四十一話 もっと違う顔が見たい
翌日の土曜日。四限目の授業も、その後の掃除も既に終わり、帰りのHRもつい先程締められたところ。
三年四組担任の西教諭をはじめ、もう多くの生徒たちが教室から姿を消している。
紅葉はというと、ゆっくりとしたペースで机の中から教科書類を取り出し鞄へ仕舞ったり、なにかを探しているのか鞄の中を覗きながら手を入れてみたりと、特に意識せずに見ればなんという事もないが、じっと観察していれば割と不自然な行動をとっている事に気付いたかも知れない。
「平島さん」
そんな紅葉に声を掛ける一人の少女が居た。紅葉は内心の動揺を面に微塵も出さずに振り返り返事をする。
「何かしら?」
状況から予想はついていたが、やはり声の主は安部優子だった。優子は紅葉から一メートル程の距離に立ち、いつもと同じ人好きのする笑顔を浮かべている。
「こっちの席でいいかな?」
優子が手に持った、黄色の生地に白い百合の刺繍があしらわれた巾着袋を摘みあげ問い掛けると、紅葉は周囲の状況を見渡してから小さく頷いた。
「そう、ね。もうお帰りになられたみたいだから、貸して頂きましょうか」
「オッケー。じゃあ真希が戻って来たら食べよう」
言いながら優子は紅葉の机の上に巾着袋を置く。
「ええ、その前に私もお手洗いに行って来るわ」
「うん、分かった」
この場を離れる旨を告げてから席を立つ。
優子は紅葉の右隣りの席から――紅葉の机は左端なので右しかない――椅子を拝借すると座って、巾着袋から中身を取り出しながら答えた。
取り出されたのは二段のお弁当箱だ。深さは並だが幅は新書サイズ程度の大きさしかない。
優子に見送られた紅葉は、ゆっくりとした足取りで教室から出て行く。いつもならここでさようならの挨拶が飛び交うところであるが、手に何も荷物を持たない紅葉に特に声が掛かる事はなかった。
(よかった……、本当によかった)
手洗いを済ませた紅葉は正面の鏡を見詰め、ハンカチで雫を拭きながら思う。
何がよかったのか、それはお昼ご飯に誘ってもらえた事がである。
朝のHR前、優子に改めて今日の放課後の勉強に参加出来るかを訊かれ問題ない事を伝えるとその際に、よかったらお昼ご飯も一緒にどうかと誘われた。
その時は溢れんばかりの喜びをぐっと抑え冷静に返事をしたのだが、四限目が終わった辺りからふと、色々と不安になってしまったのだ。
優子が自分を誘った事を忘れていないか、という事ではない。よほどネガティブな考えに陥らない限り紅葉にその発想はない。
では何かというと、HRが終わった後、自分がどう動くのが正解なのか、まるで分からなかったからだ。
座って待っていれば良いのか、自分から声を掛ければ良いのか――結局、自分から声を掛けるのはあまりに難易度が高過ぎると気付き断念。はらはらしながら声が掛けられるのを待つ事にした。
なので時間を稼ぐ為に、普段なら帰りのHRが始まる前に終わらせている荷物の整理を後回しにして、HRが終わってからゆっくりと片付けたり、何も探していないのに鞄をまさぐっていたりしたのだ。この少女、必死である。
(ランランララランランラン――)
目の前の不安が解消された紅葉は、傍目にはいつも通り、心中は浮かれて鼻歌まじりに教室へと帰って行ったのだった。
◇
「――へぇ、お兄さんももうすぐテストなんだ」
「ええ、日程はミノアと殆ど変わらないみたい。いつもは兄の帰りが遅くて夕食の時間が合わないのだけれど、ここ数日は一緒に食べられているわ」
「そっかー」
紅葉たちは予定通りお弁当を持寄り、揃ってお昼ご飯を食べている。この三人でお昼ご飯を食べるのは二度目という事もあって、紅葉の硬さも前回程ではない。
教室には彼女たち以外にも生徒はそれなりに居る。今日は授業がお昼までという事もあって、放課後に残って本を読んでいた一昨日と比べると若干多く、皆パンやお弁当を食べていた。
彼女たちも学園に残り、これから友人同士試験勉強をする予定ようだ。
紅葉のお弁当の中身はいつも以上に紅葉の好物ばかり。今日は楓と葉月の二人がお弁当を必要としていないからだろう。
もしかするとそれだけではなく、もっと別の意味が込められているのかも知れない。
ただ、朝雪菜にお弁当を手渡しされた時に掛けられた「頑張ってね」という言葉に含まれた、勉強以外の面に気付く事なく、そのまま素直に受け取った紅葉は、たとえあったとしても気付かないだろう。
そんな好物ばかりのお弁当を食べている紅葉。時折、正面を気にして視線を向けていた。
席順はこの三人が揃った時いつも会話を引っ張る優子は右隣りに、残った正面には真希が座っている。
先程から気にしているのは真希の様子だ。前回程ではないにしろ口数がやや少なく、大人しく見えた。
(気のせい、かなぁ……?)
明らかに元気のなかった前回とは違い、勘違いかも知れないという程度で、声を掛けるべきか否か、紅葉は悩んでいた。
「あー、うん、そうそうお兄さんで思い出したんだけどさ」
そんな紅葉に話を振ったのはやはり優子だった。以前似たような事があった所為で、紅葉が真希の様子を気にしている事に気付き機先を制したのだ。その為前回のリプレイとはいかなかった。
声を掛けられ、紅葉の視線は優子へと移り、相槌代わりに小首を傾げて先を促す。
「昨日の水泳の前にさ、高等部の校舎で先輩とお喋りしていたって話を偶然、ちらっと小耳に挟んでね。……その高等部の方のどちらかが平島さんのお姉さんなんだよね……?」
語る優子の身振りや口調には幾分ぎこちなさがある。
本日真希が若干元気がないのは昨日発生した小さな噂話を気にしての事だった。真希本人が直接見た訳ではないので、ダメージはそこまで大きくはない様だが、それでも紅葉が違和感を感じる程度である。
優子としては昨日勉強会をとても楽しみと語っていた真希が、憂いなくできる様、また昼食も楽しめる様、今のうちに昨日の真相をハッキリとさせようとしていた。
半ば勢いで謎の男の子――葉月の事を尋ねた前回とは異なり、今回は勝算というかほぼ確信を得ていた。
それは以前紅葉本人から、ミノア女学園の高等部に姉が在校しているという話を聞いた事があるからだ。
二人の高等部の生徒が、どちらも美人であったという目撃証言も追い風に感じられた。
これらを根拠に優子から励まされ事も、真希に少し余裕がある一因である。
優子以上に興味津津な真希は、紅葉の答えを息を飲んで待つ。
「いいえ、違うわ」
しかし紅葉から告げられた答えは無情にも否。
まさかの答えに優子は問い掛けた表情のまま固まり、優子の方を向いている紅葉は気付いていないが、真希の顔からは血の気が引き少々泣きそうにもなっている。
そんな二人をよそに、紅葉は話題になっているいろはと千鶴の事を思い浮かべ、笑み深めて続けた。
「姉の友人なの」
「へ?」
「……え?」
固まっていた優子は少し遅れて間の抜けた声を上げ、真希はそれから更に遅れて小さな呟きを漏らした。紅葉は二人の反応を不思議に思い、首を傾げながら続ける。
「? よく我が家にも遊びに来られるから、私もお話しさせていただく機会も多いの」
「へ、へーそうなんだ。そっかそっか……」
姉の友人。一時はどうなる事かと思ったが、その言葉で救われ優子は持ち直した。
ちらりと真希の横顔を窺うと、先程までとは違い、真希本来の自然な明るさが浮かんでいる。
「いやー、聞いた話だと平島さんよりも背の高い人が居たらしいから、てっきりその先輩がお姉さんなのかと。ね?」
「え、うん。はい。そ、その、ひらしまさんも背が高くて腰の位置も高くて、手もあ、脚もすらっと細くて長いからそうなのかもって……」
話を振られた真希は、普段思っても口には出せない事まで話している事に、本人も気付いていない。
また、背が高い人――、千鶴がきっとお姉さんだからと、元気付けていたも優子だったりする。
「姉は私よりも背が高いのだけれど、その人程ではないわね。その人は百七十五センチくらいあるもの」
真希の言った腰の位置が高い、手足が細く長いなどという話には、照れでどもってしまいそうなのと、どう返して良いのか分からないので触れなかった。
「そ、そうなんですか。羨ましいです。私ももう少し欲しいです……」
溜め息を吐く。真希の身長は百四十五センチ前後といったところ。まだ中学生とはいえ同年代の少女たちの中で、かなり小柄な事を気にしているようだ。
肩を落した真希に紅葉は微笑みながら告げる。
「あら、私は小柄で可愛らしいと思うのだけれど。むしろ羨ましいわ」
背の低い者には低い者の、背の高い者には高い者の悩みがある。
紅葉は真希の事を大変好ましく感じているが、何もそれは内面だけの話でない。
「あぅ、その、ありがとうございます!」
顔を赤くして頭を下げる真希。その様子を優子は微笑ましげに見詰めていた。
そこから、調子を取り戻した優子はやはり前回と同様一歩引き、出来るだけ真希と紅葉の二人に会話をさせ、自身は真希のフォローに回った。
懸念は姉の友人という予想外の、しかし聞かされてみればよくある結果で落ち着き、もう大丈夫そうだと、二人に悟られぬ様小さく安堵の溜め息を吐いた。
もし仮に、高等部の二人が家によく泊りに来て、一緒にゲームをしたり遊びに行く仲で、更には真希や優子らの知らない、軟らかな態度で接している事を知ればこうして落ち着いてはいられないだろうが、特に最後は紅葉から伝えられる事は絶対にないので、これ以上優子を悩ます事は少なくともこの場ではない。
会話を多く、食事はゆっくりと。楽しいお弁当の時間は過ぎて行く。
さすがにいつ迄もこのままとはいかないとはいえ、いつもの昼休みとは違って終わりの時間は決まっていない。
ゆっくりと楽しんで過ごす三人だった。
◆
「…………」
歯磨きなど、食後の休憩を挟んでから、三人は椅子を借りていた席から机も借り、くっ付けてテスト勉強を始めた。
ペンや本を捲る音、離れたところから少女たちのお喋りや忍び笑いが微かに聞こえる。
紅葉たちは教科書やノートを開き、静かに勉強していた。
「あの、ひらしまさん。ここなんですけど……」
「うん。どこ?」
真希が参考書を見せ尋ねると、紅葉は自身のノートから顔を上げ覗き込む。
紅葉と真希、優子の島――、くっ付けた三つの机は他の少女のグループと比べ静かではあるが、この通り会話が全くない訳ではない。
「――という事になるの。もう大丈夫?」
説明を終えた紅葉が真希の顔を見詰める。
「はい! ありがとうございました!」
明るく礼を言う真希に、紅葉は柔和な笑みを浮かべた。
その二人のやり取りを優子はこっそりと窺っていた。勉強会は当初優子が懸念していた通り、紅葉が二人に一方的に教える形になってしまっている。
しかし、優子から見た限り紅葉がそれを迷惑に思っている風には見えない。
(むしろちょっと楽しそう、かも……?)
勉強会が始まって早一時間。集中が切れた優子は休憩ついでに考える。
(なんとなく機嫌良さそうなんだよねぇ……)
これまで優子が思う紅葉像は、あまり他人とは話さないけれどコミュニケーションを拒絶している訳ではなく、話し掛けられると誰に対しても変わらない微笑みを浮かべ、軟らかな態度で接する温和怜悧なクラスメイト……といったところだ。
このイメージは他のクラスメイトたちとそう変わらない。
ただ優子は、独りで居る時の表情――授業中に盗み見ると得も言われぬ冷たさを感じたり、窓の外を見詰める横顔はとても詰まらなそうに見える事があった。
普通の中学生に過ぎない自分たちと比べ大人な彼女には、この教室は退屈で堪らないのも知れないと思い、普段その所為でより一層声を掛けづらくなっていて、正直なところ苦手意識のようなものも持っていた。
冷たさの理由は、整った容姿、中でも少々鋭さのある目に因るところも大きい。授業中は集中して周りを気にしていない為により鋭く、美貌もより引き立っていた。
窓の外を見ている時は単に暇で気が抜けているだけだったりするが。
つまり窓の外を見詰めている時に退屈そうに見えるのは正しい。但しそれは、紅葉に友だちが居ないからなのだが。
その事には割と察しの良い優子でも気付いていない。
とにかくそんな印象の紅葉。ペンを片手に独りノートを見詰めるその横顔を優子が盗み見ると、口元がほんの僅か緩んでいる。
(気がする。誘った時嬉しいって言ってたもんなぁ……)
昨日紅葉を誘った時の事を思い出し、その時の紅葉の、自分の知る彼女らしからぬ満面の笑みも思い出して、かっと顔に朱が差した。優子は頬に手の平を当てて誤魔化す。
(いやそうじゃなくて。そうじゃなくって。あー……)
再び紅葉の様子を窺う。ノートを見詰める横顔は、やはりどことなく機嫌が良さそうに見えた。
(勉強は一人でしかやらないって言ってたし、珍しく大人数? でやって、平島さんでもちょっとテンション上がってるのかも)
実際はちょっとどころではないのだが、優子は好意的に解釈。大人びた、これまで距離を感じていたクラスメイトが近くに感じられた。
(この際だし、ちょっとお喋りしながらするのもいいかも)
誘った手前真面目にしなければと考えていたが、今の紅葉の雰囲気と距離感から、もっと緩い勉強会も有りじゃないかと思う。
ちらりと真希を見ると、相変わらず真面目に取り組んでいる。偶にする質問の際に生じる会話で満足しているように見えた。
勿論勉強は大事だし、今日はその為の集まりだ。それは優子にも分かっているが、これが折角の機会なのは間違いない。
このまま、ただ真面目にテスト勉強をして、後日わからないところを質問する。期末考査が終わっても偶に勉強を教えてもらう、今よりも一歩先に進んだ関係になれる気がしていた。
しかし今も含め最近の紅葉の、不意に見せる態度や表情を見ていて、頑張り次第でもっと仲良くなれる気がした。
またこれまでは、真希の為という思いが強かったが、紅葉に対する印象が多少変わってきて、優子自身仲良くなりたいという気持ちも芽生えた。
そんな考えをめぐらせているとチャイムが鳴った。どの教室ももう授業は行われていないが、決まった時間に鳴るようになっている。
癖になっているのか、チャイムの音に反応して目の前の二人から少し力が抜けるのを感じ、優子は丁度良い機会だと話し掛けた。
「休憩にしない?」
それを聞いて二人がほぼ同時に顔を上げ優子に顔を向ける。
「そうしましょうか」
「はい」
紅葉は同意して一旦教材を片付け、真希も頷いてペンを置く。
(そうしてみよっか……)
真希が参加し易い話題は何だろうか。席を立った優子は休み明けの話題について頭を働かせるのだった。




