最終話 ぼくたちは、ただ空へ還る
傷に痛みが走り、不意によろけたところを、シュウさんに支えられた。
その途端、倒れるグラスを掴み止めたように、中に波々と入っていた涙が一気に流れ出て、止まらなくなった。
ぼくは、婦女子の前で泣くなんて一生絶対にすることは無いと思っていたが。
そんな……、そんな男の最低限のプライドも無くすようなマネは絶対にするはずがないと思っていたが。
どんなに堪えても勝手に涙が溢れてきて、それがボロボロと滴り落ちて、自分では止めようが無かった。
恥ずかしくて仕方がない。
もう体がまるで自分のものではなくなったようにどうしようもなかった。
ぼくは壊れてしまったんだ。
「すびませんッ……!」
やっと声を絞り出してシュウさんに詫びた。
みっともない姿を晒したことを詫びた。
情けない鼻声が出た。
ブルブル震えていた。
体の芯からブルブルと震えていた。
嗚咽が漏れる。
足元が歪み、ピンとがズレたようにぼやけた。
シュウさんに支えてもらっているにも関わらず
ぼくは彼女が今すぐ消えてくれれば良いのにと強く願った。
男が泣いている姿を見るんじゃない。
いい加減、察してどこかに行ってくれ。
頼むから! わからないのか!
これではおめおめと辱めを受けているのと、なんら変わらないではないか!
屈辱だ。屈辱過ぎる。頼むから。頼むから、少しは気を利かせて今すぐどこかに消えてくれ。真っ赤に充血した感情がゴオゴオと顔面を覆いつくして、理性を黙らせた。
自分勝手であることなんて百も承知だ。
知ったことか。
もうカイトは居ないんだ。
これ以上は大きなお世話だ。
放っておいてくれないか。
…………頼むから一人にしてくれ。
ぼくをここに置いて、何もかも忘れて、今すぐどこかに行って欲しいんだ。
カイトについてきみに語ることは何もない。
ぼくとカイトだけの思い出だ。
ぼくはもう、これ以上の醜態を晒すことに耐えられない。
このまま朽ち果ててしまって構わないんだ。
シュウは、ドウシャのシャツのそでをぎゅっと掴み、目を強く閉じて首を振った。
(なんで……。なんでお兄様は、こんな奴のために……!)
彼女の心もまた、やり場のない怒りで燃え上がっていた。
なんなんだこれは。
なんでお兄様が死んでこんなのが生き残っているのか!
なぜこんな、少し目を離せば、繋ぎ止めておかなければ、そのまま消えてしまいそうな弱々しい男を残して、お兄様は逝ってしまったのか。
ぜんぜん納得が行かない!
今まで自分は納得が行かないこととは、とことん戦い抜いてきた。
妥協なんてしなかった。
女と舐めた連中をことごとくひれ伏せ土下座させてきた。
どいつもこいつも私を下卑た欲望に満ち溢れた目で見ることしか出来ないケダモノどもだった。
興行主側の恫喝も
労働争議で捕まったときの警察の取り調べも
ふんぞり返ってた上海や満州の軍人たちも
みんなへっちゃらだった。
負けるもんですか。
全部勝ち取ってきた。
何ひとつも私から奪わせなかった。
なのになぜこんなやつにお兄様を奪われたのか
お兄様を永遠に連れ去られたのか。
お兄様には、輝ける幾万の可能性があった。こんなやつと違って。
なのによりによって、こんなやつを助ける為に死ぬなんて。
そして、自分は今なぜこんなやつを支えているのか────。
すると脳裏に浮かぶ兄はあっけらかんと言った。
『シュウ。自分の気持ちに素直になるんだ。ドウシャのことを頼んだよ……』
ニッコリ笑って言ってのけた。
そんなことだろうとは思っていたが、それでも腹が立って仕方がない。
(なんでお兄様は、いつもシュウに意地悪するのッ!?)
シュウは心のなかで叫んだ。
心のなかに住んでいる兄の幻想に向かって思い切り叫んだ。
いつもいつも、小さな頃から、兄は何かと自分に他愛もないイタズラをした。
腹立たしいのだが、それ以上に美しい兄が構ってくれることが嬉しくて仕方がなかった。
あの日、わたしがこんなやつと会わせてくれなんて言ったからこうなったの!?
また絶好のイタズラのネタを掴んだとでも思ったの?
だが兄は、ニッコリと笑うだけなのだ。
生きているときと何ら変わらない姿で!
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッッ!!!!!」
突然大声で泣き出したシュウ。
両手をぎゅっと拳にして、握りしめ。
幼児のように立ち尽くして、顔を上げ、大口を開けて泣いた。
ドウシャはビクッとして呆気にとられた。
シュウはあまりにも悔しかったのだ。
心のなかに住んでいる幻想の兄でさえ、自分ではなくこんなやつに取られてしまっている。
それが我慢ならずに泣いたのだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッッ!!!!!」
――そのとき、一陣の風が彼女の真っ白な日傘をさらった。
パラソルは、あたかも重力から解き放たれたカイトの魂のように、入道雲の彼方へと高く、高く舞い上がる。
その白さを追って、ぼくらは空を見上げた。
泣きじゃくる彼女と、呆然と立ち尽くすぼく。
空から見れば、それは夏の終わりの丘に点在する、ちっぽけな二つの影に過ぎなかった。
ドウシャはシュウの手を握り直した。
彼女の脈動と自分の脈動が、ひとつのリズムを刻んでいる。
その感触が、ドウシャの心に鮮明な記憶を蘇らせた。
遊び足りないと駄々をこねて泣く妹たちの手を引いて夕日の農道を帰った、遠い日の記憶だ。
かつて守れなかった妹たち。
それが彼女の脈動に重なって、ぼくは気がついた。
今まで自分から抜け出していた、自分の正体のようなものが舞い戻ったように。
ここからは、選ばなかった道の話だ。
あんなに世界を埋め尽くしていたセミの声は、いつの間にか遠のいている。
カイトを連れ去り、戦争を連れ去り、そして今のぼくらの慟哭さえも、空の彼方へと淡々と運んでいく。
生い茂った木立の緑は、ゆっくりと飽くこと無く手を振り続ける送り人にも見えた。
「まるで代わり番こだな」と、ぼくはつぶやき、急におかしくなった。
誰かがそばで自分より取り乱して泣いていると、たちまち冷静さが戻ってくる。
それはさながらカイトが笑ってくれているときのような気持ちだった……。
『ぼくたちは生まれ、そして死んでいく。
ただそれだけだ。 ただ……それだけだ……』
在りし日のカイトの言葉がドウシャの中をすっと流れていた。
カイトらしい言葉だとドウシャは改めて思った。
ドウシャはシュウの震える手を両手で包み込んだ。
ぎゅっと握られた手の、ふよふよと柔らかい甲をいたずらに親指で撫でてみた。
鉛のごとく重かった肩の荷が、ふっと風に流されてゆく。
……
…………
ふたりは日が傾くまでそこに居て
やがてこどものようにお腹を空かし、夕日の中を帰っていった…………。
── 還らざるロケット推進戦闘機隊 おわり ──




