伏せ、その場から早足で立ち去って行く。


(あ……)

 ついつい掴んでしまったほうれん草を持って。


(……まあいいか)

 あの場に戻る事など出来る筈のない紅葉は、ほうれん草と相性の良さそうなものを求め野菜コーナーを脱出した。

 ちなみに、紅葉は旬の食材をと考えていたが、ほうれん草の旬の季節は冬である。

 しかし、本人は気付いていないし、ようやく前に進んだ事に比べれば些細な事かも知れない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ