02話 南風のオレンジ
ぼくたち伊豆箱根航空隊の麁正発進基地は、巨大火山跡のカルデラ。その中にある大きな湖のほとりにある。
このあたりは標高が700メートル以上あり、また涼しい湖風も相まって真夏であっても心地いい。夏の避暑地として最適で、観光地としても両立するほどだ。
今は休止しているが、明治の頃にはもう豪華な遊覧船も出ていたそうだ。
とくにこの発信基地を見下ろせる場所にある丘は、見晴らしもよく、カイトとぼくのお気に入りの場所だった。
基地の脇に立てられている大きな吹き流しが、風をいっぱい含んで南南西を向いていた。
ぼくは何気なく吹き流しを揺らした風の行方を目で辿る。
風は生き物のように植物を波立たせ、家々の光る瓦屋根を飛び越えて、ザワザワとはるか外輪山へと昇っていく。
!?
みどりの丘の稜線に女の人が居た。
遠くて顔立ちは分からないが、まるで絵から抜け出したような美しいシルエットが
白い日傘を差して立っていた。
そんなはずはない。と思うのだが、彼女はぼくを見ていると思った。
ぼくが彼女をぼんやり見ていると、一直線に目があった気がしたからだ。
すると、そう感じた瞬間、彼女は慌てたように踵を返した。
それはオレンジのボールがぼくの額に当たるまでの束の間の時間だった。
「あ痛て」
「こらー、ドウシャどこ見てんだー?」
「あ、あそこに……!」
カイトが後ろを振り向いて、ぼくが説明しようとしたときには、もう女の人は居なくなっていた。
なんだったんだろうか……?
カイトは「ドウシャ!」と僕の名を呼び、強風もお構いなしにキャッチボールを始める。
彼の投げるボールのオレンジ色が、青空と白い雲と緑の草原とのコントラストでクッキリ見え、それがよけいに浮世離れした光景としてぼくの瞳孔に入ってくる。
まるで高速度撮影されたフィルムがゆっくりと映し出されるように……。
カイトがぼくに向かって投げるボールには、この世の楽しいものしか詰まっていない。
天国からやってきたようにさえ思えた。
風に流され予想外にカーブするボールをぼくが態勢をくずしてよろけながらなんとかキャッチすると、カイトがアハハハッと屈託のない顔で笑った。
「このー」と投げ返してやるが、さすがのカイトは、高めに逸れた暴投もふわりと飛び上がって余裕で捕らえてしまう。見事なもんだ。
そして、またすぐ投げ返してくる。
慌てて捕る。投げ返す。アハハと笑って投げ返してくる。サッと捕って投げ返す。変なタマを投げ返してくる。負けじとムキになって捕る。
気を抜くとついぎこちなくなってしまうぼくが
あっという間にカイトのペースに乗せられてしまった。
心が弾まずにいられない。
丘の斜面の草原を駆け上がってくる風にぼくたちの白いシャツが膨らんではためく。
風が乱暴に髪をかき乱すのに一向に気にならない。ただ心地よい。
その風には、どこから来るのかかすかに南国産の甘い果実の香りが混ざっていた。
ぼくはカイトがその香りを生み出しているかのように錯覚しそうになる。
彼と、きらきら光る湖のほとりの発進基地を見下ろしていると、言いようのない万能感に包まれて生まれてきて良かったと感じるのだ──。
ぼくの今までの人生が、決して不幸だったわけではない。
幸か不幸かを勘定できるほど生きていない。
ある日突然、事業をしていた父が死んで。
返しようのない借金だけが残り、兄妹たちはバラバラに引き取られていき。
気がつくとぼくは東京の叔父に引き取られていた。
あとはもう……、何もかもがよく分からなくなっていった。
分かりたくもなかった。
東北の寒村では珍しくもない話だ。
帰る場所も、振り返る思い出も、存在理由も、どうでもよくなるほど曖昧に薄めに薄めて、腹の底のずっと奥のほうにに飲み込んで忘れた。
ただひとつ、消えずにハッキリしていたのは。
ぼくは速いものが好きだということだ。
小さな頃からスピードに魅せられていた。
とにかく速いものになりたかった……。
競馬の騎手になりたい、なんて思っていたこともあった。
飛行機というこの世で最も速い発明を知るまでは。
叔父の使いで行った役場で『皇国少年航空兵募集』のポスターを見た瞬間、全身に電流が走り、ぼくの運命は決定した。
これだ。
これしかない。
絶対にこれになるんだと。
危険なことはわかっていた。
だがどうしても飛びたかった。
何よりも速く飛べるなら死んでもいい。
飛行機の勉強をすればするほど決心は固くなった。
速さという歓喜に満ちた流体力学、ベルヌーイの法則に包まれて逝くのだ。
位置エネルギーと圧力のエネルギーが織りなす和と成し。
流体中の流線上で一定であるという法則の一部となるのだ────。
どんなに反対されようとも、それはもう誰にも変えられない決定事項だった。
あれから夢にまで見た飛行機乗りに成り。
遠くあこがれたカイトという男と一緒に飛べるようにもなった。
これ以上の幸せは、たぶん一生かかっても探し出せないだろう。
もうすぐぼくらの人生は終わるんだから…………。
──戦局の悪化に伴って、敵爆撃機襲来の頻度も数も増えていく。
逆に
あんなにいた同期の仲間たちは、どんどん数を減らしていった。
初めは遥か高みに見上げていた先輩だったカイトに、ぼくが並んで立つぐらいみんな死んだ。悲しい出来事のはずなのに、どの顔も笑顔しか思い出せない。
すぐに『主計官グルグル事件』が頭に浮かんだ。
思い出し笑いで不意に吹き出す。誰が呼んだか、この絶妙なネーミングが笑わずに居られない。
ぼくらの間で長い間語り草となったあの事件だ。




