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前世社畜の伯爵令嬢は働きたくない〜ニート生活を満喫しようとしていたら領地改革までしていました〜

作者: のぞ
掲載日:2026/09/20

「……働きたくない」


伯爵令嬢メリッサは、心の底からそう思っていた。


五歳のある日。


突然、前世の記憶を思い出した。


前世の自分は、毎日朝から晩まで働き続ける社畜だった。


終わらない仕事。


積み上がる書類。


鳴り続ける電話。


「今日も残業か……」


そんな生活を何年も続け、気づけば疲れ果てていた。


だからこそ、今世では絶対に――。


「働かないで生きてやる……!」


それがメリッサの人生最大の目標になった。


ところが、伯爵令嬢として成長したメリッサを待っていたのは、前世を彷彿とさせる大量の書類だった。


「こちらが今月の領地収支です」


「…………」


山。


「こちらが各部署からの報告書です」


山。


「こちらは商会との契約書でございます」


山。


「こちらは――」


「もういいわ」


メリッサは頭を抱えた。


「私は働きたくないの」


「ですが、お嬢様は伯爵家の後継――」


「だからこそよ」


メリッサは書類を眺めた。


「……これ、書式が全部違うのが悪いんじゃない?」


「え?」


「こっちは横書き、こっちは縦書き。日付の位置も違うし、数字の書き方まで違う」


メリッサはペンを握った。


「全部統一しましょう」


翌日。


伯爵家の書類は、すべて同じ書式になった。


収支報告には収入、支出、差額、備考の欄を設け、契約書には期限と担当者を記載する。誰が見ても必要な情報がすぐ分かるように、書類の上部には作成日と提出先まで明記した。


「これなら、いちいち最初から読み直さなくても済むわ」


メリッサは満足した。


しかし、書式を整えただけでは終わらなかった。


「この収支報告、数字が合わないわ」


「どこがでしょうか?」


「先月の小麦の売上と、商会からの入金記録が一致していないの。こちらは銀貨二百枚少ない」


担当者が青ざめる。


「そ、それは記入漏れかと……」


「記入漏れなら、どこで発生したか確認しないといけないでしょう」


メリッサは帳簿を三冊並べた。


「領地側の出荷記録、商会の受取記録、財務部の入金記録。この三つを同じ番号で管理しましょう。取引ごとに番号を振れば、どこで数字がずれたかすぐ分かるわ」


「そんな方法が……」


「それから、月末にまとめて確認するから大変なのよ。週ごとに簡単な照合を入れましょう」


その日のうちに、伯爵家では取引番号制度と週次確認が導入された。


翌月。


「お嬢様、帳簿の確認が以前の三分の一の時間で終わりました!」


「そう。よかったわね」


メリッサは紅茶を飲みながら頷いた。


「これで私の確認時間も減るわ」


ところが、周囲は別の意味で受け取った。


「お嬢様は、財務の流れまで根本から見直された!」


「しかも不正の可能性まで発見されたぞ!」


「伯爵家の会計が生まれ変わった!」


メリッサの知らないところで、また一つ伝説が生まれていた。


「この部署とこの部署、同じ内容を別々に調べてるわ」


「はい?」


「農務部が収穫量を調べ、財務部が同じ数字を農家に聞き直しているでしょう?」


「念のための確認でございます」


「念のためが二重になっているのよ」


メリッサは両方の担当者を呼び出した。


「農務部が現地で収穫量を確認したら、決められた書式で財務部へ提出する。財務部はその数字を使い、必要な場合だけ追加確認をする。毎回同じ人に同じ質問をするのはやめましょう」


「しかし、部署が違いますので……」


「だから、部署同士で情報を共有する場を作るの」


メリッサは月に一度の合同報告会を設けた。


農務、財務、商会、騎士団、使用人管理。


これまで別々に動いていた部署の責任者を集め、問題点と予定を共有させる。


最初の会議では、全員が互いの仕事をほとんど知らないことが判明した。


「農地の拡張計画を、商会が知らなかったのですか?」


「商会の輸送予定を、騎士団が把握していなかったのか?」


「それでは、同じ時期に別々の馬車を手配していたのも当然ですな……」


メリッサは額を押さえた。


「情報を隠していたわけではないのに、誰も全体を見ていなかったのね」


そこで、報告会の議事録を作り、決定事項には担当者と期限を記載した。


「会議で話しただけでは、後から『誰がやるのか分からなかった』になるでしょう。決まったことは必ず記録する。期限を決める。終わったら報告する」


「報告、連絡、相談……ですか?」


「ええ。略して報連相よ」


聞き慣れない言葉に、皆が首を傾げる。


メリッサは紙に大きく書いた。


「報告。連絡。相談。この三つを徹底するだけで、問題の多くは早い段階で見つかるわ」


「お嬢様、まるで長年組織を運営してきた方のようです」


「……前世で嫌というほど経験しただけよ」


もちろん、その言葉は誰にも理解されなかった。


やがて、伯爵家では問題が起きる前に相談が上がるようになった。


納期が遅れそうなら、遅れる前に報告する。


予算を超えそうなら、使う前に相談する。


他部署に影響が出るなら、決定する前に連絡する。


「お嬢様、今年の冬は街道の補修が必要になりそうです」


「早めに分かってよかったわ。商会の輸送計画と合わせて調整しましょう」


「以前なら、雪が降ってから慌てていたところです」


「それでは遅いもの」


メリッサは当然のように答えた。


さらに彼女は、仕事の優先順位まで整理した。


「すべてを同じ急ぎで扱うから、いつも忙しいのよ」


緊急性と重要性で仕事を四つに分類し、期限のない仕事には期限を設定する。担当者が不在でも止まらないよう、手順書も作った。


「この仕事は、担当者しか分からない状態になっているわ」


「長年の経験が必要な仕事ですので」


「経験が必要なのは仕方ない。でも、何を確認し、どこへ報告するかくらいは書けるでしょう?」


メリッサは作業を細かく分け、誰でも引き継げる形に整えた。


その結果、一人の文官が病気で休んだ時も、仕事は滞らなかった。


「以前なら、三日間は書類が止まっていました」


「今は止まらないでしょう?」


「はい。ですが……」


文官は感動したように手順書を見つめた。


「自分がいなくても仕事が回る仕組みを、お嬢様が作ってくださったのですね」


「ええ。私が休みたいから」


「……」


「何かしら?」


「いえ。お嬢様は本当に、働く者のことを考えておられるのだなと」


「違うわ。私は自分が楽をしたいだけよ」


メリッサは必死に否定した。


だが、その言葉を信じる者はもういなかった。


ある日、領地から緊急の報告が届いた。


「今年の小麦が、予定より二割少ない?」


メリッサは報告書を読み、すぐに原因を確認した。


「この数字、昨年の収穫量を基準にしているわね。でも今年は春の雨が多かった。畑ごとの被害状況は?」


「まだ集計中です」


「集計を待っていたら、冬の備蓄計画が間に合わないわ」


メリッサは地図を広げた。


「被害の大きい地域、通常の地域、収穫量が増えた地域に分けて、今日中に仮集計を出して。商会には不足分の仕入れ先を確認させる。騎士団には輸送路の安全確認を依頼して。最終的な数字は後で修正すればいいけれど、今できる対策は先に始めるの」


「お嬢様、そこまで一瞬で判断を?」


「完璧な数字を待って、何もできなくなるほうが困るでしょう」


彼女の指示で、伯爵家は早い段階から他領との交渉を始めた。


結果、冬の食料不足は避けられた。


領民からは感謝の声が上がり、家臣たちは口々に言った。


「メリッサ様がいなければ、今年の冬は危なかった」


「お嬢様は領地全体を見ておられる」


「若いのに、なんという判断力だ」


メリッサは報告を聞きながら、頭を抱えた。


「私は、後で慌てるのが嫌だっただけなのに……」


一か月後。


「お嬢様は天才だ!」


三か月後。


「メリッサ様のおかげで仕事が半分になった!」


半年後。


「伯爵家には若くして領地改革を成功させた敏腕令嬢がいる」


そんな噂が王都中に広がった。


「…………なぜ?」


メリッサは愕然とした。


「私は働きたくないだけなのに」


しかも。彼女の改革は伯爵家の外にも影響を与え始めた。


隣の子爵家からは、書類の書式を見せてほしいという使者が来た。


商会からは、取引番号制度を導入したいと相談があった。


王都の役人からは、領地運営の仕組みについて話を聞きたいという申し出まで届いた。


「お嬢様、面会の予定が三件入っております」


「嫌よ」


「ですが、皆様、お嬢様の改革を学びたいと」


「嫌。私は働きたくないの」


「お嬢様が一言お話しくださるだけで、他家の仕事も効率化されるかと」


「それは、その家の人たちが自分で考えるべきでしょう?」


メリッサはそう言いながら、相手に渡すための簡単な手引きを作ってしまった。


書類の基本様式。


報告の流れ。


会議の進め方。


担当者と期限の管理方法。


「これを読めば、私に会わなくても分かるでしょう」


「お嬢様……」


「何?」


「また新しい制度を作られましたね」


「違うわ。面会を減らすためよ」


しかし、その手引きは瞬く間に評判になった。


「伯爵令嬢メリッサの執務指南書」


そんな名前までつけられ、貴族たちの間で回し読みされることになった。


メリッサは知らなかった。自分が楽をするために作った仕組みが、他家の仕事まで変えていることを。


彼女にとっては、無駄をなくし、面倒を減らし、できるだけ早く仕事を終わらせるための工夫だった。


だが周囲から見れば、それは組織改革であり、領地経営の才能であり、誰も思いつかなかった画期的な発想だった。


その噂を聞きつけた侯爵家から、縁談が舞い込んできた。


相手は侯爵家の嫡男、アレクシス。


容姿端麗。


教養もあり。


社交界では「将来有望な青年」と評判の人物だった。


「メリッサ嬢。ぜひ、私と結婚していただきたい」


「お断りします」


即答だった。


「なぜです?」


「働きたくないからです」


「……はい?」


メリッサは真剣な顔で言った。


「私は前世からずっと働きすぎました。今世では、のんびり暮らしたいのです」


「…………」


「ですから、結婚するなら条件があります」


「何でしょう?」


メリッサは指を一本立てた。


「私に仕事をさせないこと」


「はい」


「領地経営を押しつけないこと」


「はい」


「社交も必要最低限」


「はい」


「朝はできるだけ寝かせてください」


「……はい」


「それから」


メリッサは念を押した。


「私が何もしなくても、文句を言わないこと」


アレクシスは少し考えた。


そして。


「分かりました」


「……本当に?」


「はい」


「何もしなくても?」


「構いません」


メリッサは目を輝かせた。


「では、結婚してあげます」


こうして。


前代未聞の条件で二人は結婚した。


――はずだった。


◇◇◇


結婚が決まった後も、メリッサはアレクシスを完全には信用していなかった。


「本当に、私に仕事をさせないつもり?」


婚約後、侯爵家の庭園を歩きながら、メリッサは何度目か分からない確認をした。


「もちろん」


「結婚した途端に、『侯爵夫人なのだから』と言い出さない?」


「言わない」


「領地の帳簿を見せて、『君なら分かるだろう』と頼んだりもしない?」


「頼まない」


「社交界で、私を便利な補佐役として扱ったりもしない?」


アレクシスは足を止めた。


「メリッサ」


「なに?」


「私は君を、仕事をするために妻に迎えたいわけではない」


「……」


「君と一緒にいたいから、結婚を申し込んだんだ」


「でも、私の噂を聞いて近づいたのでしょう?」


「最初はそうだった」


アレクシスは正直に答えた。


「伯爵家の領地改革を、若い令嬢が成し遂げたと聞いて興味を持った」


「やっぱり」


「けれど、実際に会ってみたら、君は噂とはまったく違った」


「悪かったわね」


「いや」


アレクシスは柔らかく笑った。


「噂より、ずっと魅力的だった」


「……魅力的?」


「仕事ができるからではない。自分が楽をしたいと言いながら、結果的に周囲まで楽にしてしまうところ。無駄を見つけると放っておけないのに、本人はそれを善行だと思っていないところ」


「私は本当に、自分のためにやっているだけよ」


「分かっているよ」


「なら、どうして?」


「君が君らしく生きている姿を、もっと近くで見たいと思ったから」


メリッサは返事ができなかった。


アレクシスは、彼女の沈黙を不安に思ったのか、少しだけ視線を逸らした。


「……迷惑だったかな」


「違うわ」


メリッサは慌てて首を振った。


「ただ、そんなふうに言われたことがなくて」


「どんなふうに?」


「役に立つから必要だ、とか。仕事ができるから価値がある、とか。そういう理由ではなくて……」


メリッサは言葉を探した。


「私自身を見ているみたいに言われたのが、初めてだったの」


アレクシスはしばらく黙っていた。


それから、彼女の手を取った。


「僕は、君が何もしなくても君を好きになるよ」


「……本当に?」


「本当だ」


「寝てばかりでも?」


「寝顔を眺めるのも好きだと思う」


「お菓子を食べていても?」


「食べさせてあげたい」


「仕事を全部人に任せても?」


「任せられる仕組みを作った君を、私は誇りに思う」


「……」


「でも、君が疲れているのに無理をしていたら、僕は止める」


アレクシスは、メリッサの手の甲にそっと口づけた。


「君が自分を大切にできない時は、僕が代わりに大切にする」


胸の奥が、じんと熱くなった。


メリッサは、前世で何度も聞いた言葉を思い出していた。


「君にしかできない」


「責任感を持って」


「もう少し頑張れるでしょう」


役に立つことを求められるのは、慣れていた。


けれど。


「何もしなくても大切にする」と言われたことは、一度もなかった。


「……あなたは、ずるい人ね」


「どうして?」


「そんなことを言われたら、断れなくなるじゃない」


「断るつもりだったの?」


「少しは」


「少しだけ?」


「……かなり」


アレクシスは笑った。


「では、断られないように努力しないといけないね」


「もう十分よ」


「本当に?」


「……ええ」


メリッサは、握られた手をそっと握り返した。


「あなたとなら、結婚してもいいと思ってる」


アレクシスの表情が、驚きから喜びへ変わる。


「それは、君が何もしなくてもいいから?」


「それもあるわ」


「それも?」


メリッサは頬を赤くしながら、彼を見上げた。


「あなたが、私を働き手としてではなく、私として見てくれるから」


アレクシスは、しばらく何も言わなかった。


やがて。


「……結婚式の日まで、毎日でも言うよ」


「何を?」


「君が好きだと」


「毎日は多いわ」


「では、一日に何度も」


「もっと多いわよ」


「嫌?」


メリッサは少し考えた。


「……嫌ではないわ」


「なら、決まりだね」


その日から。


アレクシスは本当に、毎日のようにメリッサへ言葉を贈った。


朝の手紙には、


『今日も君が穏やかに過ごせますように』


と書かれていた。


面会の帰りには、


「今日は疲れていない? 無理をしていたら、すぐに休もう」


と声をかけた。


メリッサが書類を見ていれば、


「それは君がしなければならない仕事?」


と尋ねた。


「違うわ。私が気になっただけ」


「では、気になることと、君がしなければならないことを分けよう」


アレクシスは彼女の隣に座り、書類を二つに分けた。


「こちらは君が見なくてもいい」


「でも、問題があるかもしれないわ」


「問題があるなら、担当者に報告させる。君が全部確認する必要はない」


「……」


「君が楽をするために作った仕組みを、君自身が無視してはいけないよ」


メリッサは思わず笑った。


「あなた、私より私の仕組みを理解していない?」


「君を見ているからね」


その言葉に、メリッサの胸がまた温かくなった。


アレクシスは、彼女の仕事を奪うだけではなかった。


彼女がなぜ働きたくないのかを理解しようとしていた。


疲れたくない。


追い立てられたくない。


誰かの期待に応えるためだけに生きたくない。


何もしない時間を、罪悪感なく楽しみたい。


アレクシスは、それらを一つずつ受け止めてくれた。


ある日、メリッサは婚約者として侯爵家を訪れた。


応接室には、侯爵家の執事や文官たちが集まっていた。


「こちらが現在の領地収支でございます」


「こちらは商会との契約書です」


「こちらは使用人の勤務表で――」


メリッサの前に、次々と書類が並べられる。


「……」


彼女の顔が引きつった。


アレクシスがすぐに気づく。


「父上」


「何だ?」


「メリッサに仕事をさせるつもりですか?」


「いや、そういうつもりでは……」


「では、なぜ書類を?」


「彼女なら、見れば問題点を――」


「それは、彼女が望んだことですか?」


侯爵が黙った。


アレクシスは穏やかな口調のまま、しかし一歩も引かなかった。


「メリッサは、侯爵家の仕事をするために嫁ぐのではありません。私の妻になるために来るのです」


「アレクシス……」


「彼女の能力を頼ることと、彼女に責任を押しつけることは違います」


室内が静まり返る。


アレクシスはメリッサを見た。


「帰ろうか?」


メリッサは驚いた。


「いいの?」


「もちろん。君が望まない場所に、無理にいる必要はない」


メリッサは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


前世では。


仕事を押しつけられても、断れなかった。


「自分にしかできない」と言われれば、引き受けた。


「期待している」と言われれば、応えようとした。


けれど。


アレクシスは、彼女が断る前に守ってくれた。


「……ありがとう」


「礼を言うことではないよ」


「でも、嬉しいの」


「なら、何度でもする」


アレクシスは彼女の手を取り、侯爵家を後にした。


馬車の中で、メリッサはしばらく黙っていた。


「怒っている?」


アレクシスが尋ねる。


「違うわ」


「では、悲しい?」


「それも違う」


メリッサは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。


「守られるのって、こんな感じなのね」


アレクシスは黙って彼女を見つめた。


「私はずっと、自分で何とかしなければいけないと思っていたの。仕事を押しつけられても、嫌だと言えなかった。嫌だと言ったら、役に立たない人間だと思われる気がして」


「……」


「でも、あなたは私が嫌だと言う前に、嫌だと言っていい場所を作ってくれた」


アレクシスは、彼女の肩にそっと手を置いた。


「君は、役に立たなくても価値がある」


「……」


「僕にとっては、君が笑っていることのほうが大切だ」


メリッサは俯いた。


「泣いてもいい?」


「もちろん」


「泣いたら、面倒ではない?」


「まったく」


「重くない?」


「軽いよ」


「嘘」


「本当だ」


アレクシスは彼女を抱き寄せた。


「君の悲しみも、疲れも、全部僕に預けて」


メリッサは彼の胸に顔を埋めた。


「……あなたの前だと、何でも言えそう」


「何でも言って」


「働きたくない」


「知ってる」


「寝たい」


「帰ったら寝よう」


「甘いものが食べたい」


「買って帰ろう」


「あなたに甘やかされたい」


アレクシスの腕が、わずかに強くなる。


「それは、喜んで」


メリッサは彼の胸元で笑った。


「本当に、あなたは私を駄目にするわね」


「君が望むなら、喜んで駄目にする」


「でも、私がまた働きすぎそうになったら?」


「その時は、僕が止める」


「どうやって?」


「抱き上げて、仕事から遠ざける」


「子供みたい」


「君を大切にするためなら、何でもするよ」


その言葉は、甘いだけではなかった。


アレクシスは本当に、メリッサの生活を変えていった。


婚約後の面会は必要最低限に整理された。


社交の予定は一日に一件まで。


領地からの報告は、メリッサに直接届く前に担当者が確認する。


彼女が望めば、いつでも予定を断れる。


「これ、全部あなたが?」


「君が休めるようにしただけだよ」


「……私が自分で作った仕組みを、今度は私のために使っているのね」


「そう」


「私より効率化が上手じゃない」


「君の弟子だからね」


メリッサは笑った。


そして。


少しずつ、アレクシスの隣にいることが当たり前になっていった。


彼と会う日は、朝から気分が軽かった。


彼から手紙が届くと、何度も読み返した。


彼が他の令嬢と話していると、胸の奥がざわついた。


ある夜。


メリッサは自分の感情に気づいてしまった。


「……私、アレクシスに会いたい」


婚約者なのだから、会いたいと思うのは普通かもしれない。


けれど。


「声が聞きたい」


「顔が見たい」


「今日あったことを話したい」


そう思う自分に、メリッサは戸惑った。


翌日。


アレクシスが伯爵家を訪れた。


「今日はどうしたの?」


「君に会いたくて」


「……」


「迷惑だった?」


「違うわ」


メリッサは視線を逸らした。


「私も、会いたいと思っていたの」


アレクシスが目を見開く。


「本当に?」


「ええ」


「それは……」


彼は嬉しそうに笑った。


「今日来てよかった」


「そんなに?」


「君が僕を待っていてくれたように感じたから」


「待っていたわけでは……」


「では?」


メリッサはしばらく迷った。


そして。


「あなたに会えると、嬉しいの」


アレクシスは、彼女の手を取った。


「僕も、君に会えると嬉しい」


「……」


「君が笑うと、もっと嬉しい」


「……」


「君が僕を頼ってくれると、幸せだ」


メリッサの頬が熱くなる。


「あなたは、いつもそうやって私を甘やかすのね」


「甘やかしているつもりはないよ」


「では、何?」


「愛しているだけ」


その言葉に、メリッサは、もう逃げられなかった。


「……私も」


「うん?」


「私も、あなたを愛していると思う」


アレクシスは息を止めた。


「思う?」


「まだ、言い慣れていないの」


「では、慣れるまで待つ」


「待てる?」


「いくらでも」


メリッサは彼の手を握った。


「あなたといると、安心するの」


「うん」


「何もしなくてもいいと思える」


「うん」


「でも、あなたのためなら、少しくらい頑張ってもいいと思う」


アレクシスは、彼女の手を両手で包んだ。


「頑張らなくていい」


「でも、したいの」


「……」


「あなたが喜ぶことなら、してあげたいと思う」


アレクシスは、彼女の額に口づけた。


「それだけで十分だよ」


「何もしていないのに?」


「君が僕を好きだと言ってくれた。それ以上の贈り物はない」


メリッサは、胸の奥がいっぱいになった。


愛されることは、何かを返さなければならないことだと思っていた。


けれど。


アレクシスは、彼女がそこにいるだけで喜んでくれる。


彼女が笑うだけで幸せだと言う。


彼女が休むことを、何より大切にしてくれる。


「……結婚したら」


メリッサが呟く。


「うん」


「本当に、私を働かせないでね」


「約束する」


「でも、私が勝手に働き始めたら?」


「止める」


「何度でも?」


「何度でも」


「私が怒っても?」


「怒らせないようにする」


「私が泣いても?」


「抱きしめる」


「私があなたに甘えすぎても?」


「もっと甘えてほしい」


メリッサは、とうとう笑ってしまった。


「あなたは、本当に私を甘やかすのが好きなのね」


「君が甘えてくれるのが好きなんだ」


「……」


「もっと僕を頼って」


「努力するわ」


「努力しなくてもいい」


「でも、あなたに頼りたいから」


アレクシスは、彼女の指にそっと口づけた。


「結婚式が待ち遠しいよ」


「私も」


その言葉を口にした瞬間。


メリッサは、自分が本当にこの人と結婚したいのだと理解した。


働かなくていいからではない。


侯爵夫人になれるからでもない。


アレクシスが、自分を守り、尊重し、愛してくれるから。


そして。


彼の隣にいると、自分も彼を幸せにしたいと思えるから。


◇◇◇


結婚式の日。


メリッサは、控室で何度も深呼吸をしていた。


「緊張しているの?」


侍女が尋ねる。


「少しだけ」


「アレクシス様と結婚するのが不安ですか?」


「違うわ」


メリッサは鏡の中の自分を見つめた。


「幸せすぎて、夢ではないかと思っているの」


その時。


扉の向こうから、アレクシスの声が聞こえた。


「メリッサ?」


「アレクシス?」


「入ってもいいかな?」


「ええ」


扉が開く。


正装したアレクシスが入ってきた。


彼はメリッサの姿を見た瞬間、言葉を失った。


「……綺麗だ」


「ありがとう」


「本当に綺麗だよ」


「何度も言わなくていいわ」


「何度でも言いたい」


アレクシスは彼女の前まで歩み寄った。


「今日から、君は僕の妻になる」


「ええ」


「でも、何かをしなければならない妻になる必要はない」


「……」


「君は、君のままでいて」


メリッサの目に涙が浮かぶ。


「あなたも、あなたのままでいて」


「もちろん」


「私を甘やかしすぎないで」


「それは約束できない」


「もう」


メリッサは笑った。


アレクシスは彼女の手を取り、指先に口づける。


「メリッサ。僕は君を愛している」


「……」


「仕事ができるからではない。美しいからでもない。君が私の妻になるからでもない」


彼はまっすぐ彼女を見つめた。


「君がメリッサだから、愛している」


メリッサの涙がこぼれた。


「私も、あなたを愛しているわ」


「本当に?」


「ええ」


「何度でも聞きたい」


「欲張りね」


「君のことに関しては、いつもそうだよ」


メリッサは彼の手を握り返した。


「私も、あなたのことなら欲張りになりたい」


「では、僕の時間も、愛情も、全部君にあげる」


「……そんなことを言われたら、本当に何もしたくなくなるわ」


「それでいい」


「結婚式なのに?」


「結婚式の後は、何もしなくていい」


「でも、皆様への挨拶が」


「必要最低限でいい」


「ダンスは?」


「一曲だけ」


「その後は?」


「僕と一緒に休もう」


メリッサは笑った。


「本当に、私の理想を分かっているのね」


「君を見てきたから」


二人は手を取り合い、式場へ向かった。


その日。


メリッサは、アレクシスの妻になった。


そして。


彼女が望んだ通り。


アレクシスは、彼女に仕事を押しつけなかった。


ただし。


メリッサが屋敷の不備を見つけてしまうまでは。


◇◇◇


結婚して三日目。


メリッサは屋敷を歩いていた。


「……あら?」


廊下の隅に、埃が溜まっている。


「メイドさん」


「はい!」


「ここ、お掃除の範囲に入っていないの?」


「申し訳ございません。担当が曖昧になっておりまして……」


「担当表を作りましょう」


「はい!」


翌日。


完璧な清掃担当表が完成した。


さらに三日後。


「……この備品、在庫管理してないの?」


「しておりません」


「発注が重複してるわ」


「えっ」


「倉庫を見せて」


一時間後。


「不要な備品が大量にありますね」


メリッサは腕を組んだ。


「在庫管理表を作って、発注担当を一人にまとめましょう」


「はい!」


翌週。


「この決裁、どうして三人の承認が必要なの?」


「昔からそういう決まりで……」


「必要?」


「……分かりません」


「じゃあ、見直しましょう」


その翌週。


屋敷の仕事は、驚くほど効率化されていた。


使用人たちは感動した。


「メリッサ様、ありがとうございます!」


「いえ……」


メリッサは遠い目をした。


「私はただ、無駄をなくしたかっただけ……」


アレクシスが笑う。


「君は本当に仕事が好きなんだね」


「違います!」


メリッサは即座に否定した。


「私は仕事が大嫌いです!」


「でも楽しそうだよ?」


「違います!」


それからも。


メリッサは何かを見つけるたびに改善してしまった。


「この帳簿、二重管理になってる」


「この伝達方法は非効率ね」


「この倉庫、動線が悪いわ」


「この会議、毎回同じことを話してない?」


「この契約書、もっと分かりやすくできるわね」


そして。


「……また改善してしまった」


メリッサは頭を抱えた。


働きたくない。


本当に働きたくない。


なのに、目の前に非効率があると、どうしても気になってしまう。


前世で染みついた社畜根性は、そう簡単には消えなかった。


アレクシスは、そんなメリッサを見ているうちに、あることに気づいた。


彼女は仕事が好きなのではない。


無駄が嫌いなのだ。


誰かが意味のない作業で疲れているのを見るのが嫌いで、頑張っている人が報われないことを放っておけない。


だから、仕組みを整える。


そして、整え終わると満足して、ようやく休める。


「メリッサ」


ある夜、アレクシスは彼女の手から書類を取り上げた。


「今日はここまで」


「でも、あと少しで終わるわ」


「その『あと少し』を、君は何度繰り返した?」


「……」


「君は、仕事を減らすために仕組みを作ったのに、仕組みを作ること自体を仕事にしている」


「それは……」


「だから、僕が君の休む時間を決める」


アレクシスは書類を机の端へ置き、メリッサの隣に座った。


「毎日、夕方になったら仕事は終わり。残りは翌日に回す」


「でも、急ぎのものが」


「急ぎのものは、担当者が報告する。君が全部抱える必要はない」


「……」


「君が作った仕組みを、君自身が信じてあげて」


メリッサは、しばらく黙っていた。


「あなたは、私より私のことを分かっているみたいね」


「君を見ているから」


「……そういうところが好きなのよ」


「今、何か言った?」


「聞こえたでしょう」


「もう一度聞きたい」


「嫌」


「メリッサ」


「……あなたが、私を見ていてくれるところが好き」


アレクシスは、彼女の手を取った。


「僕は、君のことならいくらでも見ていたいよ」


「仕事をしている私も?」


「もちろん」


「何もしていない私も?」


「一番好きだ」


「……」


「君が何もしないで、安心した顔をしていると、僕まで幸せになる」


メリッサは、彼の肩に頭を預けた。


「私、あなたと結婚してよかった」


「僕もだよ」


「働かなくていいと言ってくれたから?」


「それだけではないだろう?」


「ええ」


メリッサは目を閉じた。


「私を、私のまま愛してくれるから」


アレクシスは、彼女の髪を撫でた。


「これからも、何度でも言うよ」


「何を?」


「君が好きだと」


「……なら、私も何度でも言うわ」


「何を?」


メリッサは顔を上げ、彼を見つめた。


「あなたが好き」


アレクシスは嬉しそうに笑った。


「もう一度」


「欲張りね」


「君のことだから」


「……大好きよ、アレクシス」


彼は彼女を抱きしめた。


「僕も、愛している」


その夜、メリッサは仕事を途中で切り上げた。


アレクシスの隣で温かい紅茶を飲み、彼の肩に寄りかかりながら、何もしない時間を過ごした。


それは、彼女にとって特別な時間だった。


何かを成し遂げなくてもいい。


誰かの期待に応えなくてもいい。


ただ、愛する人の隣にいるだけでいい。


◇◇◇


そんな生活が続いたある日。


メリッサは突然、動きを止めた。


「……あれ?」


「どうした?」


アレクシスが心配そうに近づく。


「なんだか、気持ち悪い……」


医師を呼ぶ。


そして。


診察の結果。


「おめでとうございます」


「…………え?」


「お子様です」


メリッサは目を丸くした。


「私……母親になるの?」


「はい」


隣にいたアレクシスは、しばらく固まっていた。


そして。


「メリッサ」


「なに?」


「もう仕事は禁止」


「え?」


「領地経営も禁止」


「でも――」


「禁止」


「屋敷の改善も?」


「禁止」


「書類の整理くらい――」


「禁止」


「会議だけでも――」


「禁止」


「でも!」


アレクシスはメリッサを抱き上げた。


「君は今まで十分すぎるほど働いた」


「……」


「これからは休んで」


「でも、暇よ?」


「暇でいい」


「何をすればいいの?」


「何もしなくていい」


メリッサは固まった。


「……何もしなくて?」


「そう」


「本当に?」


「本当に」


「一日中?」


「一日中」


「寝てても?」


「いいよ」


「お菓子を食べてても?」


「いいよ」


「本を読んでても?」


「もちろん」


「昼寝しても?」


「むしろしてほしい」


メリッサの目が、ゆっくり輝いた。


「…………」


そして。


ふかふかのソファに横になる。


クッションを抱える。


温かい紅茶を飲む。


隣にはアレクシス。


「…………これ」


「うん?」


メリッサは幸せそうに呟いた。


「これが……」


「?」


「これが本当に、私が求めていたグータラ生活……!」


それからのメリッサは、とことん甘やかされた。


朝は好きなだけ眠る。


起きれば温かい朝食が用意されている。


昼は読書。


眠くなれば昼寝。


疲れたらアレクシスが膝枕をしてくれる。


「メリッサ、今日は何をしたの?」


「何もしてない」


「偉いね」


「……何もしてないのに?」


「うん」


アレクシスは笑った。


「君が何もしないで幸せそうにしているのが、一番嬉しい」


「……」


メリッサは胸がいっぱいになった。


前世では、働くことに追われて、休むことに罪悪感を覚えて、何もしない時間を「無駄」だと思っていた。


けれど、今は違う。


何もしなくても、誰かが自分を大切にしてくれる。


頑張らなくても、愛してもらえる。


それが、こんなにも幸せだったなんて。


メリッサはお腹をそっと撫でた。


「ねえ、アレクシス」


「なんだい?」


「この子が生まれても……」


「うん」


「私、グータラしてていい?」


アレクシスは即答した。


「もちろん」


「……本当に?」


「むしろ僕が許しません。働こうとしたら止めます」


「ふふっ」


メリッサは笑った。


そして。


夫の肩に頭を預ける。


「じゃあ、もう少しだけ……」


「うん」


「何もしないでいるわ」


「いくらでもどうぞ」


窓の外では、穏やかな風が庭園を揺らしている。


メリッサは目を閉じた。


働かなくていい。


頑張らなくていい。


何かを成し遂げなくてもいい。


ただ、愛する人とお腹の子と一緒に。


ゆっくり。


のんびり。


何もしない時間を楽しむ。


――それこそが。


前世の自分が、ずっと欲しかったものだった。


「……幸せ」


メリッサが小さく呟く。


アレクシスは笑って、彼女の髪を撫でた。


「僕も幸せだよ」


こうして。


「働きたくない」という強い意志から始まったメリッサの効率化人生は、なぜか周囲から「伝説の敏腕令嬢」と呼ばれるまでになった。


けれど。


本人にとって一番の成功は――何もしないことを許してくれる、大切な家族を手に入れたことだった。

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