三十四話 となりに座る少女
翌日の金曜日。紅葉は今週最後の水泳の授業中だ。とはいうものの水曜日と同様、今日は授業時間を十五分残して自由時間になっている。
二人の教師たち監視の元、友人同士はしゃぐ者、開放された区域も使い思い切り泳いでいる者、そしてプールサイドで静かに過ごす紅葉や巴のような者も少なからず居た。
「…………」
「こんにちは」
「……こんにちは」
プールの縁に座り水面に脚をつけて涼んでいた巴は、プールサイドを歩いていた紅葉と目が合い、お約束のように少しの間沈黙したが今日は紅葉が機先を制した。
水曜日は偶然の出会いだったが、今日は話せれば嬉しいと期待しての事。少しだけ積極的に動いた紅葉だった。楽しそうな少女たちの雰囲気に当てられたのかも知れない。
「ここいいかしら」
巴の眠たそうな瞳に見詰められ黙ってしまいそうになりながらもなんとか続ける。今日は最初から巴と話せればと思い行動していたので、歩きながらシミュレーションしていたのだ。成長しました、たぶん。
こんにちは、ここいいかしら。こんにちは、ここいいかしら。心の中で呟きながら何食わぬ顔をして歩く紅葉。必死である。
「勿論……、うん……」
そう小さく呟き自身の足元に視線を落とす巴の表情は紅葉の目にも心なしか明るく見えた。
(うん、って。うん、って!)
巴の反応に頬が緩みそうになるのをぐっと堪え、巴の隣りに人一人分ないくらいのスペースを空け腰を掛けると横目で巴の様子を窺う。よく観察しないとわからない程度ではあるが、巴の口角はほんの少し上がっている。機嫌は悪くなさそうだ。
(あっ)
そうやって紅葉が観察していると巴と目が合ってしまった。
慌てる紅葉。しかし巴はそれ以上に慌てて顔を逸らすと、小さく足をばたつかせて水面を波立たせた。
(か、可愛いわね。今のは長谷部さんに匹敵しかねないわ……)
長谷部さん級。つまりは天使級。それは紅葉の中で可愛らしさを表す最大級の讃辞である。巴の可愛らしい仕草にテンションの上がる紅葉であったが、ここで紅葉にとってある重要な事に気付いた。
(ここからどうしよう)
紅葉がシミュレーションしていたのは、声を掛けて隣りに座るまで。つまりここから先はアドリブ。詰めが甘いどころの話ではない。
「…………」
「…………」
紅葉一人がひたすらに気まずい無言空間。なにかないかとさり気なく周囲を見渡すも特に目に止まらず、偶に目の合う少女たちが居るくらいである。これは以前ほどではないとはいえ依然として二人の噂は燻っており、紅葉と巴が並んで座っている事に気付いた一部の少女が注目しているからだ。
しかし幸いといっていいだろう。それどころではない紅葉は偶然と思い深くは考えない。
(うーん……、あ)
悩みながらも無意識の内にプールから水を掬いかけていた自身の二の腕を見みて、顔を上げた。
「良い天気ね」
鉄板。王道。伝家の宝刀。困った時の天気の話題だ。
紅葉が見上げたその視線の先には明かり取りの窓があり、プールの縁に座る二人を今日も明るく照らしている。
「そう……ね……」
顔を上げ、目を細めて眩しそうに見上げる巴を見て紅葉は思う。
(やっぱり肌白いなぁ。すごく綺麗)
紅葉の肌もかなり白いのだが、巴はそれ以上。微かな日焼けのあともなく、まるで普段、太陽の光を必要最低限しか浴びていないのではと思えるほどに白い。紅葉は間近で見たその白さに魅せられていた。
(勿体ない)
同時に、こうして陽が当たり肌が焼けていまう事がとても残念に思えた。
(誘ってみよう、かな)
下を向いてなにか考えだし黙ってしまった紅葉を、巴が不思議そうに見ている事にも気付かない。
(よ、よし)
紅葉は両腕をプールサイドについて身体を支えると、僅かに腰を浮かせて滑る様にプールに入った。
(ひゃっ冷たい)
久し振りにプールに入り、陽を浴び火照った上半身を水の冷たさに震わせると、体を反転させプールの縁、つまり先程まで腰を下ろしていた場所に寄り掛かり、少し驚いた表情で紅葉を見ている巴を見上げる。
「こうするともっと涼しいわ。どうかしら?」
前回プールの縁に誘った時と同じように、今回はプールの中へ巴を誘う。だが今回は返事が返ってこない。
(ダメ……かな?)
実は首を傾げ微笑み、上目遣いで見詰める紅葉に動揺、見とれているだけだったりするのだが、当然紅葉は気付かずに、芳しくない(ように見える)反応に必死に表情を維持しつつも焦りが募る。
(でも……)
ちらりと巴の透き通るような白い腕、目の前の太股を見てやっぱり勿体ないと思い再び口を開いた。
「肌――」
「……え?」
少々間の抜けた反応を返す巴。
「肌白いから、焼けたら勿体ないなと思って、ね」
目をぱちぱちをしばたたかせ、驚いた表情をして黙る。やがて小さな声で呟いた。
「白いだけ……。全然健康的な色じゃないし……」
「ううん、そんな事ないと思うわ。すごく綺麗。私は好き」
紅葉は家や、時にネットゲームで見せるような素直な気持ちを口にする。
それを受け巴は落ち着きなく目を泳がせていたが、暫くすると小さく息を吐き深呼吸して、先程の紅葉の動きをなぞる様に両手で身体を支えて腰を浮かせ、静かにプールへ入ると縁に寄り掛かった。
「…………」
「…………」
再び二人の間に流れる沈黙。紅葉が顔を向けると殆ど同じタイミングで紅葉に顔を向けた巴と目が合う。そのまま数秒間二人は見詰め合うと、やがて巴が小さくはにかんだ表情を見せた。
それを見た紅葉も漸く安堵し軟らかい笑みを浮べ、小さく笑い合った。
それから集合の呼び声が掛かるまでの残り五分ほどの時間を、この二人らしく途切れがちに会話を続け静かに、しかし楽しんで過ごしたのだった。
◇
夕食の後、自室に戻った紅葉は手に持ったアイスコーヒーをコースター代わりのスチール製の灰皿に置き、パソコンとコンポの電源を入れ椅子に座るという、半ばルーチン化された行動を取った。それからアイスコーヒーで唇を湿らせ【魔法少女おんらいん】のアイコンをクリックしてログインの手続きをした。
(んー、今日どこに行こうかな)
木製の部屋の中央にぼうっと立ちゆらゆらと揺れるくすんだ緑色の髪の、見た目浮浪少女のスクルトを見詰めながら、緩い三つ編みを弄り考える。
予定では昨日に引き続きハイン遺跡に籠っている筈だったのだが、所詮予定は予定に過ぎず、二人組のPKに敗れ遠く離れた拠点のイイーヴに戻されてしまったので、また狩り場決めから始める必要がある。
(ハインが良いなぁ)
行く手間は掛かるが、経験値、ドロップ、昨日はPKに襲われたが基本的に環境も良い。というかPKはどこでも有り得るのだ。人がとても多い狩場ならその可能性も低くはなるがそれでも絶対はない。
近場の適性レベルのソロができる狩場で、他のパーティに紛れちまちまと狩るかそれとも他にするか、悩む紅葉の元にwisが届いた。
《一狩り行こうぜ!》
テンション高く送って来たのは人斬り二号。
《一狩り行こうぜ!》
《一狩り行こうぜ!》
人斬り二号のwisをどこかで聞いたフレーズだなぁと紅葉が頭に思い浮べたその直後、全く同じ内容のwisが野風とリトルフラワーの二人からも続け様に届く。
(えっ、え? ああっ、一緒に居るんだ)
事態は直ぐに把握したがどう応対すべきか少し悩み、とりあえず最初に送って来た人斬り二号に返信する事にして、キーボードを叩いた。
《こんばんはー。えーっと、リトルさんと野風さんも一緒? だよね?》
《なになに スクルたんってば探偵?》
何かあったのだろうか、思った以上にテンションの高い人斬り二号に苦笑いしながら素でwisを返す。
《だって同じタイミングだし、リトルさんらしくないテンションだもの》
《おh 確かに 真実はいつもひとつ》
紅葉の持つリトルフラワーのイメージは落ち着いた年上の女性。野風は人斬り二号と似たノリで会話が弾んでいるのをよく見るのだが、二人がはしゃいでいる時も一歩下がった位置でニコニコと笑っているイメージで、!(エクスクラメーションマーク)を使う印象もなかった。
《まぁ それは置いといて 狩りに行かにゃ?》
《行く行くー》
願ってもない誘いだ。一も二もなく話に飛び付いた。
《ゎぁぃ じゃあルネ集合で》
《おk》
紅葉は細かな待ち合わせ場所を訊くと人斬り二号とのwisを終わらせ、早速転移スクロール、とは行かずに少し考えてからチャットを打った。
《すぐ行くね》
リトルフラワーと野風の二人に同じ内容のチャットを送るとインベントリを開く。
《ええ、待ってるわ》
《ホホーイ》
紅葉は画面下に表示された二人の会話ログを読みながら、今度こそ転移スクロールを使って首都ルネツェンへ飛んだ。
◆
二十四時間、三百六十五日、それこそメンテナンス時以外はPCで溢れているルネツェンの銀行前に転移したスクルトは、待ち合わせ場所を目指しPCとNPCで構成された人波を縫って進む。
(人多いなぁ)
中央広場に到着したスクルトは噴水前を目指すがやはりここも待ち合わせや雑談をしているPCで溢れていた。
(どこ行くんだろ?)
これから行く狩り場について考えながらスクルトを走らせる。この様子では狩り場も、特に人気の狩り場が混んでいる事は容易に想像できる。
(金曜日だものね)
仕方のない話だと思いながら待ち合わせ場所の噴水前に到着すると、三人は他の多くのPCたちに紛れ座っていた。会話は表示されていないが、おそらくいつも通りパーティチャットで会話していたようで、到着したスクルトが挨拶する前にパーティ申請が送られてきた。
紅葉は一旦挨拶を取り止めて許可を出し、改めてパーティチャットで挨拶する。
《お待たせー》
《こん》
《ハァィ》
《はい、こんばんは》
人斬り二号、野風、リトルフラワーも挨拶すると、三人はそのまま話続けた。
《どこ行こうかって話してたんだけど スクルたんは 行きたいところある?》
《今あがってる候補地はワイン倉庫なのだけれど……》
《金曜人大杉だろ←今ここ》
《なるほど》
予め打ち合わせしていたかの如く流れるように説明する。まだ狩り場は決まっていなかった。
ワイン倉庫とは【アルメイダのワイン倉庫】というダンジョンの事で、楽に行けて経験効率も良い人気の狩り場のひとつだ。このパーティだとボスは厳しいが、ノンアクティブタイプ(向こうから仕掛けて来ない)なので回避も容易で問題はない。
けれど人気の狩り場という事はつまり、今日狩りをしているパーティも多いという事も野風のいう通り目に見えている。現在居る待ち合わせのメッカ、首都ルネツェンの中央広場が人で溢れかえっているのを目にしている事もあり、なおさら意識してしまう。
(んー、一応名前出してみようかな)
『あの、行くのは手間だけど、ハイン遺跡はどう?』
アルメイダのワイン倉庫に比べ向かうのには時間が掛かるが、経験値はほぼ変わらない。更に狩り場を独占、とまでは言わないがかなり自由が利くので狩り時間によっては収得値は上回るだろう。
『流石スクルたんや』
『え?』
なにが流石なのか分からず首を傾げた。
『二号ちゃんはそれでいいのね?』
『モチのロン』
『なら決まりダネ』
三人のやり取りに、特にリトルフラワーが人斬り二号に確認を取る意図が分からずに、紅葉は益々モニターの前で首を傾げ、同様のアクションを取らせ頭上にクエスチョンマークを浮かべているスクルトに、リトルフラワーが簡潔に説明する。
『二号ちゃん、レベルアップ目前らしいの。レベルキャップの』
『えっ』
モニターの前でも口に手を当て紅葉は驚いた。
(それは止めた方がいいんじゃ)
【気絶】時にペナルティで失う経験値は、現在のレベルになってから稼いだ経験値から算出される。レベルアップ目前という事はつまり、気絶した場合に失う経験値が多いという事だ。
気絶から復帰する気付魔法は巫女の野風がレベル次第で使用できるが、クレリックの上位の気付魔法とは異なり経験値の復旧はない。
数日前に同じ様な状況、しかもソロで潜ろうとしていた紅葉が言えた話ではないかも知れないが、ソロなら撤退のタイミングもプレイヤーの思うがまま。パーティでは撤退のタイミングを見誤った末に誰かが墜ち、助けようとしたPCもやられてどんどん泥沼化していったなんて話もよく耳にするし紅葉にも経験があった。
(なにしろボスが居るし……まあ回避すれば大丈夫、かな)
自分で挙げた狩場だが、これは安全マージンを多めに見込むか、もしくは変更した方がと思い控え目に意見する。
『ミノを回避すれば大丈夫だと思うけど、事故が起きたらクレリック居ないし経験値厳しいよ?』
スクルトの言うミノとは迷宮でお馴染みの、筋骨隆々な人の肉体に牛頭の巨人【ミノタウロス】の事である。ハイン遺跡内ならどの階層、どのエリアにも出現する可能性のあるボスだ。 ソロのスクルトではまず狩りようがない現れれば即撤退、階段に逃げ込む強敵で、この四人でもミノタウロスと同時に相手にする事になるであろう雑魚の数と内容次第では大変危険な相手である。
『むしろ ミノ様を積極的に狩りたいところ』
このままハイン遺跡に行く事になるならミノタウロスを見つけたら即撤退と決めておきたかった紅葉に、当の本人である人斬り二号から意外な言葉。
『え、でもあと少しなんだよね? 結構なリスクがあるよ』
『だが そこがいい』
『テンション上がるよネ』
レベルの関係で、おそらくこの中で最も脆い野風も乗り気だ。
(い、いいのかなぁ。でも本人が乗り気なんだし良い、んだよ、ね?)
あまり口を挟むのも野暮に、空気が読めないように思えやっぱり止めようとは言えない。だが最後の抵抗に、黙って見守っているリトルフラワーに確認を取る事にした。
『リトルさんもそれで?』
本当に良いの? ミノを回避すればだいぶ安全ですよ。そう付け加えたくなるのを我慢する。
『ええ、ミノ様のドロップには夢があるし、この四人だとギリギリになりそうだし……楽しみだわ』
予想外に乗り気且つ過激なリトルフラワーの返事に、紅葉はとても驚いた。
(私はレベルアップ直後だからいいんだけど、皆予想以上に乗り気。んー、心配は心配だけど、どこで狩ってもそれなりにリスクはある……。それに……、それに確かに楽しそうかも)
紅葉は、プレイ自体は安定感のあるステ振りや戦い方をする反面、パーティではメンバーのノリに大いに流されたり、ソロでもPKとのギリギリの読み合いを楽しんだりといったちょっとだけ過激な面もある。他のメンバーが乗り気なのだから自分も楽しむ事にした。
スクルトが了解すると、待ち合わせを決め、それぞれ買い物に向かった。皆狩りの準備はしていたが砂漠越えの必須アイテム【ミネラルウォーター】は持ち歩いていなかったからだ。
昨日砂漠越えをしたスクルトは予備があったので先に転移して、自由都市グリスの西門前で三人を待つ。
五分ほどで西門に揃った四人は転移によって解除されたパーティを組み直すと門を抜け、乾いた平原へ足を踏み入れたのだった。




