三十八話 切っ掛け
ある日の朝、いつもと変わらぬ時間に中等部の教室に着いた紅葉は、クラスメイトたちから掛けられる朝の挨拶に丁寧に返しながら窓際の席に座った。
椅子に身を預けた紅葉は普段からよくそうしている様に、ぼうっと窓の外を眺めるのではなく、机に掛けた鞄から一冊の本を取り出して栞を外すと続きを読み始めた。
ハードカバーサイズのそれは、生憎ギンガムチェック柄のブックカバーでタイトルは見えない。
これは先週学園の図書室に借りていた本を返却した際、新たに借りたものである。朝のHR前で多少ざわつく教室で紅葉は、担任が来るまでの時間を静かに本を読み進めていく。
(うー……、今日中に終わるかなぁ)
しかしその落ち着き払った見た目とは裏腹に、紅葉は内心焦っていたのだった。
◇
(ああ、もう時間……)
三限目と四限目の合間にある休憩時間に、朝のHR前と同様読書していた紅葉は、ちらりと黒板の上に設置された時計を見て現在の時刻を確認すると、本に栞を挟んで鞄へ戻した。
この時間は二限目と三限目の間にある二十分間の休憩や、四限目の後のお昼休みとは違い、時間は僅かに十分しかない。なので落ち着いて読めないからと、普段は本を持って来ていても読む事は殆どない。先程までも、読書をしながらも時間が気になっていた様で、度々時計に目をやっていた。
では何故今日は読んでいるかというと、一つの問題、という程のものではないが、迫っているものがあるからだ。
(今日中……、放課後まではちょっと無理そう)
愛用のクリーム色のペンケースから、シャープペンシルと消しゴムを取り出した紅葉は、次いで教科書とノートを開きノートには下敷きを挟むといった次の授業の準備をしながら、誰にも気付かれない程小さな溜め息を零した。
本日は六月二十四日の木曜日。今日から部活動も休みに入る、期末考査の一週間前だ。
これに先駆け、月曜日から帰宅後いつもと同じ様に予習と復習は勿論、普段主に【魔法少女おんらいん】をして過ごしている自由時間を勉学に当てているが、学園に居る間はこれまでと変わらない、気が向いた時の朝のHR前や二十分休み、お昼休み、あとは帰りのHR前に本を読み、気の乗らない時はぼうっと窓の外を見て過ごす生活をして来た。
だが今日の朝、駅に向かうバスに揺られている時に、ふと返却の期限が迫っている事を思い出したのだ。
借りたのは先週の木曜日。今週の木曜日=テストの一週間前という意識が強く、返却期限の事をすっかり忘れてしまっていた。
鞄に仕舞った本は本日の放課後、図書室が閉館するまでに返却しないといけない。焦った紅葉は、いつもなら読まない短い休み時間も使って、少しでも読み進めようとしているのだ。
(あと少しだし……、兎も角読もう)
紅葉がそんな風に考えていると教室の前の扉が開き、四限目の授業を担当する教師が入って来た。
教卓の後ろに立った教師が出席簿に目を通しながら教室を見渡し、一人の欠席者も居ない事に満足して温厚そうな笑みを見せた時、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。
「では日直さん、号令をお願いします」
「起立」
教師が大きくないがよく通る声で言うと、日直が号令をかけ生徒たちが立ち上がる。
(でも今は集中)
紅葉もそれに倣う。
「……礼」
よろしくお願いします。他の少女たちの声に揃え挨拶をして着席すると、背筋を伸ばしてじっと前を見詰めるのだった。
◇
本日の授業が全て終わり、お昼休みに降り出した小雨の雨音が、賑やかな教室に静かに響く。そんな中紅葉は、今日一日空いた時間を常にそうしてきたように、やはり読書を過ごしていた。
あれから残りのページ数は当然、かなり減ってはいるが、それでもまだ数十ページは残っている。
(――ん? ああ……)
席を離れ、教室の至るところで仲の良い友人たちとお喋りを楽しんでいた少女たちが一斉に動きだす気配を感じ、本から顔を上げると丁度担任の西教諭が教室に入って来たところだった。
ここで時間切れ。薄々分かっていた事だが間に合わなかった。
(まあ仕方ない、か)
紅葉は小さく溜め息を吐いたが、その表情を親しいものが見れば先程までと比べ心なしか落ち着き、明るく見えただろう。結局間に合いはしなかったが、今日一日追われていたものから解放されたという思いがあるのかも知れない。
栞を挟み本を机の中に仕舞うのとほぼ同時に日直の号令が掛り、帰りのHRが始まった。
◇
「――、それじゃあ今日はここまで。日直号令よろしく」
「起立」
手早く連絡を終えた西教諭が日直に号令を促す。
「……礼」
先生さようなら。声を揃え挨拶をすると、少女たちは皆思い思いに放課後を過ごすべく、挨拶の直後に急ぎ足で教室を出て行ったり、職員室へ向かう西教諭に付いて行くものなど様々だ。
しかし、いつもの放課後に比べると直ぐに教室から出て行く少女の人数は少ない。その主な理由は、今日から試験一週間前になり期末考査が終わるまでの間部活動が禁止されているからだろう。いつもの様に急いで部室へと向かう必要がない。
あとは数人で集まり、近くの机をくっ付けている少女たちのグループが二、三ある。各々教科書やノートを出しているので、これから一緒にテスト勉強をするのだろう。その中には真希や優子も居り、会話をしながら他の少女たちと同様に準備をしている。
紅葉はというと、ミノア生の帰宅ラッシュで乗車率の高いバスを避ける為に、しとしとと降り続く雨を眺めて時間を潰す――、のでは今日は当然なく、机から取り出した本を開いた。
(んー……三十分ちょい、かな?)
大まかに残りのページ数を数え、時間に当たりを付ける。今日ここまでのハイペースで読めばもう少し短く済みそうではある。しかし一応の目標であった放課後になってしまったので肩の力が抜け、図書室の閉館までに間に合えばそれで良いという考えに変わり、内容をもっと楽しもうという余裕が生まれていた。
閉館時間はまだ先。かなり余裕がある。
とはいえ、一日ハイペースで読んだのだから、ペースを落としてもあと三十分程度で読み終えるところまで来たのだ。ここまでの頑張りが無駄という訳ではない。
(っと、ページ数を眺めていても仕方がないわね)
紅葉はいつの間にか弄っていた緩い三つ編みから手を放すと、終わりに向け読み始めるのだった。
◇
「ふぅ……」
紅葉は小さく、しかし満足げに息を吐くと、後書きまで読み終えた本を静かに閉じる。
途中何度か前のページに戻ったりしたが、予想通りおよそ三十分で読み終えた。
教室には他クラスの生徒も含め十人程が居て、テスト勉強をしながらも小さな声で話したり、時折クスクスと笑い声も聞こえる。まだ切羽詰まる時期でもないからか楽しげで、余裕が感じられた。
だが勉強している事には違いない。紅葉は彼女らの邪魔にならぬよう、静かに帰る準備をしていく。
(こっちを向いている人居ないから、案外気付かれなかったりして)
さり気なく教室の様子を伺う。
(それはそれで、葉月が好きな、えーっと……、隠れんぼのゲームみたいで面白そうかも)
なんだか楽しくなって来た紅葉は出来る限り音をたてない様、慎重に椅子を引いて立ち上がると、静かに椅子を戻して鞄を手に取った。どちらも降り続く雨音が紅葉に味方(?)し、殆ど洩れていない。
(よし)
帰宅の準備を終えた紅葉が、こっそり扉へ向かう一歩目を踏み出そうと身体の向きを変える。しかし――。
(あっ)
こちらを見ていた少女――、林成美と目が合った。
成美は目が合った事に驚いている様子で、直後はあたふたと視線を彷徨わせていたが向き直り、口を開いた。
「あのぅ……、平島さん、さようなら」
(残念、紅葉の冒険はここで終わってしまった)
心の中でセルフナレーションを入れる。一歩目を踏み出していないのだから冒険は始まってすらいない、なんて言っちゃいけない。
「ええ、さようなら」
呆気なくゲームオーバーを迎えた紅葉。気を取り直して微笑みを浮かべると、丁寧に挨拶をしてから歩き出した。
「ごきげんよう」
「さようなら」
「平島さん、さようなら」
二人のやり取りで紅葉の帰宅に気付いた他の少女たちも次々に挨拶をし、紅葉もその一つ一つに小さく頭を下げながら挨拶をして教室を出た。
(なんだろう……。こういうのを試合に負けて勝負に勝ったって言うのかな)
独り遊びは完全敗北に終わったが、気付かれたお陰で挨拶(会話)が出来て喜びを感じていた。何せ今日は一日中本を読んでいて過ごしていたから、ただでさえ少ない会話の機会は完全に費え、朝教室に入った時の挨拶以外に誰とも会話を交していなかったのだ。
紅葉は緩みそうになる頬を引き締めながら、図書室へ向かって機嫌良く、ゆっくりと歩き出したのだった。
「あれ、平島さんだ」
本の返却へ、図書室へ向かって廊下を歩いていると聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、紅葉は立ち止まると声のした方向に振り返った。
そこに居たのは真希と優子。呼び掛けた優子が手を振りながら紅葉の元へ歩いて来て、真希は慌ててそれに続く。
「あら、こんにちは」
「こっ、ここ、こんにちは!」
意外な場所での遭遇に紅葉は少々驚くも、微笑み挨拶をする。真希も予想外だったからかいつも以上に吃りながら返事をして、優子はその隣りでニコニコと笑っていた。
この三人が揃うと大抵がそうである様に、今日も優子が率先して話を振る。
「こんなところでどうしたの?」
三人が会話しているのは職員室前の廊下。三年四組の教室から、下靴の仕舞われた昇降口へ向かう時に使うルートではない。
「図書室に用事があるの。借りている本を読み終えたから返却しようと思って」
「なるほどー。さっきも読んでたやつか」
優子は納得がいったという風に頷く。
「ええ、恥かしい話なのだけれど、今日が返却期限日だという事に今朝気付いたものだから」
頬に手を当てながら、紅葉は少しはにかんで笑った。
「あー、それで今日ずっと読んでたんだ」
「あら、見られてたのね。恥ずかしいわ」
冷静に会話できている様で、実は焦りもある紅葉。会話の繋ぎにと自ら恥を曝した期限日忘れの話題だが、まさか必死に読んでいた姿を見られていたとは思わなかった。益々照れて、頬をほんのりと染める。
優子が何故その事を知っていたかというと、普段から親友の真希がぼうっとしている時の目線を追うとよく紅葉に行き着くのだが、今日は目線を追った時、いつも本を読んでいる姿だったからだ。
ちなみにその真希、今は頬をほんのりと染めた紅葉をぼうっと見詰めている。優子も普段殆ど見せない紅葉の表情に驚いて口を噤み、少しの間会話が止まった。
(え、あれ? どうしたんだろ)
こうなると焦るのは紅葉だ。理由もまるで思い当たらない。
冷静を装いながらも何かないかとヒントを求めちらりと目線を動かしてみたり、ここまでの会話を振り返ってみたりと忙しい。
(あ、そうだ)
閃く。紅葉はぴこーんという軽快な音と共に、頭の上に電球がついた気がした。
「ところでお二人は、どうしてこんなところに?」
最初に優子にされた質問を仕返してみた。
よくある会話のパターンだが、紅葉の外での会話力が少し進化した事には違いない。この一歩は小さいが、紅葉にとっては偉大な一歩である。たぶん。
「あ、私たちはこれ。ね?」
「へ? うん。はい!」
優子が手に持っていた教科書を紅葉に見せながら、固まったままの真希にも話を振る。急に振られた真希は間の抜けた返事の後、はっとして優子と同様手に持ったノートを紅葉に勢い良く差し出した。
その様子を見て優子が苦笑いしながら簡単に補足する。
「分かんないところがあって。丁度学校に居るんだから質問をしに来たっていう訳」
「そう」
(それで職員室前、か)
自分たちの今居る場所に納得して、首を小さく縦に振って相槌を打った。
「あー、そうだ」
優子が今までより大きな声を上げる。
「今度分かんないところあったら平島さんに聞いてもいいかな?」
「……え?」
紅葉はまるで優子の言葉が分からないかの様に、らしくない声を小さく漏らした。
「あ、ダメ、かな?」
その反応に、名案を思い付いたとばかりに笑顔だった優子も慌てるが、逆にそんな優子の反応を見た紅葉はフリーズし掛けていた頭が再起動すると、心の安定を求める様に三つ編みを触りながら返事をする。
「駄目なんて事はないのだけれど。ただ、どれもきちんと答えられるかわからないわ、よ?」
小首を傾げながら問う。その瞳はよほど親しい人物でなければ気付かない程小さく不安に揺れている。
「そんな事は気にしないで。気にしないよね?」
後半真希に同意を求めると、真希は頷きながら声を上げた。
「勿論です! 気にしません!」
顔を赤くして廊下、それも職員室前という事で絞られていたボリュームを上げ同意する。
そんな二人を見て紅葉は微笑みを作ると、落ち着いた声を心掛けながら返事をした。
「そういう事でしたら」
そう告げた時チャイムが鳴った。
三人は数十秒間、チャイムが鳴り響いているのを黙って待ち、鳴り止んだのを見計らい優子が話し出す。
「引き止めちゃってごめんね」
「いいえ、気にしないで。それじゃあ私はこれで」
紅葉が小さく頭を下げると二人が挨拶をする。
「さよなら」
「ひらしまさんさようなら!」
小さく手を振る優子と、がばっと勢い良く頭を下げる真希にうっすらと微笑む。
「ごきげんよう」
紅葉は再び図書室へと歩き出した。
(こうしては居られないわ。早く帰って勉強しなきゃ……!)
見た目の落ち着きとは裏腹に、紅葉のやる気はかなり上がっていた。いつものゆったりとした足取りも今は少しだけ早足になっている。出来るだけきちんと答えられるよう燃えているのだ。
一方願い出た優子は、紅葉は成績が良いし、話せれば真希も嬉しいだろうと思っての提案、軽い気持ちでの事である。
しかし中学生になって、本人が無自覚に張ったバリアと周囲の遠慮から、実は一度も勉強を訊かれた事のない紅葉は、ちょっとした約束にテンションが上昇し、加減がよく分からなくなってしまっていた。
図書室で返却の手続きを済せた紅葉はいつもと違って本棚を物色する事なく、一直線に昇降口へと向かうのだった。




