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四十話 紅葉のハート

 帰宅した紅葉は自室で机に向かっていた。今は試験勉強ではなく授業の内容を復習している。試験期間中も予習復習は欠かせない。

 開け放たれた窓から風が吹込み、プリントを見直している紅葉の頬を撫で、髪を優しく揺らす。

 ここ最近は暑さもだいぶ、特に昼を過ぎてからは厳しくなってきたが、まだ七月にも入っていないという事もあり、クーラーは余程暑くならない限りは自重し、窓と部屋の扉を開けて自然の風を取り入れている。


「…………」

 部屋に居るのは紅葉一人。黙々と見直しを続ける。

 それでも全くの無音という訳ではない。扉を開けているので普段よりボリュームを下げられているとはいえ、コンポからは今も音楽が流れ、殆どかき消されいるがペンの走る音、あとは時折、車のエンジン音が窓の外から聞こえてくる。それらをBGMに、紅葉は適度に集中していた。


 その時、ピピッと小さな電子音が鳴った。

 発信源は机の上に置かれたデジタルの腕時計。黒色のそれは大きく無骨なデザインで、耐衝撃や防水等で世界的に有名なシリーズのものである。

 この、紅葉の細腕には死ぬ程そぐわない腕時計の元々の持ち主は兄の葉月。よく見ると液晶にヒビが入っているのが分かり、少々見辛い。

 葉月が小学生の頃から愛用していた物だが、近年うっかりヒビを入れてしまい買換えたので、もう使わないのならと貰ったのだ。


(ん。もうそんな時間)

 アラームに反応してちらりと腕時計に目を向けた紅葉は、プリントを手放し軽く机の上を片付けた。


「んー……」

 それから椅子の背もたれに寄り掛かりながら手を伸ばして固まった身体をほぐすと、腕時計を引出しに仕舞って立ち上がった。

 腕時計はアラームの為に用意した物で、普段は今も机上に置かれているアナログの置時計を愛用している。

 貰ったもののヒビで時間が見え辛く、また紅葉は自分に似合わない事は分かっているので、こうして室内で限定的に活用されていた。

 ちなみに、アナログ時計にも目覚まし機能は付いているが、その使用用途故にどうしても五月蠅い。今回の様に聞こえればそれで良い時には腕時計のアラームを使っている。


 紅葉は着替えを用意するとコンポの電源を落とし部屋を出て階段を下りて行く。目指すはバスルームだ。


 バスルーム前、脱衣所の扉はしっかりと閉じられ、中からは聞き慣れた音が聞こえて来る。紅葉は扉をノックした。


「はいはーい」

 扉と機械音に阻まれているが声は間違いなく姉の楓。扉の向こうが脱衣所という事もあり、紅葉は一応確認を取る。


「あ、ドア開けてもいい?」

「うん、いいよー」

 返事を待ってから扉を開ける。脱衣所は廊下よりも生暖かい空気が籠っており、少々湯気も立っていた。

 紅葉が開けた扉の正面に備え付けられた鏡面台の前に立って、ドライヤーで濡れた髪を乾かしている楓は、脱衣所に入って来た紅葉に鏡越しに笑い掛ける。


「丁度よかったみたい、だね」

 紅葉は扉を閉めると、部屋着のジャージをもぞもぞと脱ぎながら話す。不特定多数の少女が居るプールの脱衣所とは異なり、相手が姉なのでさすがに恥ずかしがりはしない。


「うんバッチリ。今上がったところ」

 楓はパジャマ姿。二人の会話と髪を乾かしている事からも分かる通りお風呂上がりだ。

 姉妹は取留めのない話をしていたが、紅葉が脱ぎ終えたところで唐突に終った。


 紅葉が磨りガラスの扉を開ける。直前まで楓が入浴していた為に、脱衣所に入った時以上の熱気と湯気が裸の紅葉を襲った。



「くぁ……」

 湯船の中で大きく伸びをしていると気持ちの良さに思わず息が漏れた。湯船の縁に寄り掛かりだらける、かなりのリラックス状態だ。


(明日は勉強会、かあ……)


「ふふっ」

 表情が緩みきっている。勉強に集中している時など何か他にしている時は別だが、こうしてお風呂に入っていて他に特にする事がないと、明日の勉強会の事が頭に思い浮かんでくる。


(でも遊びじゃないの。しっかりと備えなきゃ)

 あくまで生徒と生徒。頼ってはいるが優子からするとそれは建前に近い。紅葉と少しでも仲良くなれてテスト勉強も捗れば良い、くらいに考えている。

 紅葉も仲良くなれたら良いなぁと思っているが、変に真面目な紅葉は勉強会なんだから真面目にしないと、と自分に言い聞かせ表情をきりっとした。直ぐに緩んだが。


(明日はお昼までだから時間もあるし、色んな科目の準備しておこうかな)

 頭の中で勉強会の準備について考える。元々モチベーションは高かったが予定を組んでいると更に高まり、入浴中なのにテンションも上がって来た。


(こういう時なんて言うんだっけ? んー確か二号さんが……、あ、そうだ――)


「みなぎってきたーっ」

 小さく叫びながら湯船から立ち上がる。立ち上がったのはなんとなく、勢いで。


「ん? 紅葉ちゃん呼んだ?」

 すると扉の向こうから反応が返って来た。いや、返って来てしまった。


「! う、ううん。なんでもないの」

 扉を挟み隣りに楓がいる事をすっかり忘れていたのだ。独り言に反応された紅葉は急に恥ずかしくなり、勢いよく湯船に浸かった。

 テンションが上がり過ぎてドライヤーの音が耳に入っていなかったのである。ついでに急に立ち上がった事で軽く立ち眩み付き。ぐだぐだである。


「そう? それならいいけど」

「うん」

 ドライヤーのスイッチを切り楓が返事をした。耳元で発生していた騒音のお陰ではっきりと聞こえなかったのか、姉からは特に追求はない。まあ、楓が脱衣所に居たのもドライヤーの所為と言えるかも知れないが。


「それじゃあ、お先にー」

 髪を乾かした楓は、そう言い残し脱衣所から出て行く。

「……不覚」

 紅葉は小さく呟いて鼻下までお湯に沈み、ぶくぶくと泡を立てる。勿論、今度はしっかりと脱衣所の扉が閉まる音を聴いてから。



「あ、そういえばお姉ちゃん」

「――、どした?」

 冷たいお茶を飲んで喉を潤していた時に話し掛けられた楓は、グラスから唇を離して返事をした。

 現在の時刻は十九時過ぎ。お風呂から上がった平島姉妹は、パジャマを着て並んで座り、夕ご飯を食べているところである。


「今日学校でね、いろはさんたちに会ったよ」

 今日あった珍しい出来事を思い出しながら、その場に居なかった楓に告げた。


「あー、言ってた言ってた。その後会って直ぐに聞いたよ」

「あら学校で? それは珍しいわねぇ」

 二人の会話にのんびりとした口調で参加して来たのは、同じテーブルに着いている母の雪菜だ。紅葉の正面の席に座り、いつも通りニコニコと笑っている。


「一応同じ学校同じ敷地内だけど区切られてるし、校舎が違うからねぇ」

「うん。今日は本当に偶然。次が水泳の授業で高等部にお邪魔してたら、廊下でばったり」

「私たちのクラスも前の授業が調理実習だったの。私は日直でその場には居なかったんだけどね」

 楓の言葉を紅葉が、紅葉の言葉を楓が、互いに補足し合いながら雪菜に話す。雪菜は頷き、そういう事もあるのね、と言った。


「その時にね、今度の日曜日に千鶴さんたちが家に来るって言ってたけど、試験期間中に来るのって珍しいよね。初めてじゃない、かな?」

 そう疑問を口にする紅葉は日曜日の事を思ってか、表情はかなり明るい。


「いつもは効率悪いだろうからって、テスト勉強は一緒にしてないからねー。偶にはやってみようかって事になったの」

「そうなのかー」

 いろはたちの話題になる以前からそれなりに会話はあったが、今は三人共食事のペースが落ちて雑談が増え始めている。

 しかし葉月だけは食事のペースは落ちていない。

 今も熱でとろりと溶けたチーズの乗った大きなハンバーグを箸で、紅葉たちの一口の倍以上の大きさに切り分けると、閉じ込められていた肉汁が止めどなく溢れるハンバーグを口に運び、女性陣より二回りは大きな茶碗に盛られた湯気の立つ白米を掻き込んだ。

 少し前まで、範囲が広いだとか副科目はどんな問題になるかわからないなどと、高校に入学して初めての期末考査が少々不安らしく色々と愚痴っていたのだが、いろはと千鶴の両名共に顔見知りでも話題が女子校だと男の子の葉月には参加し辛いのか、はたまた別の理由からか、今は会話には参加せずに黙々と食事を続けている。


 本日葉月が平日にも拘らず、紅葉たちと珍しく一緒に夕飯を食べているのは、葉月の通う学校も期末試験前で部活動が休みになり、帰宅時刻が早まっているからである。試験の日程はミノア女学園とさほど変わらない。


「昨日お弁当要らないって言ってたけど、調理実習なに作ったの?」

 紅葉は日曜日の話題から少し戻ると、首を傾げて隣りに座る楓に尋ねた。


「んー、班によって違うんだけど、私の班は魚……、鮭のホイル焼きがメインで、あとはおひたしとスープにご飯。いろはと千鶴の班は豆腐ハンバーグにマッシュポテトと、あと何かスープも作ってたっけな」

 それを聞いた紅葉は小さくない衝撃を受けた。内容が自分の想像以上だったからだ。

 動揺から紅葉の背中に嫌な汗が伝う中質問を続ける。


「……班によってメニュー違うんだ?」

「うん。決められた時間とカロリー内で何を作るか予め自分たちで話し合ってね、先生に一度プリントを提出するの。それで許可を貰ったものを作るっていう授業だったからね」

 そう事も無げに語る楓であったが、聞いている紅葉の衝撃は先程を上回っていた。

 お弁当が要らないと言う話から、お昼ご飯の代わりになるよう何品か作るのだろうと思ってはいたが、もっと簡単なもの――、目玉焼きや野菜炒めとは言わないが、それらより若干難度の高いものくらいに考えていたからだ。

 料理に詳しくない紅葉は魚料理やホイル焼き、代用品を使った料理がかなり難しいイメージで、それに飲まれていた。

 加えて自分たちで考えるというのだから、レベルの差を感じ、気の早い事に今から来年度の調理実習が不安になっている。


「てか姉ちゃんってそんな料理作れるの? 正直意外なんだけど」

 これまで黙って食事をしていた葉月が三人より一足先にご飯を最後の一粒まで綺麗に食べ終え、食器をシンクに運びながら尋ねた。

 その問に楓は、肩を竦めると苦笑いして答える。


「いやそれがね、結構簡単なのよ。まあ、メニューは同じ班の料理が得意な子が中心になって考えてくれたんだけど。というか自分が料理に慣れてない事はよーく分かってるから無謀な事はしないってば」

「ふーん……、なんか難しそうなイメージだった」

 愛用の湯飲に熱いお茶を注ぐと、再びテーブルの自分の席へ戻りお茶に息を一口飲み、今度は別の疑問を口にした。


「鮭のホイル焼きか。カロリー割と高そうなイメージなんだけど、カロリー計算をする授業っていう事は結構低カロリーだったり?」

「さあどうなんだろ? よく知らないけど、んー、私たちが作ったのはバター抜きだから低カロリーだよ」

「それでいいのか女子高生……」

 呆れた様に呟く葉月に楓はあははと笑って誤魔化す。

 主要科目以外の成績も良い楓だが、実技は結構いい加減というか要領が良い。あまり自分で料理する事に興味のない楓は、やる事はやるが、必要のない、今回の場合だと本来のレシピで作られた鮭のホイル焼きのカロリーなど最初から覚える気もなかった。


(そっか、簡単なんだ……)

 二人の会話を聞いていた紅葉は密かに安堵する。

 作った事のないホイル焼き――、そうでなくとも兎も角難度が高いというイメージの拭えない魚料理や、遠い昔に一応作った経験はあっても代用品を要いた事のないハンバーグを、想像でやけに難しく考えていた。

 実際は楓の言う通り簡単な料理の部類に入る。


(でももう少しできる様になった方がいいのかな……)

 ただ、今のままだと喩えるなら、予習が完璧でない状態で翌日を迎えるような、準備不足で試験に臨むような心細さを感じていた。試験は別にしても予習でそこまで不安に陥るのは、ヘタレな面が強いのかも知れないが。

 根が真面目で、楓とは違い時々手の抜き方がとんでもなく下手で、なにより臆病な紅葉らしい悩みといえばらしい。

 だが明日明後日に降り懸かる問題ではないので、一先ず落ち着きを取り戻した紅葉は、料理やお弁当の話題から思い出した大事なお願いを、雪菜に伝える。


「お母さん」

「なぁに?」

 尋ねられた雪菜は小さく首を傾げ笑顔で応じた。


「明日の放課後、クラスの子と残ってテスト勉強するの」

「……そうなの」

 娘の口から嬉しそうに語られる内容に驚き返事に僅かな間が生まれるも、学園での紅葉以上の笑顔のポーカーフェースで迎え相槌を打つ。

 楓が箸を茶碗に伸ばした状態で停止し、葉月が湯飲に口を付けた状態で硬直している中でさすがと言える。

 ただ、姉弟に関しても、中学になりミノア女学園に通いだしてからクラスの子の話題を紅葉の口から聞いた事なぞ殆どないのだ、これ程動揺するのも仕方がないだろう。

 紅葉はそんな二人の様子には一切気付かず続ける。


「うん、だからね、明日もお弁当用意して貰いたいんだけど――、あっ、明日は葉月も要らないんだっけ……」

「お、おう! あー……、うーんと……」

 突如紅葉から話を振られ、固まっていた葉月は驚きの声を上げ、口元に湯飲を当てたまま曖昧な、返事と言えない返事をした。その際湯飲を前歯に打ち付けちょっと痛い。


 明日は土曜日なので、ミノア女学園に通う平島姉妹は普段からお弁当は用意して貰っておらず、家で食べるか、楓の場合は友人らと外で済せる事もある。

 葉月の学校も土曜日はミノア女学園と同様にお昼で授業は終わるが、普段はその後部活動があるからお弁当を用意して貰っている。

 ただし、今は部活動が休みの期間なので必要ない。

 喋っている最中にその事に気付いた紅葉は、葉月のついでにもう一人分用意して貰う予定だったので言い出せずに困り顔だ。


 葉月としても、こんな小さな躓きで明日のクラスの子との勉強会が流れるなんて事は、万が一にも無いだろうという事は分かっている。

 ミノア女学園には購買があり、中等部の生徒もパンが買えるという話は聞いた事があるし、仮に試験前の土曜日という事で入荷しないとしても、朝学園に行く前に買えば良いだけの話だ。

 それでも、何分紅葉の同級生の話題はデリケートなのでかなり慎重になり、石橋を叩いても渡れない。軽い調子でうん、とは言えなかった。


 葉月は心持ち湯飲を顔に寄せて口元を隠し、なるべく表情を見せない様にしながらあれこれと考えを巡らせる。視界の隅に映る楓からもプレッシャーを感じ結構必死だ。十六年近い付き合いのある姉の目は、どう見てもなんとかしなさいと訴えていた。無茶振りである。


 困りに困った葉月が、こうなったらいっその事、何か用事をでっち上げてお弁当を持って行き、時間を潰して帰ろうかと考えていると、助け船が出された。


「大丈夫よ、紅葉ちゃん」

 雪菜がいつもと変わらない優しい笑みを浮かべ、ゆったりとした口調で言う。


「明日はお父さんがお弁当の日だから、気にしなくていいのよ」

 平島家のお弁当は基本的に、例えば紅葉好みの甘い卵焼きといった子どもたちの好みに合せられており、父親もお昼は自分の好きな、家では体に悪いからと制限されていてなかなか食べさせて貰えない麺類や、温かい定食をよく食べている。

 それでも週に一、二度、雪菜にお弁当を用意して貰っていた。


「いいの?」

「勿論よ。それにお弁当のおかずは朝ご飯にすればから、お弁当のない日でも気にしなくていいの」

「……ありがとう」

 それを聞いてようやく安心したのか、紅葉が花の咲いたような笑顔を浮かべる。

 成り行きを見守っていた楓と葉月の二人も、その笑顔を見てほっと息を吐く。特に葉月は変に力が入っていたのか、椅子の背もたれに深くもたれ掛かった。


 ちなみに父親のお弁当の件だが、前日に帰宅してから頼まれる事が多く、今日もまだ聞いてはいない。つまり明日がお弁当の日というのは嘘である。

 けれど明日はお弁当を用意すると言われても普段から嫌がらないだろうし、理由を聞けば喜んで賛成するだろう。


「……お風呂入ろうかな」

 誰に言うでもなく葉月がぼそりと呟く。少し温まったお茶を飲み干して立ち上がると、湯飲をシンクに運んでからダイニングを出て行った。

 姉妹とは違い、まだ入浴を済ませていない葉月であったが、顔に少し疲れが見え、汗もかいたので丁度良いのかも知れない。


 それから穏やかな空気の中女性陣も食事を済ませると、楓と紅葉は少しの間リビングでゆったりとして過ごし、葉月がお風呂から上がって来たタイミングに合せ、三人揃ってテスト勉強をしに各々の自室へと戻って行った。

 紅葉に関しては昨夜と同様、テスト勉強を教える為の勉強になっているが、モチベーションはかなり高いので問題はないだろう。

 こうして金曜の夜は更けていく。

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