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三十一話 プールサイド

 少女たちの黄色い声がミノア女学園高等部の敷地にある屋内プールに響いている。現在中等部三年四、五、六組合同の水泳の授業中なのだが、月曜日とは雰囲気がまるで違っていた。

 着替えや身仕度のために五分早く切り上げたとはいえ、五十分の授業時間の内準備体操などの時間を除いた四十分近くを泳ぎ続けた月曜日とは異なり、本日は三十分で切り上げて残りの時間は自由時間にあてられており、多くの少女たちがプールではしゃいでいるのだ。


 そんな中紅葉はというと、自由時間になり一斉に友だち同士はしゃぎながらプールに入ったり、またビート板を取りに行った少女たちの勢いに乗れるわけがなく、なんとなくプールサイドを歩きながらプールを眺め時間を潰していた。


(あ、長谷部さん)

 プールの中で中央のコースの飛び込み台の縁に掴まり、笑顔で数人の友だちと会話し、時に水をかけあって遊んでいる眩しい笑顔の少女――、長谷部真希が目に入った紅葉は歩くペースを極端に落し、少しの間見詰めていた。

 紅葉はその光景を少々羨ましく思いながらも表情に出さず、三十秒ほどぼんやりと眺めていると、真希は友だちに手を振ってクロールでその場を離れていった。どうやらこの自由時間は優子ら友人たちと遊んで過ごすのではなく、思い切り泳ぐ時間にしたらしい。


(速いなー……)

 中央のコースで水飛沫を上げ、紅葉からすると恐ろしく速いスピードで泳いでいる真希の姿を目で追い、唯々純粋に思う。


(あんなにちっちゃいのに)

 前の授業でも似たような事を考えたが、やはり何度見ても速いものは速く、驚きがあった。


(なんだろう……、魚雷みたい)

 あなた魚雷みたいね。そう言われて喜ぶ女子中学生が全国にどれほど居るだろうか。男子中学生相手でもどうかと思われる事を考えている紅葉だが、本人は百%混じり気なく褒め言葉のつもりであり、そこに悪意は微塵も含まれていない。

 そんな事をぼんやりと考えながら真希のクロールを眺めていた紅葉だったが、真希が自由時間のみ解放されたコースの端、五十メートル地点にタッチしてターンする姿を見届けると再び歩くペース上げ――、とはいえ十分にゆっくりとした足取りで、プールサイドを歩き出した。


(あっ――)

 水が撒かれても滑り辛い造りになっているデコボコとした床の感触を、当たり前の話ではあるが素足で擦るようにして摩擦を楽しむ謎の独り遊びをしながらプールサイドを歩いていた紅葉。床に向いていた目線を上げると瞳に、また一人の少女が映り足を止めた。


 紅葉が見詰める先に居るのは岡崎巴。プールの縁から離れた、どちらかと言うとプールに近い場所で膝を抱えて、いつもの気怠げな瞳でプールを見詰めている。その瞳や態度からは泳ぐ意志はまるで感じられない。また、巴の視線の先を追っても特に何かがあるわけでもなく、誰かを見ているわけでもないようで、ただ水面を見ているらしい。


(ど、どうしよう、かな)

 偶然とはいえ見付けた巴。折角なので話し掛けたいと思うが躊躇してしまう。


(邪魔になるかも知れないし)

 紅葉は話し掛けられない自分に言い訳をする。ヘタレ振りは健在だ。

 紅葉があれこれと、主に言い訳を考えながらもふらふらと、まるで甘い密に吸い寄せられる蝶のように、徐々に近付いていく。やがて巴は人が近付いて来た事に気が付き目を向け数瞬後、それが紅葉である事にも気付くと僅かに目と口を開いた。どうやら驚いているらしい。


(あ、う……)

 が、自分から寄って行った紅葉はそれ以上に驚いている。フリーズ寸前だ。


 こんにちは。二人の間の時が止まるかと思われたその時、巴の口が、屋内プールに響く黄色い声と水音で巴の小さな声は紅葉の耳には届かなかったが、おそらく唇がそう動いたのを見て紅葉はフリーズし掛けていた頭をなんとか再起動して、心持ち急ぎ足で巴に近寄ると挨拶をした。


「こんにちは」

 紅葉の挨拶に巴は軽く頭を下げ応じる。


「…………」

「…………」

 隣りに立った紅葉を上目使いで見上げる巴。


(んー、えーっと)

 一方話し掛けたいと思っていた紅葉だが、具体的に考えていたわけではないので、いざその機会が訪れても言葉が出ない。

 表情は変わらないものの内心冷や汗をだらだらとかきながら、とりあえず思い付いた言葉を口にした。


「ここ、いいかしら」

「えぇ……、どうぞ」

 ここに居ていいのか、邪魔にならないか、ドキドキしながらも内に押し止どめ、視線を床に落し尋ねる紅葉の心の内など当然知る由もない巴は、いつも通り、これでも巴にしてはややテンション高めに返事を返した。


「…………」

「…………」

 巴の隣りに座ってはみたものの、再び再開された無言の空間に紅葉の焦りは納まらない。横目で様子を窺い必死に話題を探す。


(……ん?)

 相変わらず体操座りをしている巴は、時々水着に隠れていない腕や脚に手を当てている。今まで慌てていたので気付かなかったが、よく見ると巴の周囲は明るい。

 顔を上げ見てみると、斜め上の明かり取りの窓から日が差し込んでおり、巴の白い肌を照り付けていた。本日は久し振りに晴天が広がっている。


「プールはあまり好きそうではないわね」

 視線を明かり取りから巴に戻し、暑そうにしながらもプールに入らない巴に微笑みかける。


「……疲れるから……」

 巴は目線をプールに向けると体勢はそのままで、身体を小さく丸めて膝に顎を乗せ、少し恥ずかしそうに呟いた。うっすらと頬が染まって見えるのは日が照っているからだけではなさそうだ。


(あら可愛い)

 紅葉はくすりと笑い、巴と同様プールを見詰める。再び二人の間に沈黙が訪れるが、巴の態度に緊張のほぐれた紅葉も気まずさを感じる事はなかった。


(でも確かにちょっと暑い、かな。それに――)

 巴の水着に隠れていない白い肌を見詰める。


(あんなに白くて綺麗なのに。肌が焼けたらヤだな……)

 巴と同じように自身の肩や二の腕に手を当てながら暫くの間何やら考えていた紅葉だったが、立ち上がりプールの縁に近寄ると再び腰を下ろした。そして水面に脚を付けて後ろを振り向き、手の平で水を掬い肩にかけると軟らかい表情を浮かべ巴に言う。


「冷たくて気持ち良い。どう?」

 一連の紅葉の行動をじっと見詰めていた巴であったが、誘いを受けてから数秒後、ふらりと立ち上がると紅葉の隣りに座り、先程の紅葉と同様手の平でプールから水を掬い腕にかけた。


「私も」

「……え?」

「私も水泳はあまり得意ではないのだけど、こうしているだけなら涼しくて好き」

「……そう……」

 そこまで言うと紅葉は少しだけ笑って続ける。


「それに、こうしているだけなら疲れないでしょう?」

 そう言って巴を見詰めると目をパチパチとさせていたが、やがて小さく笑い、そうね、と呟いてまた水を掬った。


(思い切って話し掛けて良かったわ)

 実際は話し掛けようとしたものの、もじもじしている内に巴に気付かれ先に声を掛けられたのだがそこは置いておくらしい。


 それから二人は授業終了の五分前になって集合の合図が掛かるまでの間プールの縁に腰を下ろし、ぽつりぽつりと途切れながらも会話を続け、紅葉は満足のいく自由時間を過ごしたのだった。



 静かにチョークの音が響く教室で、窓際の席に座った紅葉は小さく開けた窓の隙間から僅かに吹き込む心地の良い風を顔を受けながら、結い直した緩い三つ編みを左手の指で弄りながら板書を見、時折ノートに視線を落とすと板書をそのまま写すのではなく要点を纏めながら書き込んでいく。

 あれから他の授業と昼休みを挟み、現在五限目の授業中だ。


 暫くすると静かな教室に響いていたチョークの音が止まった。紅葉もノートを取り終えた丁度その時、バサリと何か高いところから本が落ちたような音が聞こえた。

 音のした方に目をやると発信源に居たのは長谷部真希。彼女の目の前の床に教科書が落ちているところと、机の上に教科書が見当たらないところを見る限り、真希が落したのに間違いないようだ。


(ん?)

 席を立ち真希は教科書を拾ったが、動き出すまでに若干の間があった事が紅葉はほんの少し引っ掛かった。拾う動作自体は素早く、体調が悪いというわけではなさそう――、というか元気に泳いでいた姿を見ているので、不思議に思いそのまま真希の様子を紅葉がぼんやりと眺めていると、板書が見えやすいように黒板の隣りに立ち、生徒たちが板書を写すのを待っていた教諭が口を開いた。


「今日は水泳があったのよね。お昼ご飯の後だし。ちょっと早いけどキリも良いから今日はここまでにしましょう」

 振り返り黒板の上にかけられたアナログの時計を見て現在の時刻を確認しているのは三年四組の担任であり、理科の教科を担当している西教諭だ。その表情は若干苦笑いしているようにも見える。


(あ、そういう事、かな?)

 再び真希に目を向けるとノートを取っているその横顔は赤い。

 先程の西教諭の水泳、お昼ご飯の後という言葉と真希の反応を見るに、おそらく舟を漕いでいたのだろう。落した教科書に対する反応の鈍さも、眠っていたから気付かなかったのだと考えれば納得がいく。


(か、可愛いなぁ……)

 赤くなった顔に手で扇いで風を送りながらも、慌ててノートを取る真希を横目で観察しながら、紅葉は緩みそうになる表情を固める。

 そうやって紅葉が些細な事で幸せをかみ締めていると、西教諭が窓に近付き話し始めた。


「今日は久し振りにいい天気ね」

 窓から外を見て呟いた西教諭は暫くの間殆ど雲の見えない空を見上げいたが、黒板の隅に『五月晴』と書き、残り五分ほどの授業時間を潰すため雑談を始めた。


「さつきばれとごがつばれ、二つの読みができるけど、意味はそれぞれ――」

 誤用や、近年の傾向などについて話す西教諭の話を傾聴していると、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。時々こうして雑談を挟む事もまた西教諭の人気のひとつなのかも知れない。

 でも、授業を終えて教室から出て行く際に真希の方を向き、微笑みながら顔を洗いなさいというジェスチャーをする気さくな姿も良いなぁと思いながら見送る紅葉だった。



(うーん)

 スクルトを操作して迷宮を徘徊しながら、モニターの前の紅葉は微かに眉を顰めた。

 現在スクルトが潜っているのは数日前にロールバックで到着をなかった事にされたハイン遺跡ではなく、転移スクロールで移動できる街から比較的短時間で行け、経験値もドロップもなかなかの別の迷宮だ。

 しかしその分人気は当然高く、パーティも、勿論スクルトのようなソロプレイヤーも多数見られる。


(人多過ぎ……)

 人の少ないエリアを探し彷徨いながらポップするモンスターを狩っているが、それほど良いペースとは言えない。PCが多いという事だけでなく、プレイヤー間で発生しているモンスターの奪い合いに紅葉は飛び込んで行く気になれず、スクルトの目の前にポップしたモンスターを遠距離から強引に奪っていくプレイヤーも居るからだ。

 紅葉は小さく溜め息を吐くと、机の上の時計に目をやった。


(やっぱりハイン遺跡行こうかな……、今日、今からはあれだから明日)

 月曜日ほど疲れは感じていないが、仮にコントローラーから手を放したとしても大丈夫なんじゃないかと思えるくらい、まったりとした狩りをしている影響か、今からハイン遺跡に行こうと思う程テンションは高くはなかった。


《ハァィ》

 そうやって紅葉がぼんやりとしているところに人斬り二号からwisが届いた。紅葉は少し身を乗り出すとキーボードに両手を伸ばす。


《はぁぃ》

《今おk?》

《うん。狩り場が混んでてすごーく暇なんだ》

《にゃるほ それじゃ私とお話しませぬか?》

《喜んで》

 間髪容れず返事をする紅葉の表情は明るい。正直なところ暇を弄んでいたので有り難かった。


 人斬り二号とチャットをしていても良くも悪くも狩りのペースは変わらない。目の前の獲物を奪われつつも、人斬り二号と雑談を楽しみながら、まったりとした時間を過ごした。


《それじゃあ、そろそろ戻るよ》

《ぉぅぃぇ》

 十一時前になり、紅葉は狩りを切り上げる事を人斬り二号に伝える。


《あー そう言えばさ》

《うん?》

 インベントリを開き転移スクロールの準備をしていた紅葉だったが一旦取り止め、相槌を打った。


《水泳嫌ーって言ってたでそ?》

《うん》


(ふふっ、最近の二号さん、嫌な割に水泳の話題多いなぁ)

 口元で笑いながらまた相槌を打ち続きを待つ。


《水泳もさぁ……》

《うん?》

《偶には悪くない そんな気がほんのりしてきた》

《ほー、正直意外》

 始まる前からあれほど嫌がり、実際始まってみてもやっぱりキツいと言っていた人斬り二号の口から出た言葉とは思えない。


《でも週3は勘弁な それじゃオヤスミ!》

《おやすみなさーい》

 そう言い残し人斬り二号はwisを締め、スクルトも転移スクロールを使用して拠点のあるイイーヴに戻った。


(なにか良い事あったのかな? というか二号さんの学校水泳の授業週三回あるんだ。ミノアも今週は三回だけど、毎週だとちょっと大変そうだなぁ)

 それは人斬り二号が嫌がるのも仕方がないかも知れないと思いながらスクルトを操り、酒場前で地面に座り込み遠くを見詰めるNPCの前を走り抜けた勢いのまま扉を開けたのだった。

 その日ルウがログインする事はなかった。

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