前世社畜の伯爵令嬢は働きたくない〜ニート生活を満喫しようとしていたら領地改革までしていました〜
「……働きたくない」
伯爵令嬢メリッサは、心の底からそう思っていた。
五歳のある日。
突然、前世の記憶を思い出した。
前世の自分は、毎日朝から晩まで働き続ける社畜だった。
終わらない仕事。
積み上がる書類。
鳴り続ける電話。
「今日も残業か……」
そんな生活を何年も続け、気づけば疲れ果てていた。
だからこそ、今世では絶対に――。
「働かないで生きてやる……!」
それがメリッサの人生最大の目標になった。
ところが、伯爵令嬢として成長したメリッサを待っていたのは、前世を彷彿とさせる大量の書類だった。
「こちらが今月の領地収支です」
「…………」
山。
「こちらが各部署からの報告書です」
山。
「こちらは商会との契約書でございます」
山。
「こちらは――」
「もういいわ」
メリッサは頭を抱えた。
「私は働きたくないの」
「ですが、お嬢様は伯爵家の後継――」
「だからこそよ」
メリッサは書類を眺めた。
「……これ、書式が全部違うのが悪いんじゃない?」
「え?」
「こっちは横書き、こっちは縦書き。日付の位置も違うし、数字の書き方まで違う」
メリッサはペンを握った。
「全部統一しましょう」
翌日。
伯爵家の書類は、すべて同じ書式になった。
収支報告には収入、支出、差額、備考の欄を設け、契約書には期限と担当者を記載する。誰が見ても必要な情報がすぐ分かるように、書類の上部には作成日と提出先まで明記した。
「これなら、いちいち最初から読み直さなくても済むわ」
メリッサは満足した。
しかし、書式を整えただけでは終わらなかった。
「この収支報告、数字が合わないわ」
「どこがでしょうか?」
「先月の小麦の売上と、商会からの入金記録が一致していないの。こちらは銀貨二百枚少ない」
担当者が青ざめる。
「そ、それは記入漏れかと……」
「記入漏れなら、どこで発生したか確認しないといけないでしょう」
メリッサは帳簿を三冊並べた。
「領地側の出荷記録、商会の受取記録、財務部の入金記録。この三つを同じ番号で管理しましょう。取引ごとに番号を振れば、どこで数字がずれたかすぐ分かるわ」
「そんな方法が……」
「それから、月末にまとめて確認するから大変なのよ。週ごとに簡単な照合を入れましょう」
その日のうちに、伯爵家では取引番号制度と週次確認が導入された。
翌月。
「お嬢様、帳簿の確認が以前の三分の一の時間で終わりました!」
「そう。よかったわね」
メリッサは紅茶を飲みながら頷いた。
「これで私の確認時間も減るわ」
ところが、周囲は別の意味で受け取った。
「お嬢様は、財務の流れまで根本から見直された!」
「しかも不正の可能性まで発見されたぞ!」
「伯爵家の会計が生まれ変わった!」
メリッサの知らないところで、また一つ伝説が生まれていた。
「この部署とこの部署、同じ内容を別々に調べてるわ」
「はい?」
「農務部が収穫量を調べ、財務部が同じ数字を農家に聞き直しているでしょう?」
「念のための確認でございます」
「念のためが二重になっているのよ」
メリッサは両方の担当者を呼び出した。
「農務部が現地で収穫量を確認したら、決められた書式で財務部へ提出する。財務部はその数字を使い、必要な場合だけ追加確認をする。毎回同じ人に同じ質問をするのはやめましょう」
「しかし、部署が違いますので……」
「だから、部署同士で情報を共有する場を作るの」
メリッサは月に一度の合同報告会を設けた。
農務、財務、商会、騎士団、使用人管理。
これまで別々に動いていた部署の責任者を集め、問題点と予定を共有させる。
最初の会議では、全員が互いの仕事をほとんど知らないことが判明した。
「農地の拡張計画を、商会が知らなかったのですか?」
「商会の輸送予定を、騎士団が把握していなかったのか?」
「それでは、同じ時期に別々の馬車を手配していたのも当然ですな……」
メリッサは額を押さえた。
「情報を隠していたわけではないのに、誰も全体を見ていなかったのね」
そこで、報告会の議事録を作り、決定事項には担当者と期限を記載した。
「会議で話しただけでは、後から『誰がやるのか分からなかった』になるでしょう。決まったことは必ず記録する。期限を決める。終わったら報告する」
「報告、連絡、相談……ですか?」
「ええ。略して報連相よ」
聞き慣れない言葉に、皆が首を傾げる。
メリッサは紙に大きく書いた。
「報告。連絡。相談。この三つを徹底するだけで、問題の多くは早い段階で見つかるわ」
「お嬢様、まるで長年組織を運営してきた方のようです」
「……前世で嫌というほど経験しただけよ」
もちろん、その言葉は誰にも理解されなかった。
やがて、伯爵家では問題が起きる前に相談が上がるようになった。
納期が遅れそうなら、遅れる前に報告する。
予算を超えそうなら、使う前に相談する。
他部署に影響が出るなら、決定する前に連絡する。
「お嬢様、今年の冬は街道の補修が必要になりそうです」
「早めに分かってよかったわ。商会の輸送計画と合わせて調整しましょう」
「以前なら、雪が降ってから慌てていたところです」
「それでは遅いもの」
メリッサは当然のように答えた。
さらに彼女は、仕事の優先順位まで整理した。
「すべてを同じ急ぎで扱うから、いつも忙しいのよ」
緊急性と重要性で仕事を四つに分類し、期限のない仕事には期限を設定する。担当者が不在でも止まらないよう、手順書も作った。
「この仕事は、担当者しか分からない状態になっているわ」
「長年の経験が必要な仕事ですので」
「経験が必要なのは仕方ない。でも、何を確認し、どこへ報告するかくらいは書けるでしょう?」
メリッサは作業を細かく分け、誰でも引き継げる形に整えた。
その結果、一人の文官が病気で休んだ時も、仕事は滞らなかった。
「以前なら、三日間は書類が止まっていました」
「今は止まらないでしょう?」
「はい。ですが……」
文官は感動したように手順書を見つめた。
「自分がいなくても仕事が回る仕組みを、お嬢様が作ってくださったのですね」
「ええ。私が休みたいから」
「……」
「何かしら?」
「いえ。お嬢様は本当に、働く者のことを考えておられるのだなと」
「違うわ。私は自分が楽をしたいだけよ」
メリッサは必死に否定した。
だが、その言葉を信じる者はもういなかった。
ある日、領地から緊急の報告が届いた。
「今年の小麦が、予定より二割少ない?」
メリッサは報告書を読み、すぐに原因を確認した。
「この数字、昨年の収穫量を基準にしているわね。でも今年は春の雨が多かった。畑ごとの被害状況は?」
「まだ集計中です」
「集計を待っていたら、冬の備蓄計画が間に合わないわ」
メリッサは地図を広げた。
「被害の大きい地域、通常の地域、収穫量が増えた地域に分けて、今日中に仮集計を出して。商会には不足分の仕入れ先を確認させる。騎士団には輸送路の安全確認を依頼して。最終的な数字は後で修正すればいいけれど、今できる対策は先に始めるの」
「お嬢様、そこまで一瞬で判断を?」
「完璧な数字を待って、何もできなくなるほうが困るでしょう」
彼女の指示で、伯爵家は早い段階から他領との交渉を始めた。
結果、冬の食料不足は避けられた。
領民からは感謝の声が上がり、家臣たちは口々に言った。
「メリッサ様がいなければ、今年の冬は危なかった」
「お嬢様は領地全体を見ておられる」
「若いのに、なんという判断力だ」
メリッサは報告を聞きながら、頭を抱えた。
「私は、後で慌てるのが嫌だっただけなのに……」
一か月後。
「お嬢様は天才だ!」
三か月後。
「メリッサ様のおかげで仕事が半分になった!」
半年後。
「伯爵家には若くして領地改革を成功させた敏腕令嬢がいる」
そんな噂が王都中に広がった。
「…………なぜ?」
メリッサは愕然とした。
「私は働きたくないだけなのに」
しかも。彼女の改革は伯爵家の外にも影響を与え始めた。
隣の子爵家からは、書類の書式を見せてほしいという使者が来た。
商会からは、取引番号制度を導入したいと相談があった。
王都の役人からは、領地運営の仕組みについて話を聞きたいという申し出まで届いた。
「お嬢様、面会の予定が三件入っております」
「嫌よ」
「ですが、皆様、お嬢様の改革を学びたいと」
「嫌。私は働きたくないの」
「お嬢様が一言お話しくださるだけで、他家の仕事も効率化されるかと」
「それは、その家の人たちが自分で考えるべきでしょう?」
メリッサはそう言いながら、相手に渡すための簡単な手引きを作ってしまった。
書類の基本様式。
報告の流れ。
会議の進め方。
担当者と期限の管理方法。
「これを読めば、私に会わなくても分かるでしょう」
「お嬢様……」
「何?」
「また新しい制度を作られましたね」
「違うわ。面会を減らすためよ」
しかし、その手引きは瞬く間に評判になった。
「伯爵令嬢メリッサの執務指南書」
そんな名前までつけられ、貴族たちの間で回し読みされることになった。
メリッサは知らなかった。自分が楽をするために作った仕組みが、他家の仕事まで変えていることを。
彼女にとっては、無駄をなくし、面倒を減らし、できるだけ早く仕事を終わらせるための工夫だった。
だが周囲から見れば、それは組織改革であり、領地経営の才能であり、誰も思いつかなかった画期的な発想だった。
その噂を聞きつけた侯爵家から、縁談が舞い込んできた。
相手は侯爵家の嫡男、アレクシス。
容姿端麗。
教養もあり。
社交界では「将来有望な青年」と評判の人物だった。
「メリッサ嬢。ぜひ、私と結婚していただきたい」
「お断りします」
即答だった。
「なぜです?」
「働きたくないからです」
「……はい?」
メリッサは真剣な顔で言った。
「私は前世からずっと働きすぎました。今世では、のんびり暮らしたいのです」
「…………」
「ですから、結婚するなら条件があります」
「何でしょう?」
メリッサは指を一本立てた。
「私に仕事をさせないこと」
「はい」
「領地経営を押しつけないこと」
「はい」
「社交も必要最低限」
「はい」
「朝はできるだけ寝かせてください」
「……はい」
「それから」
メリッサは念を押した。
「私が何もしなくても、文句を言わないこと」
アレクシスは少し考えた。
そして。
「分かりました」
「……本当に?」
「はい」
「何もしなくても?」
「構いません」
メリッサは目を輝かせた。
「では、結婚してあげます」
こうして。
前代未聞の条件で二人は結婚した。
――はずだった。
◇◇◇
結婚が決まった後も、メリッサはアレクシスを完全には信用していなかった。
「本当に、私に仕事をさせないつもり?」
婚約後、侯爵家の庭園を歩きながら、メリッサは何度目か分からない確認をした。
「もちろん」
「結婚した途端に、『侯爵夫人なのだから』と言い出さない?」
「言わない」
「領地の帳簿を見せて、『君なら分かるだろう』と頼んだりもしない?」
「頼まない」
「社交界で、私を便利な補佐役として扱ったりもしない?」
アレクシスは足を止めた。
「メリッサ」
「なに?」
「私は君を、仕事をするために妻に迎えたいわけではない」
「……」
「君と一緒にいたいから、結婚を申し込んだんだ」
「でも、私の噂を聞いて近づいたのでしょう?」
「最初はそうだった」
アレクシスは正直に答えた。
「伯爵家の領地改革を、若い令嬢が成し遂げたと聞いて興味を持った」
「やっぱり」
「けれど、実際に会ってみたら、君は噂とはまったく違った」
「悪かったわね」
「いや」
アレクシスは柔らかく笑った。
「噂より、ずっと魅力的だった」
「……魅力的?」
「仕事ができるからではない。自分が楽をしたいと言いながら、結果的に周囲まで楽にしてしまうところ。無駄を見つけると放っておけないのに、本人はそれを善行だと思っていないところ」
「私は本当に、自分のためにやっているだけよ」
「分かっているよ」
「なら、どうして?」
「君が君らしく生きている姿を、もっと近くで見たいと思ったから」
メリッサは返事ができなかった。
アレクシスは、彼女の沈黙を不安に思ったのか、少しだけ視線を逸らした。
「……迷惑だったかな」
「違うわ」
メリッサは慌てて首を振った。
「ただ、そんなふうに言われたことがなくて」
「どんなふうに?」
「役に立つから必要だ、とか。仕事ができるから価値がある、とか。そういう理由ではなくて……」
メリッサは言葉を探した。
「私自身を見ているみたいに言われたのが、初めてだったの」
アレクシスはしばらく黙っていた。
それから、彼女の手を取った。
「僕は、君が何もしなくても君を好きになるよ」
「……本当に?」
「本当だ」
「寝てばかりでも?」
「寝顔を眺めるのも好きだと思う」
「お菓子を食べていても?」
「食べさせてあげたい」
「仕事を全部人に任せても?」
「任せられる仕組みを作った君を、私は誇りに思う」
「……」
「でも、君が疲れているのに無理をしていたら、僕は止める」
アレクシスは、メリッサの手の甲にそっと口づけた。
「君が自分を大切にできない時は、僕が代わりに大切にする」
胸の奥が、じんと熱くなった。
メリッサは、前世で何度も聞いた言葉を思い出していた。
「君にしかできない」
「責任感を持って」
「もう少し頑張れるでしょう」
役に立つことを求められるのは、慣れていた。
けれど。
「何もしなくても大切にする」と言われたことは、一度もなかった。
「……あなたは、ずるい人ね」
「どうして?」
「そんなことを言われたら、断れなくなるじゃない」
「断るつもりだったの?」
「少しは」
「少しだけ?」
「……かなり」
アレクシスは笑った。
「では、断られないように努力しないといけないね」
「もう十分よ」
「本当に?」
「……ええ」
メリッサは、握られた手をそっと握り返した。
「あなたとなら、結婚してもいいと思ってる」
アレクシスの表情が、驚きから喜びへ変わる。
「それは、君が何もしなくてもいいから?」
「それもあるわ」
「それも?」
メリッサは頬を赤くしながら、彼を見上げた。
「あなたが、私を働き手としてではなく、私として見てくれるから」
アレクシスは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……結婚式の日まで、毎日でも言うよ」
「何を?」
「君が好きだと」
「毎日は多いわ」
「では、一日に何度も」
「もっと多いわよ」
「嫌?」
メリッサは少し考えた。
「……嫌ではないわ」
「なら、決まりだね」
その日から。
アレクシスは本当に、毎日のようにメリッサへ言葉を贈った。
朝の手紙には、
『今日も君が穏やかに過ごせますように』
と書かれていた。
面会の帰りには、
「今日は疲れていない? 無理をしていたら、すぐに休もう」
と声をかけた。
メリッサが書類を見ていれば、
「それは君がしなければならない仕事?」
と尋ねた。
「違うわ。私が気になっただけ」
「では、気になることと、君がしなければならないことを分けよう」
アレクシスは彼女の隣に座り、書類を二つに分けた。
「こちらは君が見なくてもいい」
「でも、問題があるかもしれないわ」
「問題があるなら、担当者に報告させる。君が全部確認する必要はない」
「……」
「君が楽をするために作った仕組みを、君自身が無視してはいけないよ」
メリッサは思わず笑った。
「あなた、私より私の仕組みを理解していない?」
「君を見ているからね」
その言葉に、メリッサの胸がまた温かくなった。
アレクシスは、彼女の仕事を奪うだけではなかった。
彼女がなぜ働きたくないのかを理解しようとしていた。
疲れたくない。
追い立てられたくない。
誰かの期待に応えるためだけに生きたくない。
何もしない時間を、罪悪感なく楽しみたい。
アレクシスは、それらを一つずつ受け止めてくれた。
ある日、メリッサは婚約者として侯爵家を訪れた。
応接室には、侯爵家の執事や文官たちが集まっていた。
「こちらが現在の領地収支でございます」
「こちらは商会との契約書です」
「こちらは使用人の勤務表で――」
メリッサの前に、次々と書類が並べられる。
「……」
彼女の顔が引きつった。
アレクシスがすぐに気づく。
「父上」
「何だ?」
「メリッサに仕事をさせるつもりですか?」
「いや、そういうつもりでは……」
「では、なぜ書類を?」
「彼女なら、見れば問題点を――」
「それは、彼女が望んだことですか?」
侯爵が黙った。
アレクシスは穏やかな口調のまま、しかし一歩も引かなかった。
「メリッサは、侯爵家の仕事をするために嫁ぐのではありません。私の妻になるために来るのです」
「アレクシス……」
「彼女の能力を頼ることと、彼女に責任を押しつけることは違います」
室内が静まり返る。
アレクシスはメリッサを見た。
「帰ろうか?」
メリッサは驚いた。
「いいの?」
「もちろん。君が望まない場所に、無理にいる必要はない」
メリッサは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
前世では。
仕事を押しつけられても、断れなかった。
「自分にしかできない」と言われれば、引き受けた。
「期待している」と言われれば、応えようとした。
けれど。
アレクシスは、彼女が断る前に守ってくれた。
「……ありがとう」
「礼を言うことではないよ」
「でも、嬉しいの」
「なら、何度でもする」
アレクシスは彼女の手を取り、侯爵家を後にした。
馬車の中で、メリッサはしばらく黙っていた。
「怒っている?」
アレクシスが尋ねる。
「違うわ」
「では、悲しい?」
「それも違う」
メリッサは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「守られるのって、こんな感じなのね」
アレクシスは黙って彼女を見つめた。
「私はずっと、自分で何とかしなければいけないと思っていたの。仕事を押しつけられても、嫌だと言えなかった。嫌だと言ったら、役に立たない人間だと思われる気がして」
「……」
「でも、あなたは私が嫌だと言う前に、嫌だと言っていい場所を作ってくれた」
アレクシスは、彼女の肩にそっと手を置いた。
「君は、役に立たなくても価値がある」
「……」
「僕にとっては、君が笑っていることのほうが大切だ」
メリッサは俯いた。
「泣いてもいい?」
「もちろん」
「泣いたら、面倒ではない?」
「まったく」
「重くない?」
「軽いよ」
「嘘」
「本当だ」
アレクシスは彼女を抱き寄せた。
「君の悲しみも、疲れも、全部僕に預けて」
メリッサは彼の胸に顔を埋めた。
「……あなたの前だと、何でも言えそう」
「何でも言って」
「働きたくない」
「知ってる」
「寝たい」
「帰ったら寝よう」
「甘いものが食べたい」
「買って帰ろう」
「あなたに甘やかされたい」
アレクシスの腕が、わずかに強くなる。
「それは、喜んで」
メリッサは彼の胸元で笑った。
「本当に、あなたは私を駄目にするわね」
「君が望むなら、喜んで駄目にする」
「でも、私がまた働きすぎそうになったら?」
「その時は、僕が止める」
「どうやって?」
「抱き上げて、仕事から遠ざける」
「子供みたい」
「君を大切にするためなら、何でもするよ」
その言葉は、甘いだけではなかった。
アレクシスは本当に、メリッサの生活を変えていった。
婚約後の面会は必要最低限に整理された。
社交の予定は一日に一件まで。
領地からの報告は、メリッサに直接届く前に担当者が確認する。
彼女が望めば、いつでも予定を断れる。
「これ、全部あなたが?」
「君が休めるようにしただけだよ」
「……私が自分で作った仕組みを、今度は私のために使っているのね」
「そう」
「私より効率化が上手じゃない」
「君の弟子だからね」
メリッサは笑った。
そして。
少しずつ、アレクシスの隣にいることが当たり前になっていった。
彼と会う日は、朝から気分が軽かった。
彼から手紙が届くと、何度も読み返した。
彼が他の令嬢と話していると、胸の奥がざわついた。
ある夜。
メリッサは自分の感情に気づいてしまった。
「……私、アレクシスに会いたい」
婚約者なのだから、会いたいと思うのは普通かもしれない。
けれど。
「声が聞きたい」
「顔が見たい」
「今日あったことを話したい」
そう思う自分に、メリッサは戸惑った。
翌日。
アレクシスが伯爵家を訪れた。
「今日はどうしたの?」
「君に会いたくて」
「……」
「迷惑だった?」
「違うわ」
メリッサは視線を逸らした。
「私も、会いたいと思っていたの」
アレクシスが目を見開く。
「本当に?」
「ええ」
「それは……」
彼は嬉しそうに笑った。
「今日来てよかった」
「そんなに?」
「君が僕を待っていてくれたように感じたから」
「待っていたわけでは……」
「では?」
メリッサはしばらく迷った。
そして。
「あなたに会えると、嬉しいの」
アレクシスは、彼女の手を取った。
「僕も、君に会えると嬉しい」
「……」
「君が笑うと、もっと嬉しい」
「……」
「君が僕を頼ってくれると、幸せだ」
メリッサの頬が熱くなる。
「あなたは、いつもそうやって私を甘やかすのね」
「甘やかしているつもりはないよ」
「では、何?」
「愛しているだけ」
その言葉に、メリッサは、もう逃げられなかった。
「……私も」
「うん?」
「私も、あなたを愛していると思う」
アレクシスは息を止めた。
「思う?」
「まだ、言い慣れていないの」
「では、慣れるまで待つ」
「待てる?」
「いくらでも」
メリッサは彼の手を握った。
「あなたといると、安心するの」
「うん」
「何もしなくてもいいと思える」
「うん」
「でも、あなたのためなら、少しくらい頑張ってもいいと思う」
アレクシスは、彼女の手を両手で包んだ。
「頑張らなくていい」
「でも、したいの」
「……」
「あなたが喜ぶことなら、してあげたいと思う」
アレクシスは、彼女の額に口づけた。
「それだけで十分だよ」
「何もしていないのに?」
「君が僕を好きだと言ってくれた。それ以上の贈り物はない」
メリッサは、胸の奥がいっぱいになった。
愛されることは、何かを返さなければならないことだと思っていた。
けれど。
アレクシスは、彼女がそこにいるだけで喜んでくれる。
彼女が笑うだけで幸せだと言う。
彼女が休むことを、何より大切にしてくれる。
「……結婚したら」
メリッサが呟く。
「うん」
「本当に、私を働かせないでね」
「約束する」
「でも、私が勝手に働き始めたら?」
「止める」
「何度でも?」
「何度でも」
「私が怒っても?」
「怒らせないようにする」
「私が泣いても?」
「抱きしめる」
「私があなたに甘えすぎても?」
「もっと甘えてほしい」
メリッサは、とうとう笑ってしまった。
「あなたは、本当に私を甘やかすのが好きなのね」
「君が甘えてくれるのが好きなんだ」
「……」
「もっと僕を頼って」
「努力するわ」
「努力しなくてもいい」
「でも、あなたに頼りたいから」
アレクシスは、彼女の指にそっと口づけた。
「結婚式が待ち遠しいよ」
「私も」
その言葉を口にした瞬間。
メリッサは、自分が本当にこの人と結婚したいのだと理解した。
働かなくていいからではない。
侯爵夫人になれるからでもない。
アレクシスが、自分を守り、尊重し、愛してくれるから。
そして。
彼の隣にいると、自分も彼を幸せにしたいと思えるから。
◇◇◇
結婚式の日。
メリッサは、控室で何度も深呼吸をしていた。
「緊張しているの?」
侍女が尋ねる。
「少しだけ」
「アレクシス様と結婚するのが不安ですか?」
「違うわ」
メリッサは鏡の中の自分を見つめた。
「幸せすぎて、夢ではないかと思っているの」
その時。
扉の向こうから、アレクシスの声が聞こえた。
「メリッサ?」
「アレクシス?」
「入ってもいいかな?」
「ええ」
扉が開く。
正装したアレクシスが入ってきた。
彼はメリッサの姿を見た瞬間、言葉を失った。
「……綺麗だ」
「ありがとう」
「本当に綺麗だよ」
「何度も言わなくていいわ」
「何度でも言いたい」
アレクシスは彼女の前まで歩み寄った。
「今日から、君は僕の妻になる」
「ええ」
「でも、何かをしなければならない妻になる必要はない」
「……」
「君は、君のままでいて」
メリッサの目に涙が浮かぶ。
「あなたも、あなたのままでいて」
「もちろん」
「私を甘やかしすぎないで」
「それは約束できない」
「もう」
メリッサは笑った。
アレクシスは彼女の手を取り、指先に口づける。
「メリッサ。僕は君を愛している」
「……」
「仕事ができるからではない。美しいからでもない。君が私の妻になるからでもない」
彼はまっすぐ彼女を見つめた。
「君がメリッサだから、愛している」
メリッサの涙がこぼれた。
「私も、あなたを愛しているわ」
「本当に?」
「ええ」
「何度でも聞きたい」
「欲張りね」
「君のことに関しては、いつもそうだよ」
メリッサは彼の手を握り返した。
「私も、あなたのことなら欲張りになりたい」
「では、僕の時間も、愛情も、全部君にあげる」
「……そんなことを言われたら、本当に何もしたくなくなるわ」
「それでいい」
「結婚式なのに?」
「結婚式の後は、何もしなくていい」
「でも、皆様への挨拶が」
「必要最低限でいい」
「ダンスは?」
「一曲だけ」
「その後は?」
「僕と一緒に休もう」
メリッサは笑った。
「本当に、私の理想を分かっているのね」
「君を見てきたから」
二人は手を取り合い、式場へ向かった。
その日。
メリッサは、アレクシスの妻になった。
そして。
彼女が望んだ通り。
アレクシスは、彼女に仕事を押しつけなかった。
ただし。
メリッサが屋敷の不備を見つけてしまうまでは。
◇◇◇
結婚して三日目。
メリッサは屋敷を歩いていた。
「……あら?」
廊下の隅に、埃が溜まっている。
「メイドさん」
「はい!」
「ここ、お掃除の範囲に入っていないの?」
「申し訳ございません。担当が曖昧になっておりまして……」
「担当表を作りましょう」
「はい!」
翌日。
完璧な清掃担当表が完成した。
さらに三日後。
「……この備品、在庫管理してないの?」
「しておりません」
「発注が重複してるわ」
「えっ」
「倉庫を見せて」
一時間後。
「不要な備品が大量にありますね」
メリッサは腕を組んだ。
「在庫管理表を作って、発注担当を一人にまとめましょう」
「はい!」
翌週。
「この決裁、どうして三人の承認が必要なの?」
「昔からそういう決まりで……」
「必要?」
「……分かりません」
「じゃあ、見直しましょう」
その翌週。
屋敷の仕事は、驚くほど効率化されていた。
使用人たちは感動した。
「メリッサ様、ありがとうございます!」
「いえ……」
メリッサは遠い目をした。
「私はただ、無駄をなくしたかっただけ……」
アレクシスが笑う。
「君は本当に仕事が好きなんだね」
「違います!」
メリッサは即座に否定した。
「私は仕事が大嫌いです!」
「でも楽しそうだよ?」
「違います!」
それからも。
メリッサは何かを見つけるたびに改善してしまった。
「この帳簿、二重管理になってる」
「この伝達方法は非効率ね」
「この倉庫、動線が悪いわ」
「この会議、毎回同じことを話してない?」
「この契約書、もっと分かりやすくできるわね」
そして。
「……また改善してしまった」
メリッサは頭を抱えた。
働きたくない。
本当に働きたくない。
なのに、目の前に非効率があると、どうしても気になってしまう。
前世で染みついた社畜根性は、そう簡単には消えなかった。
アレクシスは、そんなメリッサを見ているうちに、あることに気づいた。
彼女は仕事が好きなのではない。
無駄が嫌いなのだ。
誰かが意味のない作業で疲れているのを見るのが嫌いで、頑張っている人が報われないことを放っておけない。
だから、仕組みを整える。
そして、整え終わると満足して、ようやく休める。
「メリッサ」
ある夜、アレクシスは彼女の手から書類を取り上げた。
「今日はここまで」
「でも、あと少しで終わるわ」
「その『あと少し』を、君は何度繰り返した?」
「……」
「君は、仕事を減らすために仕組みを作ったのに、仕組みを作ること自体を仕事にしている」
「それは……」
「だから、僕が君の休む時間を決める」
アレクシスは書類を机の端へ置き、メリッサの隣に座った。
「毎日、夕方になったら仕事は終わり。残りは翌日に回す」
「でも、急ぎのものが」
「急ぎのものは、担当者が報告する。君が全部抱える必要はない」
「……」
「君が作った仕組みを、君自身が信じてあげて」
メリッサは、しばらく黙っていた。
「あなたは、私より私のことを分かっているみたいね」
「君を見ているから」
「……そういうところが好きなのよ」
「今、何か言った?」
「聞こえたでしょう」
「もう一度聞きたい」
「嫌」
「メリッサ」
「……あなたが、私を見ていてくれるところが好き」
アレクシスは、彼女の手を取った。
「僕は、君のことならいくらでも見ていたいよ」
「仕事をしている私も?」
「もちろん」
「何もしていない私も?」
「一番好きだ」
「……」
「君が何もしないで、安心した顔をしていると、僕まで幸せになる」
メリッサは、彼の肩に頭を預けた。
「私、あなたと結婚してよかった」
「僕もだよ」
「働かなくていいと言ってくれたから?」
「それだけではないだろう?」
「ええ」
メリッサは目を閉じた。
「私を、私のまま愛してくれるから」
アレクシスは、彼女の髪を撫でた。
「これからも、何度でも言うよ」
「何を?」
「君が好きだと」
「……なら、私も何度でも言うわ」
「何を?」
メリッサは顔を上げ、彼を見つめた。
「あなたが好き」
アレクシスは嬉しそうに笑った。
「もう一度」
「欲張りね」
「君のことだから」
「……大好きよ、アレクシス」
彼は彼女を抱きしめた。
「僕も、愛している」
その夜、メリッサは仕事を途中で切り上げた。
アレクシスの隣で温かい紅茶を飲み、彼の肩に寄りかかりながら、何もしない時間を過ごした。
それは、彼女にとって特別な時間だった。
何かを成し遂げなくてもいい。
誰かの期待に応えなくてもいい。
ただ、愛する人の隣にいるだけでいい。
◇◇◇
そんな生活が続いたある日。
メリッサは突然、動きを止めた。
「……あれ?」
「どうした?」
アレクシスが心配そうに近づく。
「なんだか、気持ち悪い……」
医師を呼ぶ。
そして。
診察の結果。
「おめでとうございます」
「…………え?」
「お子様です」
メリッサは目を丸くした。
「私……母親になるの?」
「はい」
隣にいたアレクシスは、しばらく固まっていた。
そして。
「メリッサ」
「なに?」
「もう仕事は禁止」
「え?」
「領地経営も禁止」
「でも――」
「禁止」
「屋敷の改善も?」
「禁止」
「書類の整理くらい――」
「禁止」
「会議だけでも――」
「禁止」
「でも!」
アレクシスはメリッサを抱き上げた。
「君は今まで十分すぎるほど働いた」
「……」
「これからは休んで」
「でも、暇よ?」
「暇でいい」
「何をすればいいの?」
「何もしなくていい」
メリッサは固まった。
「……何もしなくて?」
「そう」
「本当に?」
「本当に」
「一日中?」
「一日中」
「寝てても?」
「いいよ」
「お菓子を食べてても?」
「いいよ」
「本を読んでても?」
「もちろん」
「昼寝しても?」
「むしろしてほしい」
メリッサの目が、ゆっくり輝いた。
「…………」
そして。
ふかふかのソファに横になる。
クッションを抱える。
温かい紅茶を飲む。
隣にはアレクシス。
「…………これ」
「うん?」
メリッサは幸せそうに呟いた。
「これが……」
「?」
「これが本当に、私が求めていたグータラ生活……!」
それからのメリッサは、とことん甘やかされた。
朝は好きなだけ眠る。
起きれば温かい朝食が用意されている。
昼は読書。
眠くなれば昼寝。
疲れたらアレクシスが膝枕をしてくれる。
「メリッサ、今日は何をしたの?」
「何もしてない」
「偉いね」
「……何もしてないのに?」
「うん」
アレクシスは笑った。
「君が何もしないで幸せそうにしているのが、一番嬉しい」
「……」
メリッサは胸がいっぱいになった。
前世では、働くことに追われて、休むことに罪悪感を覚えて、何もしない時間を「無駄」だと思っていた。
けれど、今は違う。
何もしなくても、誰かが自分を大切にしてくれる。
頑張らなくても、愛してもらえる。
それが、こんなにも幸せだったなんて。
メリッサはお腹をそっと撫でた。
「ねえ、アレクシス」
「なんだい?」
「この子が生まれても……」
「うん」
「私、グータラしてていい?」
アレクシスは即答した。
「もちろん」
「……本当に?」
「むしろ僕が許しません。働こうとしたら止めます」
「ふふっ」
メリッサは笑った。
そして。
夫の肩に頭を預ける。
「じゃあ、もう少しだけ……」
「うん」
「何もしないでいるわ」
「いくらでもどうぞ」
窓の外では、穏やかな風が庭園を揺らしている。
メリッサは目を閉じた。
働かなくていい。
頑張らなくていい。
何かを成し遂げなくてもいい。
ただ、愛する人とお腹の子と一緒に。
ゆっくり。
のんびり。
何もしない時間を楽しむ。
――それこそが。
前世の自分が、ずっと欲しかったものだった。
「……幸せ」
メリッサが小さく呟く。
アレクシスは笑って、彼女の髪を撫でた。
「僕も幸せだよ」
こうして。
「働きたくない」という強い意志から始まったメリッサの効率化人生は、なぜか周囲から「伝説の敏腕令嬢」と呼ばれるまでになった。
けれど。
本人にとって一番の成功は――何もしないことを許してくれる、大切な家族を手に入れたことだった。




